第11話

 


 ――三十分もしないで料理は出来上がった。


「お待たせしました」


「わあ~」


 トレイに載った八宝菜やハムときゅうりの中華風サラダ、かき卵スープに、美音が驚嘆きょうたんの声を漏らした。


「美音ちゃん、ごはんよそってくれる?」


「は~い」


 美音が駆けて行った。


「早いね」


 柴田が感心した。


「時間のかからないものを作ったのよ」


 皿を置きながら柴田を見た。


「うまそうだ」


「今、ごはん持ってくるわね」


 ――食後、お茶を飲みながらテレビを観ていた。


「暖かくなったら、ハイキングでも行くか。美人の森さんにちなんで『美女平』にでも」


「うん、行きたい」


 美音が即答した。


「ね」


 柴田が純香に同意を求めた。


「……ええ」


 明確な返事ができない立場だった。いつなんどき、敵になるか分からない今の状況では、安易な口約束はできない。純香は暗い気持ちになった。


「ね、行こう、行こう」


 純香と柴田の間に座っている美音が、純香の腕を揺すった。


「ええ。行こうね」


「うん」


「今度、うちに遊びにおいで。学校の帰りにでも」


「行ってもいいが?」


「うん。校正の仕事はいつでもできるもの」


「うん、行く」


 美音は嬉しそうな顔を柴田にも向けた。


「行ってもいいが、行儀よくしろよ」


 柴田が念を押した。


「わかっとるって」



 純香が帰っていった後、


「お父さんも一緒に行けばよかったがに」


 美音が気を利かせた。


「……後にするよ」


「ムリししもて」


「宿題は?」


 柴田が話をすり替えた。


「これから。ね、のんべーのみやげはあの人の手作りやったのね」


「……ああ」


 柴田はテレビを観ながら生返事をした。


「きょう、料理を食べてピンときたが」


「……そう?」


 柴田は上の空だった。


「夜中に行かんで、いま行けばいいがに」


「そう? では、お言葉に甘えて」


 柴田は急いで腰を上げると、マフラーを巻いて、煙草と鍵をポケットに入れた。


「鍵して、宿題しとけ」


「わかった。お父さん、きらわれんようにシンシテキにせんにゃね」


 美音がアドバイスした。


「あいよ!」


 柴田は急ぎ足で、純香のアパートに向かった。――



 純香は柴田に抱かれることに罪悪感を抱きながらも、そのゆるされない情事を見限みかぎるだけのかたくなな信念は無かった。


 これといった復讐方法も見出だせぬままに、事の成り行きに身を委ねているというのが現状だった。復讐はいつでもできる。この愛が冷めた後でもいいじゃないか。いや、復讐なんて、もうどうでもいい。というのが正直な気持ちだった。……この愛に浸っていたい。……永遠に。



 翌日、美音を伴って柴田がやって来た。来る予感がしていた純香は、多めに作っておいた夕食を一緒に食べた。「おいしい」と言って頬張る美音の笑顔を見ながら、純香は幸せを感じていた。



 ――ところが、予期せぬ事態が発生した。その次の日、丸一日、柴田からなんの連絡も無かったのだ。夕刻はおろか、二十二時を過ぎてもやって来なかった。三人で夕食を摂るという純香の計画は空振りに終わった。


 不吉な予感の中で、柴田に電話をするのが怖かった。電話の向こうで、思いがけない出来事が起きてるようで、胸騒ぎがした。その思わぬ事態を抱えた柴田がドアをノックするまで、何も行動しないで、ただ、じっと待つしかないと思った。


 そこにも、相手の判断に任せるという、純香の卑怯ひきょうな一面が垣間見えた。柴田のことなど気にしてないわ、と装う自分の卑劣ひれつさを認めながらも、それでも、「どうしたの? 心配したのよ」と、会社や自宅に電話する素直な気持ちにはなれなかった。


 当夜、悪い結果ばかりが頭をよぎり、寝付けなかった。――そして、浅い眠りの中で、その早朝のノックは不安を的中させた。

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