第3話 紫水晶の魔人

(――って、怪しすぎる)

 強引に押し付けられた革袋を見下ろして、翡は後悔した。

 念のため辺りを警戒しつつ歩いているが、今のところは頭上を烏が飛んでいったくらいで、人買いどころか動物が飛び出してくることもない。

(それに、なんでランプに直接触っちゃダメなんだろう?)

 不審な点は多いが、とくに意味が分からないのが、最後に伝えられた条件だった。

(水没してるんじゃ、今更手の脂がついてどうこうとかもないだろうし、取れやすい装飾があるんだったら袋に入れるより手で慎重に持ち運んだ方がいいだろうし……)

 老人の意図に頭を悩ませながら森を進んでいくと、ほどなくして、陽光を受けて煌めく水面が現れた。

「でもまあ、ここまでなにもなかったし、本当に湖もあるし。……やってみるか」

 湖に湛えられた水は、底がはっきりと見えるほど澄み切っている。ほとりにしゃがんで覗き込んでみるも、砂利や岩があるばかりでそれらしきものの姿は見当たらない。

 水温を確かめようと、身を乗り出して水面に手を伸ばし、翡はある問題に気付いた。

「そういえば、着替えもなにも持ってこなかったな。どうしよ――っ!?」

 指先を浸した瞬間痺れが走り、翡は驚いた拍子に均衡を崩して頭から湖へ突っ込んだ。

「うわっ!!」

 指だけでなく身体中が痺れ、思うように動けない。

 それでも力を抜き、四肢を伸ばしてどうにか浮こうとするが、翡の身体はさらに水底へと沈んでいった。

(あっ、あれって――)

 水中の岩場の影にきらりと光ったものを見つけ、老人からの素手で触れるなという忠告も忘れて思わず手を伸ばす。

 しかし指の先が触れたのも束の間、翡は力尽き、意識を手放した。



***



 鬱蒼とした森の上空から烏が現れ、襤褸を纏った老人の頭上を旋回しながら三度鳴いた。

「……ああ、駄目でしたか」

 頭巾のように被った布の下から空を見上げ、男は嗄れ声で肩を竦める。

 曲がっていた腰を伸ばし、薄汚れた布から皺ひとつない蒼白い腕を差し出すと、烏が舞い降りてその上に止まった。

「仕方ありませんね。まあ、はじめからうまくいくとは思っていませんでしたし」

 黒く艶やかな羽を撫でて語りかける声は、先ほどまでとは一転して若々しく澄んだものになっていた。

「僕はもう行かないといけませんが、彼女がどうなったか見届けてもらえますか?」

 赤の他人を助けるほどのお人好しがあの湖に入るとどうなるのか、なるべく詳細に知っておきたかった。

 にまったく合わない人間を落としてみたときは水に触れるやいなや感電死したが、ある程度条件に沿った者なら、溺死さえ免れれば生きて地上へ帰ってくることができるのだろうか。それとも、条件に完璧に合致している者以外は皆、足を踏み入れた時点で命を奪われるのか。

 烏は返事をするように短く鳴いて、男の手から飛び立った。

「それにしても、完全に心の清らかな人間なんて、はたしてこの世にいるんでしょうかねぇ?」

 みるみる小さくなっていく烏を見送りながら、男がぼやく。

 襤褸を脱ぎ捨てたその顔は、腕と同じくらい蒼白く、女性と見紛うほどに美しく整っていた。



***



 鼻の奥が痛い。

 頭もずきずき疼くし、濡れた衣が皮膚にまとわりついて気持ち悪いことこの上ない。

「お目覚めですか」

 フェイの朦朧とした意識の中に、心地よい低音が響く。

 ゆっくり瞼を押し開けると、悠然と腕を組んでこちらを見下ろす男と目が合った。長い睫に縁どられた瞳は、質の高い紫水晶アメジストのように深く鮮やかな色をしている。

「は? 誰!?」

 突然現れた見知らぬ人物に驚き、翡は飛び起きた。

「そちらの神燈シェンドンに囚われていた魔人でございます。どうぞ、ジンとお呼びください」

 魔人を名乗るその男は、長い脚を曲げて地に片膝をつき、恭しく頭を垂れた。

 彫りの深い顔立ちも、金の腕輪や首飾りに彩られた褐色の肌も、異国風ではあるが人間と変わらないように見える。

「しぇんどん……? まじん…………?」

 話についていけず、翡は耳慣れない単語をたどたどしく繰り返した。 

「我々魔人は、その封印を解いた方にお仕えする定め。なんなりとお申し付けください。我が新たな主、シァフェイ様」

「な、なんで私の名前を知ってるの!?」

「魔人ですから」

 翡を見上げたまま、自称魔人はにっこりと微笑んだ。

「さあ、願いをどうぞ」

「いや、急にそんなこと言われても困るというか……。まず魔人がなんだかもよくわからないし」

「混乱なさるのも無理はありません。魔人は非常に稀有な存在。死者を蘇らせることや人心を操ることなどのごく僅かな禁忌を除いて、どのようなことでも成し遂げる力を持ち、その全てを主のために行使します。……まあ、厳密には魔人にも能力差があるので、出来の悪いものだと他にも細々とした制約がありますが、私はそのようなことはございませんからご安心ください」

