第21話

 


 数日後、家族で岩瀬浜の海水浴場に行った。十二年ぶりに目にする故郷の海だった。柴田と美音が泳いでいる間、実家のあった場所に行ってみた。純香の家は跡形もなく、そこにはもう、当時の原風景は無かった。物悲しさの中で、雑草に覆われた空き地を見ている時だった。ハッとした。隣の板垣の家も無かったのだ。……あの刑事は、板垣とどこで話をしたのだろう。純香は、斜向かいの橋本を訪ねた。


 戸を開けたのは、皺を刻んだ女だった。


「こんにちは。お向かいの板垣さんは今、どこに?」


 麦わら帽子のつばを持ち上げて尋ねた。


「板垣さんは、十年ほど前に引っ越されたちゃ」


「どちらに?」


「さあ……聞いてませんが」


「……そうですか。最近、刑事さんが訪ねて来ませんでしたか?」


「ケイジ? 警察の?」


「え」


「なーん、そんな人ちゃ来てませんが」


「そうですか。どうも失礼しました」


「あんた、どっかで会うてませんか 」


 橋本が顔を覗き込んだ。


「……さあ」


 目と鼻の先に住んでいる橋本夫人のことは、子供の頃から知っていた。だが、根掘り葉掘り訊かれたくなかった純香は、あえて面識のない振りをした。


 はて、あの刑事は板垣の引っ越し先を突き止めて、そこで話を訊いたのだろうか……釈然とせぬままに、海水浴場に戻った。


 ――それから数日後、美音と一緒に桜木町までショッピングに出掛けた時だった。


「あれっ。こんにちは」


 すれ違った三十半ばの男に声をかけられた。誰なのか思い出せずにいると、


「一度、お宅にお邪魔した刑事の津久井です」


 と、本人が教えてくれた。


「――ああ。あの時の」


 純香はやっと思い出すと、表情を緩めた。


「その節はどうも。もう一人の刑事さんはお元気ですか」


 先日、花束を持って結婚の祝いをしに来てくれたが、ついでのように聞いてみた。


「あ、松崎さんですか」


(エッ! 松崎?)


「松崎さんておっしゃるんですか? あの刑事さん」


「そうですよ。定年で退職しました。例のあの事件が最後の仕事だったわけです」


「あの刑事さん、息子さんはいらっしゃいます?」


「……ええ。いますよ。でも、どうして?」


 津久井が眉をひそめた。


「あ、いいえ。私の知り合いにも松崎っているんで、ご親戚かと思って」


「もう四十歳ぐらいになるかな、〈越中中島〉で産婦人科をってます」


 仮に、あの刑事が、母を犯した松崎という男の父親だとしたら……。純香はこの時、新たな復讐を予感した。


「……そうですか。じゃ、違う人だわ」


「そうそう。今だから話すけど、実はあの時、あなたに不審を抱いて、あなたのお母さんの自殺の真相を調べてたんですが、途中で打ち止めになって――」


「お母さん、早く行こ」


 美音が純香の手を引っ張った。


「その子は?」


「柴田の子供です」


「結婚なさったんですか」


「……ええ」


「それは、おめでとうございます。でもまさか、柴田さんと結婚するとは――」


「どういう意味でしょ」


 純香は不愉快な顔をした。


「あ、いえ。復讐目的で柴田さんに近づいたんだと、私どもは考えてたもんですから」


「はぁ?」


 純香は露骨に嫌な顔をしてやった。


「そうじゃなかったんですね。どうも失礼しました。お幸せに」


 津久井はさげすむような目で見て、背を向けた。それはまるで、「殺された若い女と肉体関係があった、コブつきの中年男と、よくまぁ結婚したな」そんな野卑やひな言葉を吐き捨てられた思いだった。

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