第6話

 


「アパートまで送るよ」


「私の方が送ります」


「いや、君の方が近いんだから、先に送る」


 純香は黙って柴田の言うことを聞いた。コートの襟を立てた柴田は背を丸めると、先を歩いた。


 ゆっくりと歩く柴田の背中は、何かを考えているようだった。結局、柴田は一言ひとことも喋らなかった。


 アパートの近くまで来た時、横顔を向けた柴田が足を止めた。純香が傍らに行くと、突然振り向き、強引に腕を引っ張ると、顎を掴んだ。見詰め合う格好になり、おもむろに唇を重ねてきた。


「うっ……」


 純香は小さな抵抗をしてみたが、柴田の発するアルコールの匂いが、理性を麻痺させた。そのキスが長かったのか短かったのかは定かではなかった。ゆっくりと純香から離れた柴田は、


「……君が好きだ」


 酔いしれたように目を閉じた純香の耳元にささやいた。


「おやすみ」


 柴田はそう言って、背を向けた。


「……おやすみなさい」


 街灯に照らされた柴田の背中は、やがて路地のかどに消えた。


 純香はライティングデスクの原稿を前にして、ジーっとしていた。何も考える気になれなかった。ただ、柴田の口の匂いだけが、いつまでも唇に残っているのを感じていた。


 翌晩、いつもの顔で原稿を持ってきた柴田は、校正を終えた純香の原稿と交換すると、


「……昨夜ゆうべはごめん」


 目も合わせないで、一言ひとことそう言って帰っていった。純香は何か物足りなさを感じた。



 それから数日して、柴田から電話があった。


「……食事をしよう」


「え?」


「Wホテルのロビーで待ってるから。六時頃に来られるだろ?」


「あ、……はい」


「じゃ、待ってる」


 そう言って、柴田は電話を切った。


 いよいよ来た、と純香は思った。今夜、本格的に口説くつもりのようだ。どうしよう……。はっきりと拒絶してはいけない。柴田の逆鱗げきりんに触れたら、復讐のチャンスを逃してしまう。そのためにも不即不離ふそくふりの関係でなくてはいけない。……かと言って、どんなかわし方をすればいいのだ……。純香は悩んだ。


 純香は久しぶりにおしゃれをすると、富山駅前のWホテルに向かった。――窓際の柴田が外に目をやっていた。窓ガラスに映った純香に気づくと、目を合わせて笑った。


「素敵だね、その服」


 純香のパープルのツーピースを褒めた。


「ありがとうございます」


「カクテルでも飲むかい?」


「ええ」


 純香は作り笑いをした。


 階上のラウンジに行くと、窓際の席に着いた。柴田は手を上げてウェイターを呼ぶと、


「ウイスキーの水割りと度数が低いカクテルを何か」


 と注文した。


「かしこまりました。ウォッカベースの口当たりの良いカクテルをお作りします」


 若いウェイターは純香を一瞥いちべつすると、お辞儀をした。柴田は灰皿に置いていた煙草をくわえた。


「夜景が綺麗だろ?」


 そう柴田に言われた純香は、店内が映った大きな窓ガラスの外に目をやった。


「ええ。とっても」


 街の灯りと流れるヘッドライトが光彩陸離こうさいりくり耀かがやいていた。その明かりの中に、白く浮かび上がった粉雪がたわむれていた。


 ふと、窓に映った柴田を見ると、それは純香を見詰める横顔だった。純香が柴田と目を合わせると、間もなくウェイターが水割りとカクテルを運んできた。


 純香は碧色へきしょくのグラスを手にすると、琥珀色こはくいろの柴田のグラスに近づけた。互いは見詰め合うと、グラスを傾けた。

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