「はぁ……」

 ペラペラと喋る男の勢いに気圧され、翡は目を白黒させた。

「神燈を手にした今、世界の全てはあなたの思いのまま。信じられないと言うなればこそ、試しになにかお命じください。金銀財宝はいかがです? ああ、それとも……年頃の女性なら恋の成就をお望みですか?」

「いや、別に……あれ、さっき人心は操れないとかなんとか言ってなかった?」

「心は変えられませんが、無理矢理連れてきて結婚させることは可能です」

「さ、最悪だ……。というか、その……私そういうの要らないんで」

 思いがけない言葉に、魔人の顔から表情が消える。

 二人の間に、しばし沈黙が流れた。

「…………要らない、とは?」

 魔人は、信じられないものを見るような目で翡を注視した。

「初対面のあなたに叶えてもらいたい願いとかないし、仕えてもらわなくて大丈――うわっ!?」

 背中に衝撃と痛みを感じ、翡は一瞬なにが起きたのかわからず目を見開いた。

 いつのまにか大木に背中を叩きつけられ、魔人に冷ややかな目で見下ろされていた。

「卑賤な小娘が、この私の申し出を断る、と?」

 今の今まで跪いていた男から向けられる、蔑むような声と表情。

 その豹変ぶりに混乱しつつも、翡は咄嗟に腹部を蹴りとばしたが、魔人というだけありびくともしない。

「っ!? なんで!?」

 これまで自分の打撃をまともに受けて、無傷で済んだものはいなかった。神燈だの魔人だのというくだりは半信半疑で聞いていたが、翡は相手の得体の知れなさにようやく気付き、警戒するように紫の瞳を睨んだ。

 それでも、肉弾戦が駄目ならと腰の柳葉刀に手をかける。

「無駄ですよ。人間は魔人に敵いません」

 魔人は呆れたように溜め息をついた。

「刃物ごときで私を傷つけることなどできません。さあ、おとなしく願いなさい。まずは、そのずぶ濡れの小汚い衣服を着替えさせて差し上げましょうか?」

「断る!」

 言い方はともかく内容だけ聞けばただの親切な申し出だったが、既に彼を敵と見做した翡は、衣服へ伸びてきた手を素早く払いのけた。

「そうやってタダで言うこときくと見せかけて、どうせ後で法外な金額ふっかけるんでしょ!?」

「ほう……我が主は、私をそこらの悪徳商人と一緒にするおつもりですか」

 魔人の額に、青筋が浮かぶ。

「だいたい、あんたの主は私じゃないから。私は変なおじいさんに頼まれてランプを取りにきただけ。元の持ち主のところに帰ったら好きなだけ願いでもなんでも叶えなよ」

「元の持ち主、とは?」

「これをその湖に落としたおじいさん」

 翡は足元に転がる古ぼけたランプを拾い上げ、湖を指差した。もはや老人から渡された革袋もなく、素手で触れないようにという忠告も忘れていた。

 魔人は一瞬怪訝そうにした後、その言葉の意味することに気付いて主を鼻で笑った。

「そんなものいませんよ」

「へ?」

「おそらく、なんらかの方法で神燈の在り処を知ったその老人が、あなたを騙して取りに来させたのでしょうね」

 魔人の奇妙な推測に、翡は首を捻った。

「なんでわざわざ? 自分で取りに来ればいいのに」

「この湖に触れられるのは、心の清らかな者のみ。彼はきっと、心が汚れている自覚があって人に頼まざるを得なかったのでしょう」

「ええー……って、あれ? もしかして、私が手を入れたときに痺れた気がしたのって……」

「心が汚れているからでしょうね。そもそもの人選に誤りがあったようです」

「ひどい……」

 説明もなく危険な湖に入らされた上、勝手に心が汚れている判定を下されるなんて。とくに善人として生きているつもりもなかったが、翡は少し傷ついた。

「まあ、痺れただけで済んだのならだいぶましな方ですが。なにしろ湖の基準は厳格で、あの水に触れてもなんともないのは悟りを開いた聖人くらいのものですから。あまりに邪な者だと、即死ということもありえます」

