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船が完成しても、一向に何も起こりそうもなかった。
今日も空は晴れて快晴である。
そんなある日、ジウスドラは船にいる全員にある御神示を発表した。
ところがそれを聞いて、人びとはざわめきだった。彼らが金銭面で協力をと喜捨した金を何に使うのかというと、それでシュルッパクとその隣の町の動物園からおびただしい数の動物を買うというのだ。それもオスとメスひとつがいずつ、ほとんどすべての
人々は陰でそれについて論じ合ってはいたが、さすがに振るい落とされずについて来た人たちである。ス直に父のいう通りに駆けずり回った。そうして半月もたたないうちに丘の上に輸送用の空中ダンプが飛来し、多くの動物の檻がそこに下ろされた。それを船建設の人々が船に積み込む。
当然、マスコミが感づかないはずはない。早速そのことはニュースでも取り上げられた。
「宗教団体の施設だと思っていたんですが、何やらおかしな動きがありますよね」
と、コメンテイターがしたり顔でニュースの司会者に話しかけている。
「そうですね。動物の買収、これは不可解な行動です。まさか、あの大きな建物はもともと動物園のつもりで建てたんでしょうか?」
「しかし宗教団体がエンターテイメント施設を経営するということは、そう珍しい話でもありませんしね」
セムは苦笑いして腕の装置を操作し、船の中の一室で目の前の空中のスクリーンを消した。
次にジウスドラの指示は、これもほとんどすべての
そして食料だが、ジウスドラの指示はこの丘のすべての木になっている餅、すなわちマンナを積めとのことだった。公共の場所の木のマンナの採集は条例で禁じられたが、この丘はジウスドラの私有地となっていたため問題はなかった。その作業が、十日続いた。丘の全部の木のマンナはほとんど一日で採集が可能だが、翌朝になるとまた一面に木に餅がなっている。それをまた積むのだから、十日もかかった。三階建ての船の中の二階の部分は、すべてそのマンナの倉庫と化した。マンナは念じて絞れば水分にもなり、一個でかなりの量の水になる。これで完全に船の中では自給自足の生活ができるはずである。
そしていよいよジウスドラは、船の建設にかかわるすべての人に、各自の家を捨てて船に移住するように御神示が下ったことを告げた。いよいよ人間が乗る。
「天の時が来ました」
と、一同を集めてジウスドラは、いつもの笑顔は抑えて厳かに言い放った。予想外に人々は、シーンと静まりかえっていた。
「皆さんにこの船に移住するようにとの御神示です。期限は三日」
この期限には、さすがにどよめきが上がった。だがジウスドラは、
「一切が御神示でありますので」
と、それだけを言ったのである。人々は、再び息をのんで静まりかえった。
「神様からすれば、因縁の魂は皆この船に乗れという至上命令ではありますけれど、私としては皆さんに命令できる立場ではない。神様は皆さんに選ぶ自由を与えておられる。だから、決めるのは皆さんということになるけれども、今さら躊躇する人はここにはおられないと思う。ただ問題なのは、家族全員でここに来られている方は問題ないとしても、家族の中でお一人で来られている方、あるいはご家族のどなたかがここには来られていないというご家庭、いろいろあるでしょう。そういう方もお帰りになって、ぜひこういう非常事態が緊迫しているので船に乗ったらどうかと、再度お知らせはしてあげて頂きたい。それが神様への
さらにジウスドラは、今はこの場にいなくても、一度でも船の建設にかかわった人びとにも、最後の刻限がいよいよ来たことを一応知らせるようにと語った。
「もうご家族全員でここにおられて、誰も説得する必要がないという方は、ご苦労だがそちらの方にまわって頂きたい。その場合も下座を忘れず、
人々はこの言葉の内意をつかんだようで、身を引き締めるような思いを表情に表して黙っていた。だがジウスドラの方は、ようやくいつもの穏やかな笑顔の話し方になってきた。
