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立山奉行所はお諏訪さんの近くの、坂道を登りつめた所にある。
もう六月だから、坂を昇ったりしたら汗だくだ。それでも坂の上からふりかえって見る景色は、疲れなどかき消してしまうほどのものであった。町並がすべて一望でき、出島の扇型もはっきりとわかる。港内の阿蘭陀船、対岸の飽ノ浦、稲佐山などがまるで箱庭のようにして目の前にあった。
駕籠からおりられた別所様は、お顔色があまりおよろしくなかった。御老体に長旅は
立山奉行所は西役所の二倍の規模がある堂々としたお屋敷だ。玄関を入ると小通詞が二人、出迎えに出ていた。やがて通された座敷には別所様と駒木根様、そして私の三人しかいなかった。
話はまず、シロウテのことから始まった。シロウテは阿蘭陀の加比丹ではなく御禁制の伴天連であるので、囚人用の丸駕籠で護送ということに決まった。
それはひどいと私は感じたし、ガリヴァー氏がそのような処置を受けずに済んだことについて、よかったとつくづく思ったものである。
シロウテの護送は九月か十月、別所様が在府との御交代の折に伴うことになった。またもや通詞の同行が必要となろう。私はしきりに、別所様に目配せをした。もう御免だと思っていたからである。別所様は、すぐにお分かり下さった。
「横山は今回大儀であったからのう、次回は別の者にしよう。で、誰がよいか」
私は同じ大通詞仲間の今村源右衛門あたりの名前を、適当に挙げておいた。
それから話題は、昨年の江戸の情勢へと移っていった。別所様は今の時の人が新井勘解由様だということ、そしてその新井様から金、銀、銅の国外流出量の調査を仰せつかったことなどを話されていた。私はそのへんの事情には疎いので、正直いってお二方のやりとりとは別に、他のことを考えていた。
私が慌ててお二方の話に意識を戻したのは、「フリヘル」という名が出たからだった。
「横山。おぬしから話せ」
別所様からそう言われ、私は手短にガリヴァー氏のことを駒木根様に申し上げた。もちろん彼は蘭国人だということにしておいたし、その奇妙な経験については何も話さなかった。そして今後の処置については、出島に入れずに西役所に留めおくことも進言した。実はそれが本人の希望でもあった。この日の朝すでに私は西役所に赴き、ガリヴァー氏の希望も聞いていたので、そのことを添えて申し上げたのである。
「
別所様は、お首をかしげられた。
「蘭国人なら、同胞のところがよかろうに」
私には分かる。彼が阿蘭陀人ではないことも知っている。しかもこの日の朝にはじめて聞いたことだったが、実は彼が言っていた船の難破は事実ではなく、本当は阿蘭陀の海賊に襲われて小舟で逃げたのだということだった。それならば、阿蘭陀人に対していい感情は持っているはずはない。阿蘭陀船に乗るのも、故国に帰るためにやむなくというところであろう。出島には入りたがらないのも無理はない。
しかしこのことを、お二人のお奉行に申し上げるわけにもいかず、私は返答に窮していた。すると駒木根様が、笑って言われた。
「案ずるには及ばぬ。実はいつもなら阿蘭陀船の出航は九月だが、明後日に臨時に出航する船がござってのう、そのフリヘルとやらはそれに乗せたらよかろう。いや、間一髪で間にあったわけじゃ」
私はそれを聞いて、複雑な思いだった。ガリヴァー氏がこんなにも早く帰国の途につけるというのは、彼にとっては喜ばしいことだ。しかし同時にそれは、私と彼との訣別をも意味する。致し方のないことであるのはわかっているが、淋しくないといえば嘘になった。
西役所から出島に移るといっても、西役所のある高台を下ればすぐに出島の入り口の橋だ。距離的にはたいした移動ではない。しかしその短い橋のこちらと向こうは、まるで世界が違うのである。
