3

 九月某日。俺達は犯行を実行した。

 彼女の通学路の途中にある細い脇道に二人で隠れた。最初は犯行に抵抗があった西口も決心が決まったようだった。

 しばらく待っていると、闇の中から人影が浮かんできた。数秒間、その人影は街灯に照らされ、顔を確認した。間違いない。ターゲットの大貫晴菜だ。

 俺達は息を殺して彼女が近付いてくるのを待った。俺達がいる場所には街灯はないので向こうからこちらの姿はほとんど見えない。

 彼女が俺達の横を通り過ぎたとき、俺が薬を染み込ませた布を後ろから彼女の口と鼻に押し付けた。少しの間、彼女は押さえ付けられた口からかすかな叫びを上げてばたばたと体を動かしていたが、すぐに力が抜け、目をつむってその場に倒れこんだ。そして、脇道に停めておいた軽自動車に彼女を乗せて、手足を縛り、目と口をガムテープで塞いでから車を発進させた。

 大貫晴菜を連れて部屋に戻ってくると俺はすぐに脅迫状を書いた。これを今度、彼女の家に入れておけば誘拐の完了だ。そして彼女自身はしばらくの間、俺の部屋に隠すことにした。

 次の日の夜中、午前二時。西口から手紙を大貫晴菜の家に置いてきたという連絡が入った。あとは手紙で指定した日時まで待てばいいだけだ。そこで身代金の受け渡しをする。うまくいけば五千万という大金が手に入ることになる。

 とはいえ俺の目的は、もちろん金もあるがそれ以上に大貫晴菜の殺害だ。まず彼女を殺さなければ、この先、生きていることはできない。

 その大貫晴菜は今、俺の部屋の隅で涙と鼻水を垂らしながら、しくしくと泣いている。部屋で目を覚ましてからずっとこうだ。口は塞いであるので泣き声が隣の部屋の住人に気付かれることはないだろう。彼女を見ていると可哀想になってきて、自分がしたことに罪悪感を感じた。俺の勝手でこんなことに巻き込んで悪いな。心の中でそう言って、俺は彼女に毛布をかけて、電気を消して寝た。

 身代金の受け渡しの日。俺は手紙で指定した廃墟に来た。先に人質の親が来ている。約束通り、受け渡しは彼女の母親一人で来ていた。しかし必ず周りで警察が待機しているだろう。

「お金は、用意しました…」

 俺は無言で金の入った鞄を奪った。

「…娘はどこですか?」

 母親は脅えながら、それでも目に憎しみをこめながら言った。

「ちゃんと金の確認をしたら返してやる」

「話が違います!」

「受け渡しをしたその場で返すとは言っていない」

 そうしておけば警察は、少なくとも俺が大貫晴菜のもとへ行くまでは手出しができないはずだ。まぁそれでも尾行はつくだろう。

 踵を返し廃墟を出ると俺は弾丸が放たれたように走り出した。警察から逃れるために裏路地へ入った。この辺りの道はほとんど網羅している。逃げ切る自信があった。

 途中、後ろを振り返って尾行がついていないことを確認すると、ゴミ箱の中に鞄の中の金だけを放り込んだ。逃げるのに五千万もの金は邪魔だ。だから鞄の中身だけをゴミ箱に入れて、いかにも俺が身代金を持っているかのように見せかけた。金は一時間後に西口が回収することになっている。

 俺はしばらく走り回った後、自分の部屋にすべりこんだ。外を確認しても警察どころか通行人すらいなかった。ふぅっと息をついた後、玄関から部屋へと移動した。

 部屋に人影が見えた。恋人の松嶋恵子だった。彼女には部屋の鍵を渡してある。だから、自分の留守中に彼女が部屋に入って夕食の準備などをしてくれているときがたまにあり、給料日前などはとても助かっていた。しかし、今はそれが災いした。

 彼女は顔を強張らせ、一点をじっと見つめていた。足下にはスーパー袋が、パックに入った肉や、ビニールで包まれた野菜などを散乱させていた。

 俺の存在に気付き、こちらを向いた。その眼には、いつものような輝きが感じられなかった。

「ねぇ…これはなに?」

 彼女が指差した場所には、手足を縛られ、口をテープで塞がれた大貫晴菜がいた。泣き疲れて、すでにぐったりとしていた。

 一瞬の間の後、俺は恵子に飛び掛り、壁に彼女の背中を押し付けた。

「約束しろ。誰にも言うな…!」

 彼女が怯えた表情でこちらを見直した。

「あの娘、ニュースで誘拐されたって言われてる娘よね。だったらお願い、自首して…」

 俺は下を向いて首を振った。

「なんで? なんでよ…。今ならまだ軽い刑で済むかもしれないよ? まだこれから、やり直せるかもしれないんだよ…?」

 彼女の眼はいつも以上に輝いていた。彼女はうつ向き、やがてその輝きは頬をつたい、両眼からぼろぼろと流れ落ち始めた。

「…さい…」

「え?」

 俺がこぼした言葉に反応して、彼女は潤んだ眼でこちらを見た。

「…るさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!」

 そう言いながら、いつの間にか彼女の首を絞めていた。苦しそうにうめく声が聞こえる。

「お前は俺に死んで欲しいとでも言うのか!?」

 ぎりぎりと、恵子を締め付けている手に力を込めていった。彼女は大きく口を開けて、天井に目玉を向けている。喉の隙間から声が漏れてくる。

「俺は生きたい! 生きなきゃいけないんだ!」

 ついに彼女の声が、途絶えた。全身から力が抜け、腕を下に垂らした。

 首を絞めていた手を離すと、彼女はばたんと倒れた。口からよだれを垂らしたまま、動かなくなった。

 後ろから、んー! んー! という声が聞こえてきた。一部始終を見ていた大貫晴菜が目を思いきり見開いて、大粒の涙を流しながらテープ越しに叫んでいた。

 俺は叫んでいる彼女に近づき、その頭に手を置いて彼女をなだめた。少しずつ鳴咽が治まっていった。

 恋人。大切な人を殺した。

 大切な人をこの手で失わせたことはとても辛かったが、なぜか後悔はなかった。

 これであと四人。あと四人殺せば俺は生きることができる。

 倒れた恵子の見開かれた眼が、ずっと俺を見ていた。

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