【音のない天国】
耳の聞こえない私にとって、その美容院は天国の様だった。
当時は凄く落ち込んだし、死にたいとまで思ったけれど、持ち前の明るい性格と家族の支えがあって、今はとても楽しく暮らしている。聾学校のクラスメイトも、とても良い人ばかりで、皆、ハンディキャップを背負いながらも、楽しく学生生活を過ごしていた。
そんな私たち聾唖者にとって障害は沢山ある。
その1つが美容院であった。
何せコミュニケーションが取れない。こういった髪型にしたい、と思っていても詳細な話が出来ないし、筆談では限界がある。途中で何か伝えたくなっても、上手く声が出せないので周りの目が気になってしまう。
いつの間にか、家の近くにある1000円カットの店で、何も話さずに髪を切ってもらうようになった。そんな私がその美容院に足を運んだのには、ちょっとした理由があった。
私が聴力を失う前に恋をした男の子、
時期は二月初旬。バレンタインデーはもう直ぐそこまで迫っていた。多分、成就しないだろうけれど、この想いを伝えたくて少しでも綺麗になりたかったのだ。
「
親友から励まされた私、
スマホから
当日、緊張しながらLienに向かう。
繁華街のメインストリート。木目調のお洒落な外観。Lienを見つけた時の私は、初めて遊園地を訪れた幼稚園児のようだった。ドキドキしながら、ガラスの扉を開く。ドアに鈴が付いていたので、音がしたのだろう。店員がこちらに視線をやった。
「いらっしゃいませ!」
受付にいる従業員の女性が明るい笑顔で言った。声は聞こえないが、口の動きで何を言っているかは分かる。私はペコリ、と頭を下げた後、鞄の中からタブレットを取り出して「予約した佐藤です」と打ち込んだ。
「佐藤様ですね……」
予約表をチェックしていたのだろう。私が聾唖者だと知って、彼女の顔にほんの少しだけだが、緊張の色が見えた。
「少々お待ちください。担当の者が……あ!」
話してる途中で気付いたようだ。カウンターの上にあるメモを持ってきて、筆談を始める。声では伝わらないことを面倒だと思われないと良いのだけれど。
椅子に座って手元にあった雑誌を
ふと気配を感じて顔を上げると、そこには太陽の様な笑顔をした女性が立っていた。名札を見ると「佐藤」とある。20代後半くらいで、ベリーショートの金髪。とても似合っていて、お洒落だ。さすが美容師。
彼女は、手を振って私に挨拶をした。そしてスマホを取り出して、私に見せてくる。
「こんにちわ!私も佐藤っていうんです!よろしくお願いします!」
慌てて私もタブレットを取り出す。
「初めまして。私は佐藤恵美です」
「はい。耳が聞こえない人の髪を切るのは初めてなんですけど、何か注意しないといけないこととかってあります?」
ズバッと質問されたのが気持ちよかった。
「私、美容院に来るのは久しぶりなんです。なので切ってる途中に、細かく髪型について聞いてくれると嬉しいなーって」
「あら久しぶりなんですね?またどうしてウチの美容室に?」
「実は、好きな人に告白しようと思っていて」
「え!素敵!」
佐藤さんは親指を立ててニッコリと笑う。明るい人だな、と思って私まで笑顔になった。
「先ずはシャンプーなんですけど」
「はい」
「タオルって掛けても大丈夫?見えなくなるの、不安だったりするかしら?」
細かい気遣いが嬉しい。
「大丈夫です」
「もし
「はい」
「痛いと痒いの違いだけど、なんだか歯医者さんみたいだね 笑」
ははは、と豪快に笑う佐藤さん。思わず私も笑ってしまった。
シャンプーされている最中、あまりの気持ちよさに、ふぅーと溜息が漏れた。これだけで美容院に来た
その後、タオルで頭をゴシゴシと拭かれた。
「さて、どんな髪型にする?」
佐藤さんが表示したスマホには、色々な髪型の女性が写っていた。その中の1つ、ショートボブに指先を当てると、佐藤さんは先程と同じ様に親指を突き上げた。
「恵美ちゃんは少し
期待で胸がワクワクする。
佐藤さんがゆっくりとハサミを取り出した。スマホで「じゃあ、今から切るよ」と表示した文字を私に見せてくる。私は深く
ハサミが髪の毛に当たる感触がする。鏡を見つめて、どんな風になるのか期待で胸が膨らんだ。少し切っては「このくらいでいい?」と、佐藤さんが丁寧に尋ねてくる。
「さて……じゃあバッサリ切るよ?気持ちの準備はいい?」
「はい!お願いします!」
