第10話

 


 ほろ酔い気味の柴田の、耳元で囁く、呼び捨ての「すみか」に脳が騙されてしまう脆弱ぜいじゃくおのれの意志が、純香は情けなかった。


 ――惰気を催した純香は布団に横たわったまま、帰っていく柴田の足音を聴いていた。


 次の日、雑誌の校正をしていると、柴田がやって来た。


「行こう」


「着替えないと」


「いいよ、それで。カーディガンでも羽織れば」


「も。せっかちなんだから」


 ――気持ちの焦りからか、柴田は早足だった。……初めて娘に会わせる不安の現れ? 純香はそんなふうに考えていた。


「あら、早かがぁね」


 近所の主婦に声をかけられた。


「あ、こんにちは」


 柴田が挨拶した。主婦はその後ろの、微笑んで会釈をした純香を興味深げに見ていた。



「ただいま!」


 玄関を開けると、柴田が中に入った。すると、ぽっちゃりした女の子が廊下を走ってきた。想像と違っていたが、


「美音ちゃん?」


 と聞いてみた。


「なぁー、ちがうがぁちゃ」


 その返答に、純香はハッとした。一緒に歩いているのを見たと柴田に言った、あの言葉が嘘になってしまう。次の言葉を見つけられずにいると、視野の端に、こっちを向いている柴田の顔があった。戸惑とまどっていると、


「お父さん、おかえりー!」


 と、元気いっぱいの女の子が、廊下の奥から走ってきた。……この子が美音か。美音の目が、微笑びしょうを浮かべた純香に向いていた。


「帰るがぁちゃ」


 女の子がズックを履いた。


「じゃあね」


 美音が声をかけると、柴田が戸を閉めた。


「美音、会社の人で、森さんだ」


 柴田が紹介した。


「森です。こんにちは」


「……こんにちわ」


 対応に苦慮してか、美音はモジモジしていた。


「さあ、上がって」


 柴田の誘導で、純香はサンダルを脱いだ。


「お邪魔します」


 居間に案内されると、柴田とテーブルを挟んでソファーに座った。美音はソワソワしながら廊下にいた。


「美音、横においで」


 美音は走ってくると、柴田の横にちょこんと座った。


「こうやって、時々遊びに来るけど、歓迎するだろ?」


 そう柴田が言うと、美音ははにかみながらうなずいた。


「よろしくね」


「……うん」


 笑顔の純香に返事をした。


「じゃ、一緒にめしでも食べに行くか」


「あ、もし良かったら、私が作りましょうか」


「そう? どっちがいい? 森さんの手作りと、外食では」


「……手作り」


 美音が恥ずかしそうに答えた。


「じゃ、作るわ。何がいいかな。冷蔵庫見てもいい?」


 美音に聞いた。


「うん、いいよ」


 美音は腰を上げると、台所に案内した。


「ここ」


 と美音が開けた冷蔵庫を純香が覗いた。


「うむ……。野菜もいっぱいあるね。肉もあるし。ごはんは?」


 美音を見た。


「ある。これ」


 保温になっている炊飯器には、三人分は十分にあった。


「醤油は流しの下?」


「うん。塩とかコショウはここ」


 と食器棚の扉を開けた。


「うん、分かった。今から作るから、お父さんと一緒に待ってて」


「うん」


 美音は返事をすると、走っていった。純香は献立を考えると、手際よく料理を始めた。



 普段着に着替えた柴田がテレビを観ていると、美音がニコニコしながら小走りでやって来た。


「どんな感じだ?」


 横に腰掛けた美音に聞いた。


「キレイな人。髪もキレイ」


「それだけじゃないだろ? 感じもいいだろ?」


「うん」


「で、どんな感じだ」


「イー感じ」


「だろ?」


「お父さんのカノジョ?」


「彼女はよせよ。恋人ぐらいにしとけ」


「じゃ、コイビト?」


「そんな感じかな」


「お父さん、初めて女の人つれてきたね」


「だって、初めて好きになった人だもん」


「いくつ?」


「女性にとしを聞くのは失礼だぞ」


「だから、お父さんに聞いたがや」


「三十」


「若う見えるね」


「ああ」


「いつからつきおうたが?」


「最近」


「やさかい夜中にいなんだの?」


「あら、知ってたの?」


「のんべーにでも行っとるて思うとった」


「悪い」


「子どもにかくしごとしたらだちかんちゃ」


「……分かった」

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