第8話

 


「美音ちゃんが心配するわ。帰りましょう」


「大丈夫さ。死んだ母から料理を教わってるから。結構、料理作れるんだよ。何か作って食べてるだろ」


「同じ過ちは繰り返さないって言ったじゃない。今」


 純香が睨んだ。柴田は苦笑すると、


「はいはい。帰りましょ」


 と、おもむろに腰を上げた。――



 電車の中で横に座っていた柴田は、向かいの席に人が居ないのをいいことに、純香の手を握った。


「娘に会ってくれるだろ?」


 酒の匂いをプンプンさせながら、純香の耳元にささやいた。


「……ええ」



 酒屋の角を右に行く柴田を見送って帰宅すると、シャワーを浴びた。満身創痍まんしんそういのごとき赤い斑点が、柴田との情交を証明していた。――満たされた余韻よいんに浸りながら、布団に潜った。


 翌日、洗濯をしていると電話が鳴った。電話番号を知っているのは柴田だけだ。


「はい」


 ところが、相手はうんともすんとも言わなかった。


「もしもし?」


「泥棒猫!」


 若い女の声だった。


「はあ?」


「お前の過去を暴いてやる!」


 そう言って電話は切れた。純香は受話器を持ったままで凝然ぎょうぜんと立ち尽くしてした。――声はこもっていたが、紛れもなく、柴田が付き合っていたあの女のイントネーションだった。


 純香は危惧きぐした。復讐を遂げる前に自分の正体が柴田にバレたら水の泡だ。何もする気になれず、洗濯も途中にしたまま炬燵こたつに入った。履歴書に大広田なんて書かないで、正直に岩瀬浜と書けば良かった。しかし、本籍地を偽ったのは、柴田に気づかれないための手段だった。だが、こうなると、そのことを後悔した。本籍地が違うからと言って、母の件と私を結びつけるとは限らないが……。


 でも、どうしてあの女は私の過去に疑惑を抱いたのだろう。単なるおどし文句のつもりか? 柴田にフラれた腹いせか? …… “計画するのは人、成敗をつけるのは神”純香はそんな心境だった。


 夕食を作っていると、恋人気取りで柴田がやって来た。


「……後で来ていい?」


 遠慮がちな物腰だった。


「……ええ。夕食はいつもどうしてるの?」


「早く帰った時は俺が作るけど、じゃない時は娘が作ってる」


「今、大根を煮てるの。良かったら持ってって」


「助かるよ」


「寒いから中で待ってて」


「はーい」


 柴田は浮かれ調子で返事をしながら、急いでドアを閉めると、ダイニングのテーブルに着いた。


「綺麗にしてるね」


 感心しながら見回していた。


「掃除したばかりだからよ」


 菜箸を動かしながら横顔を向けた。柴田がライターの音をさせたので、適当な小皿をテーブルに置いた。


「はい」


「あ、悪いね」


 花柄の小皿に煙草を置いた柴田がニコッとした。純香は例の電話の件は喋るまいと思った。打ち明ければ、余計な憶測を柴田に植え付けることになる。どっちにしても得にはならない。


 いか大根と、いんげんのごま和えをタッパーに入れると、


「美音ちゃんになんて言うの?」


 と聞きながらビニール袋を広げた。


「のんべえからのみやげにするさ」


「そうね。毎日でもいいわよ。多めに作っとくから」


「ホントに? 恩に着ます」


 柴田は嬉しそうな顔をした。


「早く帰って、美音ちゃんと一緒に食事して」


「ああ。サンキュー。じゃ、後で」


「ええ」


 ……私は何をしてるの? 母のかたきと関係を持った上に、その男の家族の幸せを願っている。私が美音の立場なら、やはり、親と一緒に食事がしたい。一人で食事をするのは寂しいものだ、と純香は思った。

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