第5話

 


 縄のれんを払うと、止まり木の隅に一人いる柴田がガラス戸から見えた。戸を開けると、


「いらっしゃいっ!」


 店主らしき威勢のいい声と共に、純香を認めた柴田が手を上げて合図した。


「来てくれてありがとう」


 頭を下げた。


「どうしたんですか? そんなに酔っ払って。お嬢ちゃんが心配しま――」


 そこまで言って、純香はアッと思った。娘がいることは柴田から聞かされていない事実だった。


「……あれっ、娘がいること言ったっけ」


 虚ろな目を向けた。


「あ、いえ、一度一緒のところを見掛けたことがあったから」


 店主の置いたおしぼりで手を拭きながら、純香は慌てて話を作った。


「なんだ、声掛けてくれりゃいいのに」


「……遠くだったので」


「実はね、娘はいるが、女房はいない。バツイチって奴だ」


「……そうだったんですか」


 純香は納得した。


「チューハイでも飲まない?」


「いえ、あまり飲めないから」


「じゃ、梅酒ならいいだろ?」


「……ええ。じゃ、少し」


「オヤジ! 梅酒!」


 小さな店は混んでいた。騒然とした中で、柴田は大きな声を出した。


「はいよっ!」


 店主も元気な返事をした。


「レディの来るようなとこじゃなくて悪かったね」


「いいえ」


「この辺ろくな店がないから」


 グラスに口をつけた。


「何かあったんですか? 今夜」


「……いや。君の歓迎会をしてないと思って」


「そんなこと」


「今度、桜木町まで出て、何かうまいもんでも食べよう」


「いいですよ、そんな」


「いいじゃないか。歓迎会をしたいんだ」


「ありがとうございます」


「はいっ、お待ち」


 店主が純香の前にグラスを置いた。


「では、いただきます」


 純香がグラスを持った。柴田はそれに自分のグラスを当てると、


「よろしく」


 と言ってニコッとした。


「よろしくお願いします」


 笑った目を柴田の視線に合わせると、純香はすぐにその目を逸らした。


「……森さん、ご両親は?」


 突然のその問いに、純香はギクッとした。


「……亡くなりました。……二人とも」


 純香は俯いた。


「……そうか。寂しいな、それじゃ」


「でも、好きな仕事をしてますし、そんなに寂しくありません」


「俺も、父を三年前に、母を去年亡くした。女房と別れたのが五年前。母が娘の面倒を見てくれたから助かったけど……」


「……」


 純香は静かにグラスを傾けた。


「男手一つじゃ、何かと心配で。女らしく育ってくれりゃいいが」


「大丈夫ですよ。しっかりしたお嬢ちゃんみたいだったし」


「そう? ありがとう」


 柴田は満面に笑みを浮かべた。


「あいつが初潮を迎えるまでには再婚しないとな」


 その話の内容と、あの、「行ってらっしゃい」の声から、小学五、六年だと、その顔も知らない娘の年齢を推測した。


「社長はモテるでしょうから、再婚話は沢山ありますよ。きっと」


「モテやしないさ。好きな女からは好かれないし。それが世の常かな」


「そんなこと……」


「じゃ、聞くが、君はどうだ?」


「えっ? 何が」


 咄嗟とっさに柴田を視た。


「俺のこと、好きか?」


 目を伏せた純香の横顔を柴田が見つめていた。“酒が入ると真実が出る”純香は、そんなことわざを浮かべていた。


「……そんなこと、まだ知り合ったばかりで、好きとか嫌いとか……」


「当然だな。すまない、野暮やぼなことを聞いた」


 柴田は一気に飲み干すと、氷の音を立てた。


「さて、帰るか。悪かったね、呼び出して」


「いいえ」


「じゃ、帰ろ」


 腰を上げた。


「オヤジ! おあいそ」


「はいよっ!」


 純香は、少しふらついている柴田の後を行くと、先に外に出た。勘定を終えた柴田が出てくると、戸を閉めてやった。

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