第19話
いつの間にこの場所へとやって来ていたのか。
彼女は背後から差し込む淡い月の光をバックに、長い銀髪を微風でなびかせながらこちらを見据えて立っていた。
その表情にはこの一日で見たことのない怒気が含まれていて、笑みや恍惚な表情を浮かべる彼女しか見て来ていなかった俺は初めて彼女に対して少しだけ恐怖を覚えたのは言うまでもない。
しかし、俺以上に怯えているのはその視線を浴びているサムエルだ。
俺に向けて振り下ろすだけだった右腕は自身の頭の上で停止し、彼女を見据えている残った左目には少なからず恐怖が垣間見えている。
「その腕を……どうするつもりなのですか?」
一歩、彼女は足を踏みしめるとサムエルに対してそう問いただす。
ソレに対してサムエルはビクリと一瞬身体を硬直させるが、エレナのその言葉で自分に対して有利になり得る存在――つまり、俺のことを思いだしたのだろう。
振りあげていた自身の腕を突き刺すのではなく頭を掴むことに使用。
俺の頭を握りつぶすのではないかと思えるほどの力で握ると持ち上げ、エレナに見せびらかすようにして
「無論、あなたの大事な方が無事な様を見せるためですよ。しかし、残念なことにこちらの人間が多少抵抗するものでね、少しばかり痛めつけさせていただきました」
「颯馬様の姿を確認する限り、”少しばかり”とは言えない程に痛めつけているようですが?」
そう口にすると、エレナは俺の身体を数メートル先から舐め回す様に見据えると、その白く透き通った手で口元を覆い涙を流し始めると
「颯馬様……左肩の脱臼に、口内の出血。更には至る所に打撲箇所があるなんて……どんな目に遭わされたのですか!?」
「いや、一見でそこまで分かるってどうなんだよッ!?」
「颯馬様のお身体の調子が分からずしてどうしますか! あと、口内なる虫歯になりかけの歯は抜くかどうにかしないと痛いですよッ!?」
「恐ろしすぎるわ、お前のその能力」
医者であろうとただ少し見ただけで全ての異常を判断は出来ないよ?
ソレ専用の機材を使用し、異常を何から何まで調べつくすことでやっと分かるはずなのに、目の前の魔王の娘さんは一目で全てを理解しやがった。
しかも、今まで甘いものに手を出したりして最近痛いことが多かった俺の虫歯まで見つけるなんてな。
もう凄いを通り越して怖いわ。
「と、とにかく、エレナ様の言う通りコイツの身体はすでに身動き一つ出来ない状態です。――少しでも動こうものなら、彼の首が握りつぶされるのを覚悟してください」
「あぐっ!?」
口にすると同時に、俺の首が締め上げられる。
まるで、ロープか何かで締め上げられているように錯覚するほどの苦しさを味わい、我慢しようとしても悲鳴が漏れる。
これ以上エレナに俺の醜態を晒せば、その分だけ彼女は焦り俺を助け出すために無理をしてしまうだろう。
そんなことにならないように出来るだけの苦痛は我慢しようと思ったんだが、俺の身体は思った以上に弱かったらしい。
ちょっと締め上げられた程度で悲鳴が止まらないよ。
「分かっています……。ですから、颯馬様を解放してあげてください」
「解放したと同時に貴女がワタシに刃向かってくる可能性もありますからね。それ相応の誠意というものをお見せいただけなければ、彼は解放できませんよ?」
憎たらしい笑みを浮かべて勝った気でいやがるサムエルは、そう口にすると自身の尻尾を残りの腕で千切りとりエレナの方へと投げる。
すると、切断された尻尾は彼女の目の前で姿形を変化させ、ほんの数舜でもう一人のサムエルに姿を変えた。
一目では大した違いは見つからない。
あるとするなら、尻尾があるか否かと言うところだろう。
「この魔法は、先程エレナ様に対して使用させていただいたソレと同じものです。簡単に言えば、ワタシの分身と言ったところでしょうか」
「ええ。姿形もさることながら、性格までも再現されていて気持ち悪いですね。――それで、また私にあなたの分身を差し向けてどうするつもりですか?」
「それは勿論、先程の続きをと思いまして」
先程の続き?