 つまり、例の老人は自分の欲望のために、人によっては死ぬ可能性もある湖へ初対面の人間を騙して行かせたということだ。手の中の神燈を見つめながら、翡はぽつりと呟いた。

「……そんな人に、これを渡してもいいのかな……?」

「だれかれ構わず渡せるような代物なら、わざわざこんなところに置いておかないと思いますが」

「だよねー。……もう一回沈めていい?」

「……は?」

 魔人は唖然として翡の顔を凝視した。

「だって、持ち主に相応しい人を探すためにここにあったんでしょ? じゃあまた置いておいて次の人が来るのを待つしかないじゃん!」

「次とはいつですか?」

「えっ? 知らないけど……明日とか、明後日とか?」

「五十年」

 魔人は、五本の指を立てて翡の目の前に突き出した。

「前の持ち主が亡くなってから今日まで、およそ五十年です。それで、次の人間がいつ現れると思いますか? もう五十年、湖の底に沈んで待っていろと?」

「んなこと言われたって、その制度考えたの私じゃないし……というか」

 翡は憤慨する魔人をきっと見据えた。

「人のこと木に押しつけて脅してみたりあんな口きいたりしておいて、連れ帰ってもらえると思う?」

「謝ってほしいのなら、そう願ってくださればいくらでも謝罪いたしますよ。私はあなたの下僕なのですから」

 こんな態度のでかい下僕がいてたまるか、と翡は呆れ返った。

「いい、いい。別にこっちはあんたに興味ないから。一人で五十年でも百年でも待ってれば? じゃあね〜」

 ひらひらと手を振って踵を返した翡の背に、魔人は冷たく言い放った。

「湖に沈みかけていたあなたを、誰が引き上げたと思います?」

 翡の足がぴたりと止まる。

「主の命令がなく魔力を使えないながらも、懸命に介抱をしたというのに」

 命令がないと魔力って使えないの!? と新情報に驚きつつ、彼が溺れていた自分を救助してくれたという事実を思い出し、翡の良心はちくちくと痛みだした。

「神燈の主だから助けたのであって、そうでないのなら――」

 魔人が肩に手を伸ばしかけた瞬間、翡は勢いよく振り返った。

「ああ、もう! わかったよ! とりあえずこの――神燈だっけ? は、持って帰る。それで、おじいさんには不安だから渡せないって断る。だから、はい」

 先ほどまで自分を閉じ込めていた器物を押し付けられ、魔人は眉を上げた。

「……なんですか?」

「自分の身は自分で守って。口で言って諦めてくれるかわからないでしょ?」

「それは主としてのご命令でしょうか?」

「へ……? いや、違うから! どさくさに紛れて願い叶えようとしないで! 別におじいさんに渡したければ渡せばいいけど、自分でも良くないと思うんでしょ? だったら自力でなんとかして」

「別に私は、極悪人が神燈の主になろうと知ったことではありませんが……。ところであなたの名前は、本当に夏翡で間違いありませんね?」

「そうだけど……なんで?」

「ちょっとした確認です。お気になさらず。それで、あなたの身は? 私に命じて守らせた方がよろしいのでは?」

「私はいいよ。人間相手なら大丈夫」

「……相手が人間なんて保証はないと思いますけどね」

「えっ? なにか言っ――うわっ!?」

 歩き出そうとした瞬間、翡の身体は宙に浮いた。

「ちょっ! なになに!? やめて!?」

 肩と膝裏を支える形で抱え上げられ、翡はなにごとかと魔人の腕を叩いた。

「それはご命令でしょうか?」

「違う!!」

「……はぁ。森の外へ連れていけ、と一言お命じくだされば一瞬なんですがねぇ。人間の足に合わせてちんたら歩くのなんてまっぴらですから、このままお連れしますね」

「は!? なに勝手なこと――」

 魔人が凄まじい速度で走りだすと、翡は舌を噛まないよう慌てて口を閉じ、高速で移り変わる目の前の景色をただ呆然と眺めるほかなかった。



***



 翡が酷い揺れに苦しんだのもほんの一時、繁茂する樹々は忽ちまばらになり、あっという間に昼前に老人と別れた森の入り口へと戻っていた。

「……ううっ、吐きそう……」

 強引な下僕の腕から解放されると、翡は地面に両手両膝をついてぐったりと倒れこんだ。

「それで、あなたを謀った老人はどこに?」

「……あれ? おかしいなあ。ここで待ってるって言ってたんだけど……」

 身体を起こし、まだ少し蒼褪めた顔で辺りを見回すが、誰もいない。

「待ちくたびれて帰ったのかな? ――っ!」

 反射的に柳葉刀を抜いて、翡は向かってきた飛来物を弾き落とした。

 足元には、二つに折れた矢が転がっている。

「誰だ!?」

 刀を構えたまま矢の飛んできた方角を睨むと、少し離れた樹の陰から人影が現れた。

「――見つけたぞ、俺の翠玉エメラルド

 艶やかな洎夫藍サフラン色の髪が、真昼の強い陽光を受けて黄金に輝く。

 眩しいほどの純白の衣にジャラジャラと宝石を散りばめた青年が、弓を手に不敵な笑みを浮かべていた。

「ほんとに誰!?」

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