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我われは五月三日の早朝に、江戸を出発した。ちょうど西の丸家宣様の征夷大将軍宣下の御勅使が江戸に到着されてすぐのことだった。途中で御勅使と異人の行列がすれ違うのはまずいというので、それまで待ったのだ。だが、これ以上待つと
行列のうち駕籠は三騎。お奉行別所様と私、そしてフリヘル氏だ。
高輪の大木戸を出るとすぐに、砂ぼこりと馬糞の臭いが鼻をつく。間もなく品川宿だがそこは通過で、川崎宿で昼食。最初の泊まりは
そこへフリヘル氏が訪ねて来た。彼はこの道中において、決して自由な身ではない。昼間は駕籠、夜は本陣の彼に与えられた部屋が、彼にとっては出島だった。本陣の中では彼の部屋の前に小姓を交代で一晩中常に控えさせ、
もう寝ようと思っていた矢先の来訪だったので、私は少々不機嫌な顔でフリヘル氏と対座した。彼はおかまいなしに、ニコニコ笑っている。とにかくその頃の私には、彼の頭は狂っているという固定観念ができてしまっていたので、適当にあしらって早く帰してしまおうと思っていた。
ところが座るやいなや、開口いちばんに彼はこう言った。
„U denkt dat lk gek ben,niet waar?”(あなたは私を、狂人だと思っているのではないのか?)
あまりに図星だったので、私はどう答えてよいかわからなかった。彼は笑ったまま、両手で私を制する仕草をした。
„Dat is O.K. Allemaal denken zo. Als U zo ozer mij denkt……. Mijn vrouwen kinderen hebben ook zo gedacht.”(いいのです。みんなそうですから、あなたも……。妻や子もそうでしたからね)
私はまた、返すことばがなかった。
ただ、彼にも本国に妻子を残してきていることは分かった。
„Iedereen die van mijn ervaring heeft gehoord, denkt van wel. Maar ze zijn allemaal waar.”(私がこれまで経験したことについての話を聞いた人は、みんな私の頭は狂っているとそう思うでしょう。でも、私のそれらの話はみんな本当のことなのですよ)
それから彼は勝手に、自分のこれまでの航海の経歴をとうとうと話し始めた。
彼は最初に行った小人の国で、
私はもうただ口をぽかんとあけて、彼の話を聞いていた。そしてその青い瞳を見ているうちに、どうもこの男は冗談やたぶらかしでこのような奇妙なことを言っているのではないのではと、そんな気にさえなってきた。
まだ半信半疑という感はぬぐいきれずにはいたが、その笑顔と温厚な人柄に、私の固定観念も溶解しつつあったのである。新井様は儒者だけに、理にあわぬことは妄想か気狂いで片付けてしまわれたのだろうが、私は儒者ではない。ただの通詞だ。理に合わぬことがこの世にあることを認めてもよいと、この時に思ったりもした。
南蛮人がはじめて、わが神州に至ってより百五十余年。それまではそんな遠くに国があって、瞳や肌の色が違う人間が住んでいるなどと、誰しも思ってもみなかったことだろう。
この国は所詮、小さな島国なのだ。広い大洋の向こうの世界には、まだまだ何があるかはわからない。
そう思った時、私は無性にフリヘル氏の話が聞きたくなった。
私は膝を一歩進め、
„Mijnheer Gulliver.”(フリヘルさん)
と、呼びかけた。そして、小人の国や巨人の国の話などを、もっと聞かせてくれと頼んだ。私の態度が一変したので、フリヘル氏は少し途惑ったような表情をしたが、すぐに笑顔になった。
„Wij maar moet staan vlug om morgen op, niet waar?”(しかし、明日は早くに起きねばならないのでしょう?)
さっきまでは自分が気にしていながら今はすっかり忘れていたことを、逆に笑顔のフリヘル氏の方から言われてしまった。
„Laten wij nu slapen. Het is nog een lange weg, niet waar?”(今は、休みましょう。道中はまだ長いのでしょう?)
