第22話 彼女の幸せのために
最近の彼女はどこにいても噂の的だった。
纏う空気が優しいものになり、親しみを覚える生徒達も少なくない。
彼女の笑顔は他の者を魅了し、そこにいる人々は嫌でも惹きつけられる。
今の彼女は生き生きとして、以前よりも輝いている様に見えた。
もう以前のルクレツィアではないと認めたクレイは、時が経ち少し冷静に彼女を見る事ができるようになっていた。
これでいいんだ……。
これが俺の望んでいた事なのだから。
これが本来の彼女の姿なんだ。
そして誰かの隣で幸せそうに微笑みを浮かべるルクレツィアを想像すれば、クレイの胸に痛みが走った。
クレイはその痛みを振り払う様に、首を横に振った。
俺は、今は彼女を幸せにする自信がない。
また彼女を以前の彼女にしてしまうかもしれない。
それを想像して……恐ろしくなった。
もう彼女をいい加減、解放してあげなければ……。
そのためにも彼女の側に俺はいない方がいい。
俺も、もう彼女に執着するのをいい加減やめなければ。
彼女の未来のために。
何より、彼女の幸せのために……。
だけど、なぜだろう。
この空虚感は。
虚しい……。
ひどく俺の心を締め付けて、今にも叫びたい衝動に駆られる。
生きているのかさえ不安に感じたあの頃を思い出す。
そして俺を恐怖に陥れる。
ああ、喉が渇く……。
この乾きを満たす事は永遠にできないのだろうか。
でも、これでいい……。
彼女を傷付けてしまうくらいなら、無理やりにでも蓋をしよう。
いつか、笑い合える日が来るだろうか。
初めて会った頃を思い出す。
あの頃にもう一度戻れたなら……今とは違う未来を築けたはず。
クレイはそう思った。
でも、もうあの頃には戻れない。
そしてこの乾きをどうにかしなければ、俺は彼女に触れる事はできない。
でもこれだけは言える。
彼女を誰よりも深く想っているのは自分だと。
全てを失っても、彼女の幸せのためなら迷わず捨てられる。
けれど、それを彼女が望んでいない事も分かっていた。
だから……せめて彼女を陰ながら守ろうと決めた。
彼女を死なせはしない。
時折見せる彼女の悲しみが、俺の胸を締め付けてくる。
……悲しい想いはさせたくない。
いつも笑っていて欲しい。
ふと、そんな気持ちが湧き起こった。
最近のルクレツィアはとても綺麗だった。
それは彼女の笑顔がそう感じさせていると思った。
彼女の笑顔をもっと見たいと、最近の俺は自然と思える様になった。
それが何より嬉しいと感じた。
◈·・·・·・·◈·・·・·・·◈
放課後、剣の鍛錬を終えたクレイが廊下を歩いて帰路についていた。
そして、ちょうど角を曲がろうと近づいた時、反対側から足音が聞こえてくる。
クレイはこのままだとぶつかると思い、立ち止まった。
すると思った通り、角から誰かが飛び出してきた。
その相手はクレイを見るなり、目を大きく見開かせた。
クレイも飛び出してきた人物を目にして驚いた表情になった。
なぜなら、それはルクレツィアだったから。
ルクレツィアは動揺の色を瞳に浮かばせながらも、後ろの方を気にしている様子だった。
すると、ルクレツィアが来た方向から再び足音と声が聞こえてきた。
「モンタール嬢。どちらですかぁ。」
その声を聞いたルクレツィアは、目を泳がせながら不安な顔付きになる。
そしてクレイに困った様に微笑みを浮かべると、軽い会釈をしてその場を立ち去ろうとした。
だが、クレイが思わず彼女の腕を掴んだ。
ルクレツィアは驚いてクレイを見上げる。
クレイはそのままルクレツィアを背後に隠すと、声の主が現れるのを待った。
そして角から見知らぬ男が姿を現すと、クレイは冷たい視線で睨みつけた。
その男は思わず恐怖の声を上げた。
「ひぃっ。ま、魔物っ!」
クレイは冷ややかな笑みを浮かべると言った。
「ルクレツィアに何か用か?」
「え、あ、あの、いえ……」
相手は完全に恐怖で委縮してしまっていた。
クレイが更に言葉を発しようと口を開く。
だが背後にいたルクレツィアが、怒りを露わにした顔で前に飛び出してきた。
「そこのあなた!突然そんな不躾な言葉を浴びせるのは、あまりにも失礼ではなくてっ?」
その言葉に見知らぬ男とクレイが驚きの顔を見せる。
「今すぐ謝罪しなさいっ」
ルクレツィアは以前の悪役令嬢の様な鋭い目つきで相手を完全に威圧すると、その男は顔を真っ青にしながら慌てて謝罪した。
「も、申し訳ありませんでしたっ」
そう言うなり、もと来た方へと男は慌てて退散していった。
ルクレツィアは腰に手を当てて、大きな溜め息を吐いた。
「まったくっ。この程度で逃げるなんて、張り合いのない人!」
その言葉にクレイが一瞬、虚を突かれた顔をした。
だが次には、吹き出すと笑い声を上げた。
ルクレツィアは驚いて後ろを振り返る。
クレイはお腹を抱えて笑っていた。
「ク、クレイ?」
ルクレツィアはどうしていいか分からずに慌てた。
クレイは笑いを抑える様に、手で口を覆い隠すと言った。
「お前、変わってないな。さっきのあいつの顔。俺が睨んだ時よりも怖がってたぞ。クックッ……」
ルクレツィアは顔を真っ赤にさせて言った。
「だ、だって、あんなやつにクレイの事を悪く言われるの、我慢ならなかったから……」
だがそう言った直後、ルクレツィアは顔をハッとさせて慌てて言った。
「今、お前が言うなって思ったわよね。ごめんなさい。散々、今まで悪態をついてきた私が言える言葉じゃなかったわ。」
