第2章 双翼・連理-4
店内に他の客はいなかった。店主は散髪用の椅子の背もたれを倒し寝転びながら端末をいじっていて、閑散の理由が分かるようだ。
「お久しぶりですリステロさん」
「1人、これから大丈夫?」
「お客さんがいなきゃいつでもいいよー。基本的に暇だし」
だからいつでもどうぞ、と店主のリステロ・ハリマルシェさんは笑う。この店には何度も来ているので顔馴染み以上の関係だ。お気に入りの席もあるし、勝手に座っても怒られない。
「じゃあやっちゃって。溶けてるところを落として、全体的に短く」
「あららやられちゃったの、まったく酷いよねー。ああ、くっついちゃってるじゃん。っていうか短くていいのお兄さん?」
「姉さんがそうしたいっていうならいいよ。気分転換にもなるし。でも、あまり短すぎるのはやめてね」
「やられたのはアタシのミス。というか兄貴の言うことは聞かなくていいぞ」
「だって双子でしょー。一心異体なんだからちゃんと片方の意見も聞かなきゃ」
しゃべりながらタオルとクロスが丁寧に付けられていく。椅子が倒れて頭が洗面台に降りる。お湯のシャワーとシャンプーが頭を洗い流し汚れを落とし、元の姿勢に戻る。リステロさんのすっとした顔が少しの緊張と高揚感を呼び起こす。
鏡の中でハサミが店主の手の中に収まった。パチリ、と一度刃が鳴る。その音で身が引き締まる。
「じゃ、始めるよー」
気の抜けた声に身体のこわばりが溶けていく。軽く目を閉じれば頭に神経が集中して身体は意識の外、少し腕を動かしても自分のものじゃないみたい。
くしが髪を梳く。伝わってくる感触に頭が震えた。
髪を切られるのは好きだ。
手がすっと髪に添えられて、ハサミがしゃきりと音をたてて身体の一部だったものを落としていく。髪が分断される感触が頭に響くとすっきりする。
「最近どうなの? ネフィリムはさ、僕らのときより強くなってるんでしょ」
「大丈夫ですよ。醒者の方も、それ以上に強いのが出てきていますから」
髪を切られている客そっちのけで会話が動いている。だけど気にならない。髪が身体を離れていくリズムは一定で、大きく力が変わることも無く、眠気を誘う心地よさだ。話しかけられてこの心地よさを崩されるのは逆に嫌だ。
「虹の醒者だっけ? たまに話を聞くよー」
「たまに? 他の人もここを使っているんですか?」
「ここなら変なこと話しても大丈夫だしねー。ほら、君たちも知ってるけど、僕って一応醒者なわけだし」
馴染みの方がいいんだよー、と気楽に言う。
「じゃあ職員も虹の醒者のことを?」
「人探ししてるって言ってたねー。まあ、僕にはアドバイスなんかできないんだけどさー」
リステロ・ハリマルシェ。もう40歳を過ぎていて、かつては醒者としてネフィリムと戦っていたという。自慢話よりも、どれだけ弱くて他の醒者の足を引っ張っていたかを強調したり、初期の対応や組織の不完全さを話したりと、ペブルはよく聞いてたけど自分はあまり覚えていない。
「シシェーレ・ルシャナという人については?」
「それも聞かれたよー。でも何も知らない。その人はまだ28歳でしょ? 監督者なんてここ10年くらいでできた役職だもん。僕が醒者やってた時期と入れ替わりだし、繋がりもないし。分からないよ」
「職員の方からは、前には」
「無いよ。君たち司令部の人は管理部とあまり関係が無いんでしょ? 向こうから来ている人のことをあれこれ言うより管理部の愚痴になっちゃうからね。名前が出るのは……うぅん、醒者のことくらいだねー」
兄貴はイリスの想い人のことを調べているらしい。アタシ自身も多少は気になるけど、そんなに強く調べるなんて余程気になることでもあるのだろうか。
「じゃあ、調べられる?」
「そんなに気になることあるの? もしかして虹の醒者のため?」
「馬鹿なこと言わないで。面白そうだからだよ」
「何が?」
「アリマ・マツダが絡んでいる」
その名前が出た瞬間、髪が強く引っ張られた。ハサミが髪を切り損なって噛んだのだ。
「……なかなか穏やかじゃあないね」
「たった一人の監督者のために出てくる人じゃない、でしょう。でもイリスとマツダが会話していたっていう記録は残ってる。タイミングからしてシシェーレのことのはずなんだ。──面白そうじゃない?」
いったんハサミが抜かれ、また差し込まれる。リズムは戻っているけど、なんだかさっきよりも恐る恐るといった感じだ。
「それを面白いと言える勇気はすごいけど、あまり口に出したい話題じゃないねえ」
「何か知っているんですか?」
「そりゃあ君たちの倍以上生きてるし。というか、君たちこそあの男について何を知っているんだい?」
「この都市の実質的な支配者、くらいは」
そうなのか。アタシは名前を聞いたことがあるくらいだったけど。
「それで合ってるんだけど、ああそうか。分かりやすく言うと、救世主かな」
「……大袈裟では?」
「メサイア・コンプレックスって知ってる? 人を、世界を救わなきゃいけないって使命感にかられている人のこと。醒者なら思想教育で必ずやるでしょ」