立山奉行所へ赴いた翌日は、私はガリヴァー氏とともに出島に入った。私は役柄上、出島への出入りは自由だった。すでに商館長とはこの日、昼食をともにする約束をしてある。お奉行もご存じのことだ。
私はガリヴァー氏と二人だけで、昼前に西役所の玄関を出た。思えば私が彼と出会って以来、二人だけで外出するのは初めてだ。ガリヴァー氏にとっても、この国での徒歩での外出は初めてとなる。もっとも外出といっても、行く先は目の前である。
橋を渡るとすぐの長屋門は瓦屋根で、柱は木の素材が茶色くなっているような、どこの武家屋敷にでもありそうな門だ。ところが一歩中に入ったあとに展開された別世界に、ガリヴァー氏は興奮して声をあげていた。彼にとってはまさしく、そこは故国の風景だったのであろう。
„Laat ons gaan”(行きましょう)
立ち止まった彼を、私は促して歩きだした。道はすぐに建物で行き止まりとなり、左右へと扇型に沿って湾曲してのびている。その両側には、二階建ての洋館が並ぶ。倉庫もいくつかあるし、たまには石造りの蔵もあった。
角を右に曲がってすぐ左が商館長――すなわち加比丹の屋敷だ。
彼らの習慣どおり、私は木の扉をこぶしの甲で軽く二回ほど叩いた。
„Kom!”(どうぞ)
と、すぐに返答があった。私は扉を引いてあけた。
„Dag!”(こんにちは)
„Kom binnen, alstublieft!”(どうぞ、お入り下さい)
その声は、二階の方から聞こえてきた。玄関を入ってすぐは二階まで吹抜になっており、階段が左に湾曲してついている。その階段にも床にも、一面に赤い絨毯が敷きつめられていた。
ガリヴァー氏は入り口のところで、何かをためらっている様子だった。だが私が
おかしなものだ。
私と出会った当初は家屋敷に入るのに履物を脱がなければならないことを
私は階段を昇り、先ほど声がしていた海の見える部屋に入った。中央に円卓があり、白布がかけられている。すでに二人の異人がその円卓についていたが、我れわれが入るとさっと椅子から立ち上がった。ニコニコして近づいてきたのが、加比丹のヤスフル・ファン・マインステアルで、彼はさっそく彼らの習慣どおり、私の手を握ってきた。
„Hoe gaat het met U, Mijnheer Yokoyama?”(ご機嫌いかがですか、横山さん)
„Dank U. Goet. Kapitan Mainsteal.”(ええ、お蔭様で。マインステアル館長)
型どおりの挨拶のすませたあと、私は背後にいたガリヴァー氏を示した。
„Dit is mijnheer Gulliver, die Ik gisteren U verteld heb.”(こちらが、昨日お伝えしておいたフリヘルさんです)
„Aangenaam!”(はじめまして)
„Ik ben blij U te ontmoeten. Mijnheer Gulliver.”(お会いできて光栄です。フリヘルさん)
二人はまた、手を握り合っていた。加比丹がそのあとで、もうひとりの異人を我われに紹介してくれた。明日の朝ガリヴァー氏を乗せて、阿蘭陀国に向けて出航するアンボイナ丸の船長、テオドルス・ファン・フルルトと彼は名のった。その船の名前を聞いた時にガリヴァー氏の眉が、少しだけ動いたのを私は覚えている。
„Gaat U zitten, alstublieft.”(どうぞ、おかけ下さい)
勧められて私は腰のものもはずし、ガリヴァー氏とともに円卓についた。大刀は床から円卓へとたてかけておいた。
すぐに唐人らしき召し使いの少年によって、食事が運ばれてきた。まずは阿蘭陀の汁物、そして肉と
„Nou, Hoe doet het dat Vader Sidotti?”(あのシロウテはどうしてます?)