私はゆっくりとうなずくと、彼の提案を受け入れることにした。しかし彼が戻って行ったあとも、私は好奇心から胸がときめいて、なかなか寝つくことができそうにもなかった。
翌日は天気もよく、箱根峠も難なく越えて関所も無事通過し、その日は箱根宿泊まりとなった。
芦ノ湖ではその景色の美しさにフリヘル氏は駕籠の中から何度も私を呼び、この景色をじっくり見たいと申し出た。しかしそれは許されるはずもないことだった。これまでの宿場でも何度か彼は自由を要求したが、ことごとく却下せざるを得なかったのはいうまでもない。
箱根を降って三島宿に泊まった日から、私の方から夜な夜なフリヘル氏の部屋を訪ね彼の体験談を聞くようになった。
そのおおまかなところは、次の通りである。
今からちょうど十年前、彼はある
彼だけが一人で海を泳いで小島にたどり着き、そのまま横になって寝入ってしまった。その後、目が覚めたら手足も胴も縄で地面に縛りつけられ、髪の毛さえも地面に固定されていたということだ。やがて身の
実は数夜にわたってもっと詳しい話を聞いたのだが、それをすべてここに記す力は今の私にはない。彼は本国に無事帰国できたら自らの体験を綴って世に出すつもりだとも言っていたので、もっと詳しい彼の旅行記が阿蘭陀商館からやがてわが国へももたらされるに違いない。
このような膨大な体験談は彼が草子書きならいざしらず、一介の商人で船乗りである者の
そのあとは京に着くまで、今度は巨人の国――ブロブデンラグの話を毎晩聞くことになった。そこでは彼が小人でしかなく、大ねずみとの格闘の話、吸い物の椀の中で溺れそうになった話などが宿場ごとで続けられた。その国を脱出できたのは、巨人の子供が彼を入れていた箱を大鷲がさらい、それが海中に落下して通りかかった船に救助されたのだということだった。
その他にもいろいろと不思議な話を聞いたが、京に着く頃には彼の話にではなく、彼自身に対する私の感情が変化しているのを自分で感じ、私はとまどいを覚えていた。彼がひどく身近な、大切な人のように思われてきたのである。
京では私がうっかり「ここは都(„Kapitaal”)だ」ということを口を滑らせたばかりに、フリヘル氏の質問攻めに遭う事になった。江戸に„Keizer”、すなわち「皇帝陛下」がいる以上、江戸が都ではないのかという。しかし、天子様がおいでの所が都だと説明しようとして、私は言葉に窮した。天子様をどう説明するかだ。„Keizer”という語は公方様のこととして使ってしまっている以上、天子様のことをそのようにお呼び申し上げることはできない。そこで私はそのまま„Mikado”とお呼びして、宗教上の権威であると説明しておいた。その方に任じられて„Keizer”は、はじめて„Keizer”たり得ると言ったが、はたして彼が理解してくれるかどうかは自信がなかった。
ところがフリヘル氏は、大きくうなずいた。それは
そこでフリヘル氏の国の王もそうなのかと聞いてみると、彼は違うと言った。蘭国が切支丹国ではないということで、唯一わが国と交易が許されている
ところが、そのあとの話が奇妙だった。
彼は、自分の国には羅馬とは別の大僧正がいて、それに任じられた王がいる。ヘンリ・ド・アハステ王の時代に王の離婚がもとで切支丹から離れ、羅馬パウスとは別に大僧正をたてたのだと語った。
私はこれまでに、商館が提出する『
フリヘル氏に関しては、もうひとつ奇妙なことがあった。私は一度だけ何気なく、彼の懐の中の小冊子をのぞいてみたことがあった。そこに書かれていたのは確かに蟹文字だったが、私には全く読解できなかった。それは蘭語ではなかったのである。
大坂から小倉までの海路では、お奉行のお耳もすぐそばにあるので、あまり彼と話しはできなかった。だが、私とフリヘル氏との間の一種奇妙な感情は、ますますつのっていった。その感情とは、いかなる日本語でも表すことは不可能だろう。義兄弟というのが少し似ているが、微妙なところで少し違う。親子の情、師弟の情、そういうものとも少しだけ違う。やはり蘭語の„Vriendschap”という言葉でしか、表し得ないのではないかと思った。
小倉から長崎までの陸路では、私がわが国のこと――政治と文化、歴史や風俗習慣、宗教などについて彼に語る毎日となった。„Vriendschap”とは国や肌の色の違いを越え、より深く互いを理解しようという感情なのだと感じたからだ。今の日本の社会においてそのような感情が存在するのか、あるいは必要なのか、そして許されるのかなどということも、その時の私にとっては全く論外のことであった。
江戸を
昼間の道中ではそれぞれ駕籠の中なので、互いに話もできない。江戸を出発した当初は後ろの駕籠からフリヘル氏は、よく蘭語でもって大声で語りかけてきたが、そのことはお奉行から固く戒められ、フリヘル氏にも納得してもらっていた。今は逆に私の方が、駕籠同士で話をできないのを辛く思っていたりする。夜になるのが待ち遠しいのだ。夜になれば旅宿で、フリヘル氏と歓談できる。
この頃には互いの会話には、高笑いがつきものとなっていた。そのことは小倉を出てからお奉行に、一度だけ注意されたことがあった。しかしもう構ってはいらない。すでに諫早、明日は長崎である。
フリヘル氏とは互いの国のことばかりではなく、人間としての個人的内面についてまで話をするようになっていた。そこで道中最後の宿場において、思い切ってある疑問を彼にぶつけることにした。互いの間に疑いがあってはならないと、私はあえて断行したのである。
それは、彼が阿蘭陀人ではないのではないかということである。とうとうそのことを、私は切り出した。彼の表情は、一瞬こわばった。笑みをかき消したフリヘル氏との間に、しばらく沈黙があった。私はそういうふうに思うようになったいきさつを、いくつか彼に話した。そして決してとがめだてしようというのではなく、心の中のわだかまりを解消したいがために聞くのだともつけ加えておいた。
フリヘル氏は、ゆっくりと顔をあげた。
„Ja. Ik ben geen Nederlander. Mijn Vaderland is Engeland. Ik ben een Engelsman.”(そう、私はオランダ人ではない。私の母国はイギリスだ。私はイギリス人なのだ)
私はやはりと思うとともに、そのことばをかみしめた。
„Zult U me nog neels naar Yedo stellen, of zult U me terdood brengen?”(私をもう一度江戸へ送るか? それとも処刑するか?)
