第2話  不審な依頼

 隊商宿には窓がない。正確には、中庭を取り囲むように建てられた建物の外側には開口部がほとんどなく、中庭に面した内側の壁面にだけ風や光を取り込むためのアーチ形の穴が並んでいる。賊の侵入を防ぐ目的で、出入りできる場所は最小限になるよう造られていた。

 仮眠を終えた翡が宿泊所となっている二階から中庭を見下ろすと、既に人の姿があった。

「おはようございます、文懿さん」

 急いで階段を下り、翡は駱駝の世話をしている人影に駆け寄った。

「ああ、おはよう」

 振り向いた文懿は、やや視線を下げて返答した。翡とは二歳しか違わないが、すらりとした長身と落ち着いた雰囲気のために実年齢よりも大人びて見える。

「道中でも話したとおり、今日は俺と永叔は人に会いに行く。護衛は不要だから、起きてくる必要はない」

 淡々と話す文懿の言葉から「まだ休んでいていい」という気遣いを言外に汲み取り、翡は微笑んだ。

「ありがとうございます。でも、せっかく遠くの国まで来たので、街の見物でもしようと思います」

「そうか。……一人で大丈夫か?」

 文懿の表情が曇る。護身に関しては何の心配もないが、初めての土地を一人で歩き回れば、道に迷ったり厄介事に巻き込まれたりしかねない。

「俺たちに同行できればよかったんだがな。今日会う客は、何故か俺と永叔だけで来るよう言っているらしい」

「変わったお客さんですね。ちょっと怪しくないですか?」

 今度は、翡の方が文懿を心配する番だった。

「俺は会ったことはないが、永叔の知り合いだから害はないはずだ。もともと変わった人物らしい」

 文懿は、事前に永叔から聞いた話を思い出した。十年来の付き合いの呪術師で、見るからに胡散臭いが一応危害を加えてくることはないという。

「永叔さんの? それなら安心ですね」

「…………」

 胡散臭い呪術師という肩書きの相手に安心していいものか、文懿は逡巡した。

「でも、用心するに越したことはありませんから。気を付けて行ってきてください」

「ああ」

 短く返答する間、文懿の堅い表情筋が僅かに柔らいだ。


 そのやりとりを、物陰からこっそり窺う三名がいた。

「ほら、見て!! この新婚さんっぽい雰囲気! 二人とも真面目で素直で働き者で、お似合いだと思うんだけどな~」

 しゃがんで声を潜めながらも興奮気味な隊長に、同じく隣に屈みこんだ若い商人は首を傾げた。

「そうっすか? 普通に喋ってるようにしか見えませんけど」

「わかってないなぁ。あんな風に文懿が笑うこと自体、結構貴重なんだぞ?」

「え? あれ笑ってるんすか?」

「まあ確かに、歳も近いしお似合いっちゃあお似合いですよね」

 駱駝の様子を見に行こうとして永叔に捕まったもう一人の商人は、日頃の文懿と翡の様子を思い浮かべて永叔に同調した。

「でしょ? 文懿だって満更でもなさそうだし、翡ちゃんさえ乗り気になってくれればなー」

「でも大商団の跡取り息子と用心棒って、身分差的に結婚は厳しいんじゃないですかね?」

「えー? いくら金持ってたって、うちはただの商家だぞ? 貴族じゃあるまいし、平民同士で身分差もなにもないって! 兄貴だって、そんなことより当人たちの意思を尊重する性質だし」

「それに、翡と夫婦喧嘩したら大変そうっすよね」

「そこは大丈夫! うちの文懿は奥さんを怒らせたり悲しませたりするような男じゃ――」

「そこで何をしている?」

 頭上からの冷ややかな声に、二人は凍りつき、一人だけがへらへらと笑って答えた。

「……えーっと、甥っ子自慢?」

 腕組みをした文懿は、物陰にしゃがみこんだ三名を見下ろして眉を顰めた。

「人のことより、自分の心配をしたらどうなんだ?」

 甥からの冷たい視線をものともせず、永叔はひらひらと手を振った。

「え? 心配って、結婚のこと? オレはもういいよ〜。こんなおっさん誰も相手にしてくんないし」

 実際は、人当たりがよく容姿も収入もそれなりの永叔は引く手数多だったが、せっかくの縁談も言い寄る女性たちも本人が全てかわしてしまうために、三十を過ぎて未だ独身だった。