何のことかと口にする前に、目の前に映るサムエルの分身はその大きくて屈強な腕を振りあげてエレナに近づいていく。
無論、エレナも迫ってくる敵に対してそれ相応の対応を見せようと、腰を落とし戦闘態勢に入るのだが
「ふふっ、エレナ様。抵抗すれば君の大事な人の頭は砕けると思ってくださいね?」
「――なっ!? 無抵抗でいろって言うのかよ!?」
「……」
俺の言葉に”その通り”とばかりにサムエルは頷くと、気色の悪い残りの左目でエレナを見据える。
ソレに対してエレナは顔を歪ませ、それまでの体勢から一転。少し脱力した直立姿勢でサムエルの分身を迎え討つ。
言わば、無抵抗の姿勢だ。
「エレナッ!」
「大丈夫です、颯馬様。私はどれだけ傷ついても大丈夫ですから。」
俺の呼びかけに対してエレナは変わらない笑みを浮かべてそう答えるだけ。
無抵抗の姿勢を崩すことなくやって来るサムエルを見据えて、彼の暴力に耐えるつもりでいるんだろう。
それがどれだけ心身ともに傷つくことだとしても、ただ俺の身を案じて身体を差し出すそんな彼女に俺は頭の痛みなどお構いなしに暴れながら
「何言ってやがんだッ! 俺のことは良いッ、コイツをぶっ殺せッ!」
「それは出来ませんよ。――だって、わたしはあなたを愛していますから」
彼女のその言葉と共に、エレナは迫って来ていたサムエルの拳に殴打され華奢な身体を空中に舞わせる。
衝撃で俺と同じように口内を切ったのだろう。地面に倒れた彼女の口からは赤い血液が漏れ、痛みを我慢するように美しい二つの瞳からは涙が薄っすらと見える。
絶対に痛い。そう……絶対に痛いはずなのに、彼女は俺に向けて微笑む。
それはまるで安心させるかのような笑み。自分はまだ大丈夫だと、傷ついているのは自分なのに俺に対してアピールするかのように彼女は微笑んでいた。
「エレナッ! 頼むッ、やめてくれッ! 戦ってくれよッ! 俺のことは良いから……頼むから……ッ!」
俺の悲痛な叫びは彼女に届かない。
いや、届いているが彼女は俺の言葉を聞き入れてはくれなかった。
そして、彼女の身体は再びサムエルの拳で吹き飛ばされる。
しかし、エレナは顔を苦痛に歪めながらも抵抗しようとしない。ソレは何故か?
俺と言う足枷があるからに決まっている。
エレナにとって、一番は俺なんだ。
自分の命を差し出してまで救いたいと思える相手が俺ということなんだ。助けたところで何の見返りもないはずの俺を、自分の身体がいくら傷つけられようとも守ろうとしている。
おそらくは、自分が死ぬことで俺の命を救えるのなら……彼女は喜んで我が身を捨てる覚悟があるだろう。
「頼む……頼むから……戦えよ……ッ!」
エレナに対してそう呼びかけると共に、俺の中で彼女への想いと共にある感情が芽生えてきた。
ソレは怒りだ。
目の前で美少女をボコボコに殴り続けているサムエルに対してでもなく、俺を守るために無抵抗を貫き殴られたり蹴られたりを必死に我慢しているエレナに対してでもない。
ただこの場で頭を掴まれ、彼女が身体を痛めていく姿を見ていることしか出来ない自分に嫌気と、そしてどうしようもない怒りが募っているんだ。
「――さぁて、そろそろ殴るのにも飽きてきましたね。では次は、その身体をワタシによく見せてはくれませんか?」
「――ッ!?」
嫌悪感しか感じない薄汚れた声で口にしたサムエルの言葉に、初めてエレナは表情を曇らせた。
それはまさしく次に奴が何をするのかを察したことに等しく、その表情にまたサムエルは汚らしい笑い声を上げながら
「無抵抗のままですよ? 少しでも動けば、君の大事な人は頭を砕かれるのですからねぇ……クケケケカカカ……ッ」
「……ろ」
奴の腕が無抵抗のエレナのゴスロリ服を掴み、無残にも破り捨てる。
瞬間エレナの表情に恐怖と羞恥、さらに絶望の色が見えて俺の心には更なる怒りが芽生えてきた。
「流石は魔王様の娘。綺麗な肌ですね……ワタシの妻に相応しい良い身体をしておられる」
「――めろ……」
奴の汚らわしい声が鼓膜を刺激するたびに、怒りはどんどん膨れ上がる。
エレナがその身を両腕でかばい、後退りするたびにその怒りは爆発の一歩手前に差し掛かり
「それでは……最後は愛しい人の目の前で純白を散らされてしまいましょうか」
「やめろつってんだろうがぁッ!」
奴の最後の言葉を耳にした瞬間に俺の怒りは頂点に達し、頭を握る腕を掴み上げると同時に握りつぶしていた。
耳に入るのは汚らしい悲鳴と、少し離れた所で分身が消えて尻尾だけが地面に落ちて鳴った乾いた音。
だが、そんなことはどうでも良い。
俺は怒りの元凶であるサムエルを見下し、耐え難い苛立ちを我慢することなく拳骨に変えて奴の顔面に叩き込んだ。
「ぐほあぁッ!?」
嫌な悲鳴を上げて飛んでいくサムエルは、俺から数メートル離れた壁に激突し驚愕に満ちた表情で俺を見る。
まるで、自分に起きた事に理解が追い付かない。
そんな表情を浮かべるサムエルに対して、俺は拳を突きつけると
「テメェだけはもう許さねぇ。この世に一変たりとも肉片残してやらねぇから覚悟しろ……ッ!」
心に溜まった怒りを言葉にして奴へと吐きかけた。
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