第6話 浴場の珍客
傾きかけた茜色の日差しに照らされる中、
「――お待たせいたしました」
乾いた土の上に音もなく降り立つと、アミルは二人に声を掛けた。
「アミルさん!」
突如現れたアミルの姿に驚きつつも、翡は作業の手を止めて駆け寄る。
「手続きが終わったんですね」
「いえ、できなかったので諦めました」
「え? それって大丈夫なんですか?」
自分はこのまま帰ってもいいが、先ほどの王子の自己中ぶりからするとそれで丸く収まるとも思えない。翡は西日に目を細めながら、アミルを見上げた。
「大丈夫もなにも、私はファルシャード様のご命令に従うまでです。ついてきてください」
拗ねたように言うと、アミルは溜め息を吐きつつ歩き出した。
「私の役目は主人たるファルシャード様を満足させることですから、この王宮の多くの者と目指すところは同じでしょうし、そのためにはおのずと王子の側近のような振る舞いをしていることもあるでしょう。――ですが、私は魔人です」
「……アミルさん?」
話すうちに、だんだんとアミルの目が据わっていく。
「――にもかかわらず、まるで王宮に仕える人間かのように扱う者の多いことといったら……! 主が王太子であるせいなのか、あるいは以前も王太后に仕えていたためか、王宮の仕事も普通に振られますし――まあ、それ自体は別にどうでもいいんですが、とにかく! ファルシャード様のご命令に反することを言われても、私にはどうしようもないのです!!」
「まったく、そのように不自由な魔人の身分をありがたがる者の気が知れませんね」
拳を握りしめたアミルを、ジンが小馬鹿にするように鼻で笑う。アミルは眉をぴくりと動かしただけで無視を決め込んだが、続く翡の言葉には反応せずにはいられなかった。
「指輪を壊したら自由になれませんか?」
無垢な瞳で尋ねる翡の顔を、アミルはじっと見つめた。魔人の宿る器物を欲しがる者は数多見てきたが、壊そうとする人間には初めて出会う。
「……なかなか物騒なことを考えますね。私はただ話の通じない人間に憤っているだけで、魔人を辞めたいわけではありません」
「なら、そういう人に魔法で言うことを聞かせたりとか」
「一時的には出来なくもありませんが、そんなことをしようものなら魔人は危険だと恐れられたり、ファルシャード様の悪評に繋がったりしかねませんから」
「そんなことまで気にするんですか?」
「当然です。魔人たるもの、主に不利益を生じさせるわけにはまいりません」
「そ、そうなんですね」
今日の今日まで魔人というものの存在すら知らなかった翡には、いまいちピンとこない。が、先ほどジンがアミルに翡の賃上げを勝手に交渉していたことを思い出して、そういうものかと納得した。あれは単に、アミルにいちゃもんをつけたかっただけのような気がしなくもないが。
「ところで、私たちは今どこに向かってるんですか?」
アミルの後ろをついて歩きながら、翡が尋ねる。周囲を見渡しても、ファルシャードの姿はない。
「浴場です。ファルシャード様の」
アミルの返答に、翡はぴたりと足を止めた。
***
城内の一画、王族専用の大きな浴室――の前室の更に外側に立ち、翡はほっと胸を撫で下ろした。
「良かった……。中に来いって言われたらどうしようかと思った」
「そのうちお声がかかるのかもしれませんよ」
どうしても翡を困らせたいらしいジンに、呆れたように肩を竦める。
「だったら最初から連れて行くでしょ。ここで見張ってろって言われただけなんだから――」
「うわあああああああ!!」
野太い叫び声に、翡とジンは浴場の方を振り返った。
翡は護衛としての職務を果たすべく駆け出し、浴室へ飛び込んだ。
「ファルシャード殿下、ご無事で――!」
「ん? なんだ?」
翡が濡れた床で滑らないよう慎重にかつできるだけ急いで駆けつけると、当のファルシャードは赤い花弁を浮かべた湯船に浸かりながら、その首よりも太い生き物を両腕に絡ませていた。
「それはもしかして、ヘ……」
「美しいだろう? 艶やかな鱗に、潤んだ瞳」
腕を持ち上げて、ファルシャードはうっとりと大蛇を見つめた。
「状況はよくわかりませんが、大丈夫そうですね」
翡の後をついてきたジンが、後ろから覗き込む。なぜこんなところに蛇がいるのかも、先ほどの悲鳴は誰のものだったのかも謎だが、守るべき王子は悠然と寛いでいるだけだ。
「そうだね……じゃあ、私たちはこれで」
「待て」
ファルシャードの濡れた手が、引き返そうとする翡の腕を掴んだ。
「なぜすぐに戻るんだ? 俺の身体を見にきたんだろう?」
「違いますよ!?」
「違う?」
心底解せないといった表情で、ファルシャードは翡を見上げた。
「なぜだ? この彫刻のように完璧な美しい身体を見たいと思わないやつがいるのか?」
翡は呆気に取られて言葉を失い、ファルシャードの顔をまじまじと眺めた。初対面のときから薄々勘づいてはいたが、この王子はどうかしている。
「ほら、せっかく殿下がこのように仰っているのですから、よく見せていただいてはいかがです?」
ジンは翡が逃げられないよう、後ろからがっちりと両肩を掴んだ。こちらはファルシャードとは違い、明らかに面白がっている。
「は!? ちょ、なんで掴むの――!?」