「ペットも結構ですよ、どうせこれだけの動物がいるのです」
人々の間から、少しだけ緊張がほぐれたような笑いが上がった。
だが、家族の説得というのは、なかなか一筋縄ではいかないようだった。やがて三日過ぎ、その日の日没が刻限だったが、約三百人の中でこの船の建設に関与していない家族をつれて来られたものはいなかった。中には、ずっと批判していた若者である息子を説得してつれて来ようとしたが、途中で逃げられたという夫妻のケースもあった。
刻限になっても戻らないものが若干いたが、ジウスドラは少し待つと言った。果たして、五人ほどが駆け込むようにして戻ってきた。
家族の説得が長引いてしまったが、結局つれてくるのはかなわなかったという。もう、船には乗り遅れたと思っていたのに自分たちを待っていてくれたということに感激して、その数人は船の入り口で泣き崩れていた。
家族はいくら説得しても聞く耳も持たず、全員を期限付きで船に集めるなど集団自決でも企てているのではないかと詰め寄られた人もいた。実際、山中の施設で集団自決したカルト教団もあったから、その懸念は分からないでもない。
とにかくそういうふうに家族の説得にてこずったという人たちもいるので、ジウスドラはさらに待った。
だが、翌日の昼ごろになっても戻って来ないほんの若干名に関しては、仕方がないというジウスドラの判断が下された。また、かつて船の建設要員で、今はここから去っていってしまった人だが、戻れという説得で戻ってきたものはやはりいなかった。
やがて、大きな音とともに、最終的に残った人々が移住を済ませた船の一階部分の大扉が、下から上へと持ち上げられて側面の入り口をふさいだ。すぐに扉は内側からアスファルトで固められ、もはやこの船を壊さない限り扉は開かなくなった。そうして人びとと動物たちの、船の中での共同生活が始まった。
ジウスドラが持ち込み物の制限をしなかったために人々はサイバーネットやテレビを自由に見ることができ、それでだれもが外の様子は分かった。テレビの番組は相変わらずお笑いでうるさい。ニュースも凶悪犯罪がまた起こって、犯人が逃げただの捕まえただのそんなニュースばかりだった。
そして三日くらいしてから、またかなりの大地震が起こった。震源地はと皆それぞれの腕の装置で見ていると震源は遠いのだが、思ったより被害は深刻のようだ。
ところがそれを報じるニュースのかたわら、被害のなかった人々は相変わらず町に繰り出して遊び回っている様子も映し出されていた。まだ、昼間だ。彼らは罹災者への思いやりなど、かけらもない。かけらもないからこそ、船には乗れなかったともいえる。やがてその日の夕方から、霧しか知らないこの町の人々を驚かせて、水が無数の糸となって落ちてくる雨というものが大地に降り注ぎ始めた。
最初は優しい雨だったが、次第に雨脚は強くなった。これには町の人々がパニックになるだろうし、実際にそういう人がニュースには映し出されていた。だが、その雨が強度の酸性雨であることには、人びとはまだ気付いていないようだった。
三日後には、豪雨となった。ニュースでは、町中が大騒ぎになっていることを伝えている。だがその雨は翌日はますます激しくなり、さらに十日以上も続いた。その次に来た災害はティグリス川とユーフラテス川の氾濫だった。上流の水が鉄砲水となってすべてを押し流しながら一気に町に迫り来る恐怖は、バラの花畑をのみ込みつつシュルッパクの町に迫った。
その頃になってようやく、ウバル・トゥトゥ市長は町全域に緊急事態宣言を発した。しかしジウスドラはもう三年も前から『神の非常事態宣言』としてその非常事態を予言し、警鐘乱打していたのだ。
ものすごい鉄砲水が、ついにシュルッパクの町を押し流した。水は船のある丘の上までは上がらず、人々は避難のために丘の上に殺到した。だが、殺到してきたのは市民のごく一部だった。それでも、おびただしい数だ。
