第2章 双翼・連理-3
「なーんだ、お嬢様じゃないか」
姉さんが前に出た。イリス・アースウィは泣き出しそうな顔をしてビルの入り口に陣取っている。普段は自分の階から出ないで姿も見せないのに、どうした風の吹き回しだろうか。
「そこ、どいてよ。アタシ達はこれからデートなんだ。人の道を邪魔しないでくれるかなァ?」
「姉さん。ちょっと待って怯えてるよ。もう少し優しく──ね、どうしたのかな? 用事は何かな? きちんと話せる?」
黙って下唇を噛んでしまった。それでもその場から離れようとしないのは、強情というか何というか。せめて口を開いてくれればいいのに。
「行こうぜ兄貴。こんなのに構ってることない」
「……そうだね」
入り口は数人が並んで通れるくらい充分大きい。イリスの脇から抜けて外に出ることは簡単だ。
でも、イリスはそうはさせてくれない。横に行こうとすると斜めに下がって道を塞ぐ。
「あのさァ。人の邪魔するのはやめてくんないかなァ。急いでるってわけじゃないけどアンタのために使う時間は惜しいのさ。用があるならとっとと済ませてくンねえかなあ」
段々と姉さんのイラつき度合いが上がっている。イリスは姉さんの顔を見ているのに所在なげで、口を開こうとしているのかしていないのか。あまり姉さんを不機嫌にさせないでほしい。
「あのさ」
「──あのっ!」
いきなり声が出てきた。
「お二人は監督者と一緒に“仕事”をしたことがあるんですよね。だったらシシェーレ・ルシャナという人を知りませんか。噂くらい、名前くらいは聞いたことがないんですか」
堰が決壊したように言葉が出てきた。こういう人は職員によくいる。こっちが醒者だと知っていて、敬意か畏怖か知らないけど緊張して、でもどこかでいきなり用件を伝えて糸が切れたように止まる。
でも、イリスの場合は重度の人見知りだろう。あんな環境じゃあそうなるのも無理は無いけど。そして姉さんはまどろっこしいのが嫌いだ。
「あのさァ。いきなりそんなこと言われても、というかそんなことすぐに言ってほしいんだわ」
予想に違わず不機嫌が増している。
「わざわざそれだけのために時間取らせたってわけ? ひと言で終わりじゃん。ンな風にしてないでさ」
あちらが動けばこちらも動き始める。それも何倍となって。
「第一、その誰だっけ、シシェーレってやつなんて知らねえけどさ、そんなのデータベースにあるじゃん。探せば見っけられんじゃないの。逃げたんでしょ、行動パターンから今いる場所とか分かるんじゃないの」
「だから、データがなくて、それを探していて」
「第一さ、アタシら二人は監督者の意見なんてほとんど聞かない。誰だったかも覚えてない。他の醒者は知らないけどね。アンタは監督者や他の醒者も無視してずっと1人でやってたから分からないだろうがリップルとペブルと言えば有名なんだよ。声をかける前に調べたら? ああ、そんなまだるっこしいことしてたら一生誰とも話せないか」
ハハ、と軽く笑う。イリスはまた下唇を噛んで、下を向いて止まってしまう。
面倒くさいけど仕方ない。ここで問答するのもこじれるのも、後々の面倒になる。
「姉さん。そこまでにして。時間がもったいないよ」
「でもなあ」
「姉さんの態度が怖がらせているんだよ」
自覚しているのか思い出したのか、ばつが悪い、と顔を背ける。
「ごめんね、あまり他の人と話しなれていないんだ。でも、今度からもう少し早く話してくれないかな。別にネフィリムってわけじゃないんだし」
顔が上がる。目が合って、ついと逸らされてしまう。リップルは少し勝ち誇ったように笑い顔。
「僕もその人のことは知らない。僕たちの監督者だったことがあるかもしれないけど、そんなことは気にしていないから。でも、今度からは気を付けてみるよ。ね、姉さん?」
「……アンタがきちんと話ができるなら、何か耳にしたら伝える」
ぶっきらぼうに言ってそれだけ。口を閉じてしまうが、もうそこまで機嫌が悪い感じじゃあない。
イリスは頷いて横に引いた。これで良かったのだろうか。
外に出ると陽光が眩しい。
「しっかし兄貴。あんま中途半端なところで止めんなよ」
「だから止めたんだよ。さすがに上から目を付けられることは避けたいし」
問題を起こせば指導が入る。醒者であってもそれは変わらない。行動が制限されるのは、姉さんと二人でいるのに障害になるかもしれない。もし別々の階に分けられたら? 想像するだに寒気が走る。
「そう……ありがと」
しかしまあ、後ろを見るとイリスは入り口前に戻っている。ずっとあそこで待っているのだろうか。通る職員はいくらかいるけど辛抱強く待ってくれていたんだろうか。そうだろうな。醒者を無下に扱うことはできないし。お疲れ様である。
美容院までの道のりは少し遠い。なにせここはこの空間の端にあるのだ。