ルクレツィアが頭を下げると、クレイが首を横に振った。
「いや、なんだか安心した。昔のルクレツィアを見ている様で……」
そう言った途中で言葉を詰まらせ口を閉ざすと、クレイは切ない瞳でルクレツィアを見詰めた。
ルクレツィアはその瞳の意味に気付くと、少し戸惑いを見せる。
でも唇を強く噛み締めると、真っ直ぐにクレイを見詰めて言った。
「クレイ。私は、もう以前のルクレツィアには戻れない。でも……過去のルクレツィアを失ったわけじゃないの。過去も今も、全部含めて私は私なの。」
「そうか……」
クレイの声に寂しげな色が滲む。
「……俺も変わらないとな。」
その言葉にルクレツィアは目を見開いた。
「変わる?クレイ、あなた変わりたいの?」
「ああ……今のままでは、だめだからな。」
クレイが顔を歪ませながらそう言うと、ルクレツィアの胸が痛んだ。
そしてそっと労わる様に声を掛けた。
「あなたは、だめなんかじゃない。全然だめじゃない。まさか、自分をそんな風に思っていたなんて。……今のままじゃだめなの?認めてあげられないの?」
クレイは思いがけない事を言われ、言葉に詰まった。
ルクレツィアは更に言った。
「私は、あなたの感情を否定した訳ではないの。変わって欲しくて秘密を打ち明けた訳じゃない。ただ、あなたを苦しめている感情からは解放させてあげたいと思った。歪んだ感情が苦しめていると思ったから。私が以前のルクレツィアではないと分かれば、その苦しみから解放されると思った。……でも、あなたはまだ苦しんでる。なぜそんなに苦しんでいるの?気付いて欲しい。その感情にはとても大切なものがある事に、だって……」
クレイはその言葉に驚き、ルクレツィアを凝視した。
「たいせつな……もの?」
思わず口に出して問い掛けていた。
ルクレツィアはゆっくり頷くと言った。
「ええ、だってあなたは私が一番つらい時に側にいてくれた。悲しみ全てを包み込んでくれたのはクレイ、あなたよ。あなたのその心によって私はあの時、確かに救われたの。こんなに深くて強い愛情を持っている人を私は他に知らない。愛情が深い事に間違いなんてあるはずない。私がそれを歪ませてしまったのが悪いのに……」
それに対し、クレイが直ぐに遮って言った。
「違うっ。俺がそう仕向けたんだ。お前は悪くない。……お前を歪ませたのは、俺だ。だから、この感情はだめなんだっ」
ひどく傷付いた顔のクレイを見て、ルクレツィアは慌てて首を振る。
「それは違うわっ。私が望んだ事よ。私が弱かっただけなの。私が強ければ、もっと違う形であなたとの関係を築く事ができたのに。求めるだけだった私が間違っていたの。あなたは私を十分苦しみから守ってくれてた。私も同じ様に助けなければいけなかったのに。あの頃の私は求めてばかりだった。本当にどうしようもないっ……」
「やめてくれっ」
クレイが顔を背け、怒鳴った。
だがルクレツィアはやめる事なく、クレイの両腕を掴むと必死で訴えた。
「今度こそあなたを守りたいのっ。もう間違えたくないっ。あなたの感情の受け止め方を間違えたりしない。あなたが苦しかったのは、私が受け止め方を間違っていたから。あなたはそのままでいいの。その感情は間違いなんかじゃないっ。否定してはだめっ。だって、その感情も含めてクレイはクレイなんだから。」
クレイはその言葉を聞き、ひどく混乱した。
「嘘だ……」
狼狽えながら、ゆっくりと首を横に振った。
そして今にも泣きそうな顔でルクレツィアを見詰める。
この感情が間違いじゃない?
じゃあ何故こんなに苦しいんだ?
どうして、こんなにも渇きを感じる?
どうして……。
彼女に手を伸ばせば、答えがでるのだろうか?
その答えを彼女が教えてくれるのだろうか。
だけど、彼女をまた傷付けるかもしれない……。
また同じ事を繰り返すかもしれない。
今度こそ、手を取ってしまったら……。
……もう、戻れない。
怖い。
また彼女を苦しめるのが。
もう二度とあんな事をさせたくない。
それなら、俺だけが苦しいままでいい。
「クレイ……」
ルクレツィアはクレイの苦しみを感じたのか、泣きそうな声で名を呼んだ。
そして震える声で言った。
「幼い頃に植え付けられた苦しみは、もう消せないかもしれない……。けど、つらい時は抱き締めてあげる事はできる。その苦しみが少しでも和らぐように……」
それを聞きクレイの瞳が見開かれると、大きく揺らめいた。
思わず、彼女に触れようと手を伸ばす。
そう訴える彼女の瞳は涙で煌めき、とても綺麗だった。
だが、そのあまりに美しい瞳にクレイは息を呑む。
そして触れる事に躊躇いを覚えて、手が止まった。
……また、この瞳を濁らせてしまうかもしれない。
そんな彼女は……見たくない。
クレイは自分の手を強く握りしめると、自分の感情を無理やり押し殺し、重い口を開いた。
「……もう、俺に構うな。」
できるだけ冷たく、そして突き放す様な声で。
そう言い、クレイは掴まれていたルクレツィアの手を外した。
既に彼女の手に力はなかった。
そうしてクレイは背を向けると、その場から立ち去っていった。
これでいい。
これで、いいんだ。
彼女を不幸にさせないために。
そして何より、彼女の幸せのために……。
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