翡は乳白色の湯につかるファルシャードに、真正面から向き合わされた。その両腕で抱える蛇の黒々とした鱗とは対照的な、濡れて上気した白い肌、引き締まったしなやかな筋肉――。確かに美しいのかもしれないが、異性の裸体を見慣れない翡にはなんともいかがわしく感じられ、見る間に顔から首の付け根まで真っ赤になった。
「おや、随分と
ジンは翡を覗き込んで揶揄い、ファルシャードは怪訝そうに眉根を寄せた。
「おい、なぜ目を瞑るんだ? それに顔が赤いぞ」
「申し訳ございません、ファルシャード様。我が主は男性にあまり免疫がないようで」
「は? 男なんてそこらにいくらでもいるだろう? 瑛の民は女ばかりなのか?」
「色事の経験が浅いので、異性の肌に過剰な反応を示しているのです」
今度はファルシャードの方が絶句する番だった。
「い、色ご……っ!? 俺はあくまで肉体美の鑑賞を許可したのであってっ、そういう
つい先ほどまで自らの身体を見せつけていたファルシャードは、なぜか急に頬を染めて恥じらい始めた。
「邪な目でなんて見てませんっ!! ていうか、王子の裸を見に浴室に突入する護衛がどこにいるんですか!? 悲鳴が聞こえたから、殿下の身になにかあったのかと思って駆けつけたんですよ!」
あらぬ誤解に翡が猛然と抗議すると、ファルシャードは事もなげに言い放った。
「ああ、それは俺じゃない。護衛のボルズーは足のない生き物が苦手らしくてな。そういえば、この前もミミズを見て逃げ出していた」
「護衛として大丈夫なんですかその人」
「まあ基本的に俺の身辺警護をする者たちは生粋の上流貴族出身の上、さらに俺が顔で選抜しているから多少はやむを得ん」
「どう考えても妥協するところ間違えてますよ――って、ぎゃあ!」
翡は短く叫び、慌てて顔を背けた。突然ファルシャードの身体を覆っていた蛇が消え、白くたくましい胸板と共に桃色の乳首が露わになった。
「まったく、咬まれたらどうするんです?」
ファルシャードの元から消えた蛇は、浴場の入り口から現れたアミルの腕の中にいた。
「別にそいつは毒もないし、蛇の咬み跡くらいお前でも治せるだろう?」
「傷の治癒はできても、咬まれたら痛いでしょう!」
「お前は俺のことをいまだに赤子かなにかだと思っていないか?」
過保護な従者に、ファルシャードはうんざりしたように口を尖らせた。
「叫んで気を失っていたボルズーは浴室の外に寝かせてきました。少し頭を打ったようですが、意識も戻りましたし特に問題はないでしょう」
「ほう、蛇に襲われている主を放ってどこへ消えたかと思えば、従僕の介抱をしていたのですね」
「ファルシャード様に命じられては、私には拒めませんから」
「殿下が? 優しいんですね」
翡が意外そうに尋ねると、アミルは苛立たしげに溜め息を吐いた。
「ええ、彼の介抱を何よりも優先しろ、と。突如現れた
「アミル、なにをそう怒っているんだ。とりあえずそいつを返せ」
ファルシャードは、蛇を取り返そうと浴槽の中で立ち上がった。
「ぎゃあああっ! なんで立ち上がるんですか!?」
下半身を見ないよう、翡は叫びながら大慌てで背を向けた。
「うるさいぞ。騒ぐと蛇が興奮するだろう」
「すみません、翡様もファルシャード殿下の立派な大蛇に興奮してしまったようで――」
「誰がするか! 今度こそ私は持ち場に戻りますからっ!!」
翡は大股で、憤然と浴室の外へ歩き去った。その背を眺めながら、ジンはもっともな疑問を口にした。
「で、なぜこんなところに蛇がいるのでしょうか?」
「さあな。湯に浸かっていたらどこからか現れた。適当な隙間から侵入してきたんじゃないか?」
「ご入浴の前に点検したときは、確かに蛇などいませんでした。蛇が現れてすぐにもう一人の護衛の者に外を見に行かせましたが、特に不審な人物なども見つからず……。もとより建物の外側には見張りを立たせていますし、その隙をついてこれほど大きな生き物が偶然侵入したとは考え難いです」
状況を説明しながら、アミルはちらりとジンを見た。その視線を敏感に感じ取ったジンは、冷ややかに口の端を歪めた。
「つまり何者かが故意に蛇を放り込んだ、と」
「そこまではわかりませんが……」
「おや、本当ですか? まるで私が蛇を差し向けた犯人だとでも言いたげな視線を感じたのですが、気のせいでしたか」
「……そのように感じさせてしまったのなら謝罪いたします。失礼いたしました」
アミルはばつが悪そうに目を伏せた。蛇の侵入がファルシャードを傷つけるために行われたとするなら、随分と粗末な犯行だ。他ならぬ神燈の魔人である彼がそんな方法を取るはずはない。相手が王族だろうと、たかが人間一人を殺すくらいのことは、彼にとっては造作もないのだから。
「珍しいな、アミルが圧されているなんて。まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。なあ?」
ファルシャードが指の背で鱗を撫でながら話しかけると、蛇は答えるように舌を出した。
神燈奇譚 閑谷閑 @nyomugen
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