セムは、なぜ船を山の上にという御神示だったのかを、身をもって理解した。どうせ船として浮かび上がるなら平地に作ってもよさそうだが、もし平地に造っていたら鉄砲水をもろに受け、船は大破していたであろう。御神示の絶対性を、セムはあらためて認識した。ここでなら水は丘の麓からゆっくり登ってきている。
その丘の上にも水は、いよいよ麓からじわじわとせり昇ってきた。丘の上にはまだ多くの人が避難していて、この船に乗りたそうに迫ってきている。だが、扉は内側から塗りこめられ、開けて避難民を収容するのは事実上すでに物理的に不可能だった。
人々は大声で叫んでいる。
「船の扉を開けてくれ! 頼む!」
「ばかにして笑って悪かった。あんたらは正しかった。だからそれが分かった俺だけでも、船に乗せてくれ!」
外のそのような叫びを聞いて船の中の人々は、一斉にジウスドラを見た。ジウスドラは目を閉じて、顔を左右に振った。
「残念だ。この方たちも救って差し上げたい。もしひと月前に来ておられたら救わせて頂けた可能性はある。しかし、もう遅い! 扉は閉められた。開けて差し上げることは、もはやできないのだ。非常に残念だし、申し訳ない」
ジウスドラの声は迫り来る人々に聞こえるはずもないが、扉の内側で叫んだ。そして、
外が嵐が雄叫び狂う音だけになり、断末魔の悲鳴を最後に群衆の叫び声が聞こえなくなるまで、そう時間はかからなかった。
半月たってもまだ雨は降り続き、シュルッパクの町はほとんど水没したようだ。その証拠に、船に乗った人々の腕につけているサイバーネットの装置は、全く使えなくなっていた。もはや、外界のニュースと接することも彼らにはできなくなった。
セムがまず、どんな時でも自分の上についていて、あらゆる情報を提供してくれて、またあらゆるコミュニケーションの源だったその装置を三階の窓から捨てたので、多くの人が同じようにした。もはや中継ぎサーバーも水没した以上、それは細かい部品のかたまりにすぎなくなっていたからだ。もちろん船内は照明はない。明るいのは昼間だけだった。
ある日、船に衝撃が走った。グラっと揺れたのである。みんなはまた地震かと思ったが地震ではなく、この丘までもが水没し、船は本当の船としてグッと浮かびあがったのである。丘の上で船に迫っていた群衆の魂は、とうの昔に押し流されてしまった……父はまず静かに祈りを捧げたが、それによって気持ちが晴れたのはほんの一瞬で、父はまた号泣を始めた。
それからというもの、毎日まさしく「船」という感じで揺れが続いた。雨はまだ降り続いている。ただの雨ではなく、シャワーのようなスコールが一時も止まることなく、もう二十日以上も続いていた。
夜など皆が寝静まっているはずの時でも外は大荒れの嵐で船は揺れ、なかなか寝つけないものも多いようだ。
そして、時々偲び鳴きの声があちこちから聞こえたりする。なぜ泣いているのかなど、周りの誰もが知っていたからそっとしていた。懸命に説得して船につれてこようとしても、逆に馬鹿にしてついて来なかったそれぞれの友人、知人、愛する人、果ては家族とやむを得ず別れてきたものもいる。そんな人びとが今や大嵐の中で溺死しているのかと思うと、やるせなくて泣いているのだ。
なぜもっと真剣に誘わなかったのかと、誰もが自分を責めているようだった。それは船の扉が閉められた時の、父の号泣にも通じるものがあった。だがさんざん自分を責めていたジウスドラだが、偲び泣く彼らには自分を責めないようにとずっと説得し続けていた。
セムは三階の窓を、そっと開けてみた。あまり大きく開けると雨が吹き込むのでわずかしか開けられず、それであまりよく外は見えなかったが、どうも二階の部分までが水の下のようだ。全く浸水はない。建築には素人であった父がそんな船を造ったことにも驚きだが、その造り方が全く御神示通りであってそれにス直に従い、微塵も父の考え、すなわち人知を入れていないというのだからこれまた驚きと畏敬以外の何ものでもなかった。御神示通りでこのように浸水もない頑丈な船が、素人の手でできたのである。
もはや、神の言葉を疑う余地はないとセムは確信していた。もっともそれ以前に、御神示通りに本当にこのような大洪水が起きているのだ。