メスとフォルクを手に、加比丹が私に尋ねてきた。食事中といえども、陽気に会話をしながら食べるのが、かの国の風習だ。
„Wij zullen hem naar Yedo sturen in september of oktober.”(江戸に送ることになりましたよ。九月か十月には)
加比丹が私に話しかけてきたのはそれだけで、あとの話相手はガリヴァー氏だった。ここでも彼は、自分を阿蘭陀人で通していた。故郷は阿蘭陀国のヘルデルランドという所だなどと、適当なことを大まじめな顔で言っている。この場で彼が
加比丹は他にもガリヴァー氏の航海の経歴などを聞きたがっていたが、彼は自分の奇妙な体験については話そうとはしない様子だった。ただ自分には医者の資格があることを告げ、今回も船医として働く意志があることを言っていた。フルルト船長は、それなら船賃を半額にしようと言ったので、ガリヴァー氏はひどく恐縮しつつも喜んでいた。彼が医者の資格を持っているということは聞いていたような気もしたが、私はこの時にあらためて認識した。
私は彼らの会話をよそに、外の白い木の欄干越しに見える海に目をやった。昼過ぎの陽ざしに波間は光り、いくつもの帆船がそこに浮かんでいた。明日になればそのうちのひとつに乗って、ガリヴァー氏は海の向こうに行ってしまうのだと思うと、胸がしめつけられるような気がしてきた。
ガリヴァー氏のことをくれぐれも加比丹に頼み、私は出島を辞した。その日はそのまま、西役所に泊まることにした。明日の出航は早朝だからだ。
夜もふけて、そろそろ寝ようと思っていた頃、稽古通詞の加福という男が私の部屋の前で私を呼んだ。何ごとかと思って
私はしぶしぶ衣服を直し、玄関を出た。なにしろ七ツ時の閉門以降はたとえ私が呼び入れようとしても、奉行所内部の人間以外は、誰も外部から奉行所の中に入ることは許されていないのだ。私が門前まで出ていくしかない。
私が出ると、確かに町方の少年がいた。彼は慌てて路上にひれ伏した。
「恐れながら、申し上げます」
「なんごとね。こぎゃん夜更けに」
少年は、わずかに首をあげた。
「実は今日出島に入りました異人のフリヘルとか申すモンが、阿蘭陀人であるとは真っ赤な偽りでして」
私は背中に、さっと冷たいものが走った。顔がひきつっていくのが、自分でもわかる。
「やつは英吉利人ですたい。阿蘭陀人でなかモンがこん国に入ったとなれば、御法度に触れる一大事ですばってん、恐れながら御注進にと」
「なしてそぎゃんこつ、わかったとね」
加比丹や船長でさえ、彼を阿蘭陀人と信じていたはずだ。
「へえ」
少し得意げな表情を見せて、少年はまた顔をあげた。
「おいら、御用絵師の小間使いでして。うちのお師匠さんは、そぎゃんこつはすぐに見ぬきますばってん」
私は黙って、少年を見下ろしていた。
「さっき出島から帰ってきんしゃって、そぎゃん言うとっとですたい」
なるほど加比丹や船長は、話の内容でいくらでもごまかせる。しかし絵師の場合は、無言の直感だ。その方が正確にものごとをつかんでしまうのかもしれない。
「ばってん、なしてそぎゃんこつおまんごたる小僧が」
少年は、急にニヤニヤしはじめた。
「褒美ば、戴けっとじゃあなかか思いまして……はい」
私の怒りは腹から昇って、ついに顔を充血させていたに違いない。目の前の少年が、
私はできるかぎり怒りを隠し、平静を装って言った。
「わかった。褒美ばくれたる」
「え? ほんなこう?」
少年は満面に笑みを浮かべている。とにかくその顔にますます嫌悪感を覚えたので、私は門番にその手に持つ棒を指さして言った。
「そんでこん小僧の肩ば、二十ばかり打ちのめしたれ」
少年の笑みが、瞬間に消えた。はじめは呆然としていたが、門番が命じられたとおりその衿首をつかむと、少年は必死でもがきはじめた。
「なして! なしてこぎゃんこつに!?」
「おまんごたるこすかやつは、鞭打ちの刑が最高の褒美たい!」
そう言い捨てて私は少年に背を向け、脇門から中に入った。閉じられた門の外で、少年の悲鳴と棒で打つ音が交互に聞こえてきた。
私は胸をなでおろす気持ちだった。応対に出たのが私でよかった。もし今夜私がここに泊まっていなかったら……そう思うとゾッとして背中が寒くなった。
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