 そんな永叔の言い分を素直に信じているのは翡くらいのもので、文懿は飄々と笑う叔父に呆れたように溜め息をついた。

「あれ、そんなところでなにしてるんですか?」

 文懿がまだ出かけていないのを不思議に思った翡が、一団に近寄ってくる。

「別になんにも。オレが『いつまでも結婚できないね!』って憐れまれてただけ」

 軽口を叩く永叔に、翡は小さくあっと叫んで気まずそうな表情を浮かべた。

「……今度お母さんの友達紹介しましょうか? 初婚の人でなくても良ければ……」

 本物の憐憫の眼差しを向けられてしまい、好きで未婚でいるとはいえほんの少しだけ傷ついた永叔は苦笑いを浮かべた。

「……うん、ありがとう。気持ちだけもらっておくよ」

 これくらいの女の子からするとやっぱり可哀想なオジサンに見えるんだなー、と永叔は感傷に浸ったが、続く言葉に耳を疑った。

「それか、数年後も独りだったら私が嫁ぎますよ」

 一瞬にして場が静まり返る。爆弾発言を投下した本人だけがそのことに気付かず、照れたように笑って頬を掻いた。

「……なんて、いらないと思いますけど――」

「ええぇぇっ!?」

 永叔は思わず立ち上がり、傍らに立つ甥の顔から表情が消えたのを見て更に慌てた。

「翡ちゃん、それはダメだよ! 冗談なのはもちろんわかってるけど、言っていいことと悪いことが……!」

「あ、すみません……。私なんかにそんなこと言われても嫌ですよね……」

 誤解して肩を落とす翡に、永叔はあたふたと首を振った。

「違う違う! 嫌じゃないよ!? 全然嫌じゃないし、むしろオレからすればありがたいけど――いや、やっぱ今のナシ!!」

 隣から放たれる殺気を察知し急いで発言を取り消すも、拒絶すれば翡が傷つき、受け入れれば文懿の心が死ぬという板挟みの状況で、永叔は頭を抱えた。


「おれらもう行っていいっすかね?」

「……ああ、行こうぜ」

 珍しく慌てふためている隊長をしばらく眺めていた二人の商人は、面倒事に巻き込まれる前に離れようと、そっとその場を後にした。



***



 中庭に面した通路を行くと、隊商宿に隣接する市場バザールへ出る。

 煉瓦造りの屋根が市場の上を覆い、通路の両脇には多くの小さな店舗が連なっていた。赤、橙、山吹色といった色とりどりの香辛料が山積みの店や、店先から狭い店内まで大小の鍋が吊り下げられた金物屋などが建ち並び、異国情緒が漂っている。