船はかなりの揺れだったので、船酔いするものが続出した。食べ物は喉を通らず、すぐに吐いてしまい、起き上がることもできずに寝たままになっているものが半数以上を占めた。そもそもシュルッパクは内陸の町なので、船旅を経験したことのある人はほとんどいない。ましてや今や外国に行くのに船などで行くものなどほとんどなく、皆エアー・ソーサーに乗っていくのが普通である。そんなことで皆苦しんでいたが、ジウスドラは、
「苦しいだろう。たいへんだね。がんばってくださいね」
と、励ましと
「この苦しみを乗り越えて、魂は浄められる。吐いたものは体内に残留した毒素だから、感謝してどんどん吐かせて頂きなさい」
と勇気付けていた。
雨がやんだのは、降り始めてから四十日ほどたってからだった。ようやく船の揺れも収まってきたので、セムはもう一度三階の窓を開けてみると、果たして水面は窓のすぐ下の所だった。
そして今度は、周りの景色がよく見えた。景色といっても、何もない。三百六十度が見渡す限りの大海原で、どこにも陸地など見えなかった。その水は黄色く濁り、まさしく泥の海だったのである。これでは雨がやんだからといってすぐに外に出られそうもなく、まだまだこの船の中での生活を余儀なくさせられそうだった。
船といってもこの船は船の形をしていない。父がかつて言ったように、たしかにどこかへ向かって進む必要はなくただ浮かんでいればいいのだから、四角く細長い箱の形をしていた。だから船というよりも、むしろ箱舟だった。
船の中での生活はとにかくやることがないので、互いにミーティングを開いて今後のことを話し合ったり、雑談したりで過ごしていた。また、ジウスドラの講話に耳を傾けることもあった。
あとは一階の動物たちの世話をみんなでする。動物たちのえさも肉食、草食関係なく皆マンナだ。糞尿の始末もひと苦労だ。
船の中は全く照明もなく、三階は昼は窓から明かりが入るが、一階や二階への明かりは船の片側だけ一階から三階までの吹き抜けになっていて、そこからだけだった。
だが、夜になると真っ暗になる。必要な時は手持ちサーチライトがあるが、バッテリーがもうあるだけしかないから皆よほどの時しか使わない。だから、暗くなったら寝て明るくなったら起きるという、自然に調和した生活をするしかなかった。
何しろ今までの生活のほとんどがエレクトロニクスのお世話になっていたのだが、今ここではそれらが全く使えない。いかに今までがエレクトロニクスに頼りすぎていたかを、誰もが痛感していた。情報にも飢えている。
彼らの目の前にある現実は、三百六十度の泥の海の大海原だけなのだ。船はどこかに向かって進むという船ではないが、それでも同じ場所に浮かんでいるというのではなく、流れに流されているという感覚はあった。
セムはそんな泥の海を、三階の窓からぼんやり見ていた。窓があるのは三階のみで、一階や二階にはない。船が水に浮かべば二階までは水の下になるということも素人の父が知るはずもなく、三階にしか窓を作らせなかったこととて御神示の
泥の海を見ながら、もはや引き返せないところに来てしまったことをセムは感じていた。そして、自分の腕を見た。
セムはあの、ダンスホールでの夜のことを思い出した。酔った勢いでの行為も、今まではあえて触れたくない過去として記憶を封印してきたが、今はしみじみと思い出してみる。もし、あのまま自分が父を受け入れずに、あのような夜が連夜続いて、そちらの方向に行ってしまっていたら、確実に今の自分はここにはいなくて泥の海の下だったであろう。
あの時の、あの女の子もと考えると、胸が傷む。だが、今いちばん胸を傷めておられるのは神様に違いないと思った。全智全能を振り絞られて最高芸術品として創られた人類の大半を、御自らの手で滅ぼされたのは断腸の思いであっただろう。
そういうことを考えると、人類にとってもまた自分にとっても、父への御神示は神一厘の救いだった。父の言葉でいえば「
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