「はい……それを自覚させたうえでなお自発的に人を救いたいと願う気持ちが湧いてくるのは洗脳以上に厄介ですね」
「そういう気持ちを最初から持って、しかも自信に満ちていて、行動力もあって、でも力が足りないと考えている。それがアリマ・マツダ。あの男はね、きっと醒者になりたかったんじゃないのかな」
でも、ただの人。
「その代わり、神子が醒者となるプロセスを確立させてネフィリムっていう未曽有の大災害から人類を救うことにしたんじゃないか、って僕は思っているんだ」
「もしかして、どこかで会ったことあるんですか?」
リステロの手が少し止まった。ゆっくりと髪を切りに戻るが、何か繊細なものを扱っているかのように慎重さが感じられる。
「20年くらい前、僕が醒者として活動を始めたばかりの頃だよ。前線──といっても僕たちが休憩しているくらいの場所で、きちんと働いているか……監視人としてね。仕事をしたかどうかはネフィリムを倒せたかだけじゃなくて、地上に被害を出さないかってのもあったんだ。僕はてんでダメダメで──と違うか。アリマ・マツダはね、見ているだけなんだ。他の監視人はあっちを守れとかお前が戦えとか、安全な場所から口しか出さなかったけど、あの人は本当に見ているだけだった。それでいて終わった時には自分ならこうしたとかまとめて見せてくれるんだ」
「迷惑ではなかったんですか?」
「そりゃ、中には馬鹿にしてるのかって怒りだす醒者もいたよ。でも僕たちも使命には燃えていたし、利用できるならしてやろうって感じだったし。何回か会うたびに偉くなっていくんだ、あの人は。そのうち彼自身は来なくなったけど、手紙が来てね」
古風なことだ。
「僕と仲間が連合企業に正式にお抱えの醒者として招待されたんだ。そういう動きは前からあったけど、連合企業全体を守れるように調整して配備するなんてことはそれが最初。その功績を元に連合企業の一角を乗っ取って、醒者が人並みに生活できるようにしている」
どこか寂し気に言って、ふう、というため息と共に前髪が落ちた。
「きっと、一方的にこちらから知っているだけだけどね。もしかしたらシシェーレって人もそういう関係だったのかもしれないよ。ああいや、アリマ・マツダの方から探してるんだっけ。それはすごいね」
それならどうして逃げたのだろうか。そっちの方を考えてもいいのかもしれない。自分だったら、もしここから逃げるとしたら、どうしてだろうか。兄貴と一緒に居られなくなるなら2人で逃げるだろう。他には? 殺されそうになるとか。でもシシェーレは醒者だとバレただけであってむしろ待遇が良くなるはずだ。だからアリマ・マツダが探すのは理解できる。でも、逃げた理由が分からなくなってくる。
心地よさの中に思考が侵略してきた。地上から見た灰雲のように広がって、でも光明は見えなくて煮詰まりそうにもない。
そのもやもやを吹き飛ばす軽い声。
「これで終わりー」
目を開ける。鏡に映る自分は少し頭の形が変わっただけなのに見慣れないもので、どこかおかしな感じさえする。
「兄貴、どう?」
「似合ってるんじゃない。ちょっと男の子っぽいかもしれないけど」
「じゃあ問題ないな」
でも、自分が変わるというのはおかしさと同時に爽快さもある。
最後に髪を洗って切った髪を落として、乾かせば終わりだ。
お代を払いながら気になって、
「こんなので儲かるのか?」
「ないない。人の手で散髪するのも減ってねー、というか機械の方が上手く切れるし。道楽じゃなきゃとっくに辞めてるよー」
醒者だった頃に稼いだお金と司令部の補助がなければもう駄目、と。
当時はアタシたちとは制度が違ったそうだ。傭兵に近くて、ネフィリムを撃退した数だけ報酬が入る。その後に組織に属するようになったけど、神光も出なくなってきて床屋に専念している、ということだ。自分たちのように、生活と引き換えにネフィリムを倒しているのとどちらがいいのだろうか。
「……僕たちはそんなに逞しくないからね」
兄貴がつぶやいた。この都市の庇護を受けなければ生きていけはしない。醒者は完全に、制度として組み込まれてしまったのだろう。こんな力があれば反抗も容易いだろうけど、外に出たって生きていくことはできない。
「そんじゃ行こうぜ。新しい髪形でデートの続き」
「ありがとうございます。それじゃ、また来ます」
「ありがとうございましたー」
床屋を出る。カラン、と背後でベルが鳴った。
「姉さん、どこに行きたい?」
「兄貴とならどこでもいい。けど、そこらへんうろついてみる」
髪の感じも知りたいし、と笑った顔に風が吹いてきて短い髪が空中で踊る。首筋に風が通って頭皮も騒ぐし心地よい。流し切れなかった切りカスが飛んでいくような錯覚がした。
「じゃあお昼も近いし、お店探そうか」
「はァい」
食事ができる店はどこにでもある。だけどわざわざ探すと言うのだから一緒に歩きたいのだろう。今度はこっちから手を繋いだ。
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