 翡はそれらを見物しながらしばらく歩き、縦横の道が交差する十字路で、どちらへ行こうか辺りを見回しながら立ち止まった。


「邪魔なんだよ!」

 突然の怒鳴り声に、賑わっていた市場は静まり、人々の間に緊張が走る。

 声の聞こえてきた方を見ると、二人組の男が何かを蹴っていた。

「ううっ……やめてくれ……」

 薄汚れた布を纏った老人が男たちに蹴り飛ばされ、弱々しく呻いている。

「こら! なにやって――!」

 翡が声を荒げて止めに入ると、男たちは緩慢な動作で同時に振り向いた。その眼は濁り、焦点が定まっていない。

「な、なに……?」

 たじろぐ翡を尻目に、先ほどまでの威勢を無くした彼らはふらふらと立ち去って行った。

 多少の殴り合いは想定していただけに、あまりにも呆気なく退散していく暴漢たちに拍子抜けする。

「な、なんだったんだろう……? 大丈夫ですか?」

「おお、ありがとう」

 差し出された手に掴まって立ち上がると、老人は嬉しそうにその手を撫でさすった。

「なんと優しい! きっと素晴らしく清らかな心の持ち主に違いない……!」

「いえ、当然のことをしただけですから」

 立ち去ろうとする翡の手を、老人がぎゅっと握りしめた。

「痛っ」

「心優しいお嬢さん。どうかこの老いぼれのささやかな願いを聞いてはくれんか?」

 唐突な申し出に、翡は困惑した。一方的な暴力が見過ごせなかっただけなのに、面倒なことになってしまった。

「すみませんが、用事があるので……」

 今度こそこの場を離れようとするが、老人の力は思いのほか強く、なかなか握られた手を振りほどけない。

「頼む! もちろん、ただでとは言わん。ほれ」

 老人が懐から数枚の銀貨を差し出す。日雇いの仕事として考えると、悪くはない額だった。

 みすぼらしい身なりの老人になぜそれほどの資金があるのかと考えると怪しさ満載だが、断るのは用件を聞いてからでも遅くない。

「……内容にもよりますけど、いったいどんな願いですか?」

「街のはずれに森がある。そこの湖に落としてきてしまった物を取ってきてほしい。それだけじゃ」

「森?」

 翡は躊躇した。泳ぎは苦手ではないから、決して難しい頼みごとではない。しかし、こんな得体の知れない老人に連れられて、知らない土地の森なんかに行ってしまっていいものだろうか。

 「知らない人はまず疑え」と、両親や永叔たちから日頃口を酸っぱくして言われていたことを思いだし、翡はしばし考え込んだ。

「……もしかして、私のことを売り飛ばそうとしてる?」

 はっと閃いた風の翡に、老人はしょぼしょぼさせていた目を見開いた。

「なぜそうなる!? 今の頼みごとのどこがそう聞こえたんじゃ!?」

「森に人買いの仲間がいて、私をそこへ誘導しようとしてるんじゃないですか?」

 子供や女性が攫われて売り買いされるという事件は、故郷でもよくあることだった。地元では翡を狙うような命知らずはいなかったが、ここでは異国の女性という属性のせいで標的になってもおかしくはない。

「まさか!」

 狼狽えるあまり、老人は絶句した。図星というよりは、思いがけない誤解にどう弁明すべきか考えあぐねているようだった。

「金額といい内容といい、怪しすぎるんですよね。それくらい、自分で取りに行けばいいでしょう?」

「わしは金槌なんじゃ。湖なんぞ入ったら沈んでしまう!」

 なおも疑いの目を向ける翡に、老人は泣きついた。

「下手な相手に頼めば、金だけ持ち逃げされるのがオチじゃ。そうならんよう、誠実な者が現れるのを待っておったんじゃ~」

 確かに、この弱弱しい老人では銀貨を見せた途端に、先ほどのように暴行されて奪い取られてしまってもおかしくはない。けれど、そんな心配をするにしては、やけに握力が強いのが気になった。

「……まあ、森で人買いに引き渡すわけじゃない、って証明してもらえれば取りに行ってもいいですけど」

「そうかそうか! やってくれるか!」

「いや、だから――」

「そんなこと森に行けばすぐわかるぞ! わしに人買いの仲間なぞおらんからな! さあ、行こう!!」

「ちょ、ちょっと……!」

 老人に腕を引かれ、半ば引き摺られるようにして翡は市場の出口へと連行された。


 小半時も歩かないうちに森が現れ、翡は目を瞠った。あの乾いた砂の街の目と鼻の先に、これほど豊かな緑があるとは信じがたかった。心なしか、空気まで湿り気を含んでいるように感じる。

「じゃあ取ってくるので、ここで待っててください」

「なんじゃ? わしは湖に入れんだけで、森の中くらい歩けるぞ?」

「あなたがついてくるなら行きません」

 老人は呆れたように溜め息をついた。

「警戒心が強いのう……。まあ、別にかまわん。道なりに行けばほどなくして湖がある。その中に沈んでいるランプを持ってきてほしい」

「ランプ? どんな見た目ですか?」

「これくらいの大きさで、黒ずんでおるかもしれんが元の素材は真鍮じゃ」

 老人は両手で寸法を示して説明し、懐から革袋を取り出した。

「そのランプには、絶対に直接触れてはならん。この袋に入れて持ってきておくれ」

 翡は革袋を受け取ると裏返して隅々まで検めたが、特に不審な点は何もない。

「なんで触っちゃいけないんですか?」

「ん? それはまあ……手が荒れたり……」

 歯切れの悪い物言いに、翡は怪訝な顔で老人を見た。

「触ると危ないものなんですか?」

「いやいや、そんなことはない! 全く危なくなどないぞ!  ……ランプを触る分には」

「え? なんですか?」

「ほれほれ、早く行くんじゃ! 日が沈んだ森こそ危険じゃろう! 明るいうちに取ってきてくれ」

「まだ昼前ですけど」

 老人の態度と奇妙な条件を訝しみながらも、翡は促されるままに青々とした木立へと足を踏み入れた。

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