私はそれどころか、嬉しい気持ちでいっぱいだった。だからあわてて、首を横にふった。そして笑顔を作り、私の方からフリヘル氏の手を握った。
„Dank U. Dank U!”(ありがとう、ありがとう)
私は何度もそう言った。自分の疑いに対して、彼が正直に答えてくれたことが嬉しかった。始めは呆然としていたフリヘル氏も、すぐに笑顔を取り戻してくれた。そしてひたすら彼は、許しを乞うていた。だが私にとっては、許す許さないなどの問題ではなかった。かえって真実を知って、よりフリヘル氏が身近に感じられたのだった。
口外無用と、私は言った。彼がこの国を出るまでは、彼は阿蘭陀人でいいのだ。彼が阿蘭陀人であろうと
私はフリヘル氏の目に、涙が浮かんでいるのを見た。わが意が、彼にも通じたのであろう。
„
と、彼は言った。それがフリヘルという彼の名の、彼の母国語での発音なのだそうだ。
“Mijnheer
私は彼の手を握った自分の手に、力を入れた。明日は我が故郷。フリヘル氏――いや、もはや彼の母国での発音どおりに、ガリヴァー氏と呼ぼう――に、ぜひ私の生まれ育った街を見て欲しかった。
翌日、すなわち六月九日、予定より少し早く我われ一行は長崎へと入った。商館長参府は大名行列並みの旅程なので江戸から長崎まで優に三ヶ月はかかるが、我われはそれよりもずっと早く四十日ほどで到着したのである。やはり途中で五月雨になってしまったが、そうでなかったらもう少し早く着けたであろう。
この到着した日の日付をガリヴァー氏が知りたがったので六月九日だと教えると、彼は首をかしげていた。自分で数えていた暦によると、もう七月も半ばのはずだという。
故郷の町は狭いながらも、そして気候は刺すような陽射しの中で完全に夏の暑さのただ中であったとしても、包みこむような温かさが坂道という坂道にあふれていた。
まずは長崎奉行所西役所に直行し、そこで
しばしの休息の後、別所様はすぐに立山奉行所の方へ、帰着の挨拶に行かれた。もうおひと方の在勤お奉行の、駒木根肥後守様はそちらにおられる。シロウテが幽閉されているのもそこだ。
その間、私は海が見える一室の縁先に立ち、湾の向こうの稲佐山を見ていた。潮風が頬にあたる。隣にはガリヴァー氏が、私は並んで立っていた。
彼は目の前の湾が海だということを、なかなか信じてはくれなかった。たしかに外海への出口は山が重なって隠していて水平線は見えないので、彼が湖だと思ったのも無理はないかもしれない。ただ彼も、ここは美しい町だと言ってくれた。
やがて私の配下の小使いが、別所様のお帰りを知らせに来た。戻るやいなや別所様は汗をふき、扇で顔をあおぎながら「疲れた、疲れた」を連発されていた。ところがお口とは裏腹にお元気な御様子で、今夜駒木根様が我われの江戸までの往復をねぎらって
宴の席で、明日駒木根様との会談が立山奉行所で行われるが、私もそこに同席するように言いつけられた。ひとつはシロウテ江戸護送の手筈、もうひとつはガリヴァー氏の処置について話し合われるということだ。ガリヴァー氏の処置とは、阿蘭陀船が出航する九月まで、彼を出島に入れるか西役所においておくかについてのことのようだった。
宴の最中も、西役所に一人残してきたガリヴァー氏のこと、そして我が家のことのふたつが気になって、座に興じる気にはなれなかった.そして終わるとすぐに、別所様たちを丸山へと見送った後、まずはガリヴァー氏の様子を見に西役所に戻った。彼は書見にふけっていた。
その後で、私は一目散に自宅へと飛んで帰った。ガリヴァー氏も連れて行きたかったが、もちろんそれは許されることではなかった。
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