ビルを見上げる。職員たちは司令部と呼んでいるけどビルの正式な名前は知らない。曲面状の壁は床から天井まで隙間なく立ち、横には他のビルたちが同じように並んでいる。本部の断面は扇状になるだろうかと思いきや、壁の向こう側にも広がっているからさらに複雑な形らしい。
その柱に囲まれたこの空間はところどころが歪んだ長方形をしている。第12番目の連合企業傘下の統治区、地底都市エウロペの端っこ。その実態は、醒者を監視し閉じ込める檻のひとつだ。
「姉さん、何かいる? 食べ物とか飲み物とか」
「喉は渇いてないけど何か食べたいかな。兄貴の好きなものでいいよ」
「じゃあ姉さんの好きなもの買ってくるね。ちょっと待ってて」
「いいってのに……」
小売りの店はそこらにある。ここはまだ端の方だけど、働いている人がいる限り商売は無くならない。
豚肉をスライスし野菜と一緒にパンに挟んだものを持って帰ると姉さんが携帯端末を操作して何かを見ていた。
「はい」
「ああ、ありがと。これ見てくんない?」
「えっと……」
映っていたのは動画を止めたものだ。
「青い光?」
青と言うにはもっと濃くて深い。さながらサファイア、いや、もっと濃い。
「これ、人だよね」
「そうだね」
その光を出しているもの。青色に包まれている人にしか見えない。つまり醒者なのだろう。でも、こんな色は知らない。神光は各自の色に光り、どれ一つとして同じ色は無いはずだ(人の目には同じに映っても機械で判別すれば別なんだそうな)。
「もしかして、これがシシェーレっていう人?」
「そうみたい」
よく見てみると、全身が青い光に見えたのは青い服を着ているからだ。はっきりとは見えないが、ゆったりと袖が大きくて民族衣装に感じる。その部分だけ色が違う青。
「でも、どうして」
「さっき言っちゃったでしょ、伝えるって」
「でも、それは何か耳にしたらって」
「だけどさ、何か耳にしても、それがこれって分からなきゃ意味ないじゃん」
お人好し。なんだかんだで動いてしまうところが姉さんのいいところだけど、嫉妬しないと言えば嘘になる。もう少し、2人でいる時は僕たちのことだけに集中してほしいのに。話題が無くても黙って並んでいるだけでも充分なのになあ。
「情報は、っと……出身は日本で、8年間監督者をやってきて、今は28歳か。僕たちよりも12歳下ってことはイリスの10歳上」
「関係が気になるなあ」
パンを口に入れつつ、ニヒヒとおもちゃを見つけたように笑う。戦闘中の出逢いだったってことだけは確かだ。だとしても、人の心の機微なんて簡単に揺れるもの。箱入りのお嬢様が初めて接触した外部の人ならば、それは色々な意味で気になるだろう。だとすればシシェーレは、イリスどころか司令部、その上の管理部からも探されているに違いない。なにしろ最強の醒者に関わることだ、時間が経つほど大事になっていくだろう。
「姉さんはどう思う?」
「恋じゃないの」
「……それくらいしか無いよねぇ」
本人が意識しているかどうか。知識はあるだろうけど、無菌室のような環境にいる人に気づけという方が無理か。
「そろそろ行こう?」
「ん」
まだ口を動かしている姉さんの手を引いて歩き出した。掴んでいた手の甲がぱっと払われて、次の瞬間には手のひらを掴んでいる。互いの手のひらが触れ合って互いの手を握っている。歩く脚は並んで、互いに合わせようとする思いが腕を通し、揺れるリズムが一致する。
都市の中へ進んでいくとアトラースの柱は減って、地のままの青みがかった壁が見えるようになる。雑踏のざわめきも大きくなって、往来を行く自動車や人の流れが強くなる。人が多いのはいつものことだ。特段休日もないし平日もない。労働外の時間、暇を持て余している人が適当に外に出るのは、日常のいち風景に過ぎない。自分たちも同じ。醒者といってもただの人と何も変わらない。
いや、力が弱いから人並みの生活を与えられているのだ。本当に強くて人の手で対処できないレベルの醒者は隔離され機械のような生活をされている。──虹の醒者のように。彼女はこの街に出たこともないだろう。
「僕たちは、よかったね」
「なんの話よ」
「弱い醒者だから、こうしてデートできてるってこと」
「? まあ、デートできるのはいいことだけどさ」
2人でいるこの瞬間が貴重な時間。いつも守っている人々の中にいて、お互いに気に留めるのはお互いだけ。時間も場所も関係なく、ネフィリムに対峙している時だとしても、2人でいることだけを考えている。それだけでいい。
人の波を横切って、道の向こうへ行く。雑踏から離れた裏路地にその美容院はある。
「おっし」
何故か気合を入れるような感じで、手に力が伝わってくる。
カランカランと軽いベルの音。いらっしゃいませーの声に導かれて2人店内に入る。
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