私がタブレットに文字を打ち込むのを見て、佐藤さんは満面の笑みで笑った。
「魔法を掛けてあげるよ。めちゃくちゃ綺麗になるからね」
佐藤さんが真剣な目で私を見る。
最初に両サイドの長さ調整。切りながら数十秒に一度、アイコンタクトをくれた。大丈夫?と目線で訴えてくる。その度に私は頷いた。
続いて、バックの長さ調整。鏡で何度も私に後頭部を見せながら、ゆっくりと切ってくれる。その頃になると、私は佐藤さんを完全に信頼していた。こんなにも気にかけてくれるんだ。絶対に綺麗になる。
最後に細かく髪を
「はい!出来たよ!」
途中から確信していたが、佐藤さんは恐らく魔法使いだ。こんなにも人を美しくできるのだから。鏡に映っているのは、私じゃないみたい。
「こんなにも可愛くしてくれて、ありがとうございます!」
「気に入ってくれてよかった。ワックスとか付けていく?」
「いえ……今日は、この後、帰るだけなので」
「ねえ。良かったら、バレンタイン当日、ウチに来ない?髪型セットしてあげる!」
「いいんですか!?」
「うん。その代わり、絶対に告白成功させてね! 笑」
「はい!」
お会計を済ませて、店を出る。なんだか景色が輝いて見えた。帰宅するまでの道を足取り軽く進む。
帰宅すると両親が目を丸くして、私の髪型を褒めてくれた。髪型でこんなにも変わるんだね、と父親は目を細める。母親は私が恋をしていることに気付いているのか、ふ~ん、と意味ありげに笑った。次の日、登校するなり髪型を変えた私を見て、学校の友人たちからは称賛の嵐。自信が持てた。
バレンタイン当日。
手作りのチョコを持って、Lienに向かう。佐藤さんにセットをしてもらって、最高の状態で櫻井悠人に会いたい。これが乙女心なんだな。身体がホカホカする。
店に入るなり、佐藤さんが私を見つけて駆け寄って来た。
「恵美ちゃん、来たね!じゃあ、セットしよう!」
直ぐに椅子が用意されて、案内される。佐藤さんはニコニコしながら、私が椅子に座るのを見ていた。
「よーし!じゃあ、今日も魔法を掛けてあげる!少しだけ髪の毛を巻こうよ。大人っぽく見えるから!」
「お願いします!」
タブレットの画面を見せると、佐藤さんはいつものように親指を立てた。
手際よくセットされる。髪を巻かれて、鏡に映る自分は印象がまるで違って見えた。全体的にふんわりとさせて、佐藤さんがケープを振る。
「今日は風が強いから、キープ力の強いやつにしたいたよ」
「ありがとうございます!」
「よし!じゃあ、頑張って気持ちを伝えてきてね」
「はい!」
お店のカウンターで料金を払おうとすると、佐藤さんが首を振った。
「サービス。その代わり次も来てね」
「いや、それは流石に悪いので」
私の打った文字を見て、佐藤さんは、がはは、と豪快に笑った。
「うん。じゃあ、恵美ちゃんの告白が上手くいったら、お金を貰うよ」
「プレッシャーですよ 泣」
タブレットを見るなり、佐藤さんにポンポン、と肩を叩かれる。
「私の魔法を信じて。じゃあ、いってらっしゃい!」
「はい!」
店を出た。櫻井悠人に連絡して、近くのカフェで彼を待つ。
流石にバレンタイン当日だ。私が連絡した時点で、ある程度は察しがついているだろう。心臓の鼓動が激しくなってきて、口が乾いた。アイスティーのお代わりを下さいと、タブレットの文字を見せ、店員に注文する。
自動ドアが開く音がして振り返ると、そこには私の想い人、櫻井悠人が店に入ってくるところだった。その瞬間、何故か不安感が襲ってくる。私は障害者で、彼は健常者だ。二人の間には見えないけれど厚い壁がある。私の一方的な想いをぶつけても良いのだろうか?迷惑を掛けてしまうんじゃないか?そんな不安感に
私の気持ちを知ってか知らずか、櫻井悠人は穏やかな笑顔で私の席にやって来る。
「よお!佐藤!久しぶり!あ……ちょっと待って」
櫻井悠人はポケットの中から、スマホを取り出してメモ機能を起動させた。
「元気してたか?」
その文字を見て、何度も頷く。
「そうか。中学の途中で、お前、耳が聞こえなったじゃん?そこから塞ぎこんでたから、心配してたんだよ」
私は急いでタブレットを起動させた。
「うん。凄く落ち込んだんだけど、今は元気だよ。櫻井は高校生活はどう?」
「あー……そうだな。楽しいけど、勉強が大変だよ。俺、無理して進学校に入ったから付いていくので精一杯」
「そっか」
「んで?今日は何の用?」
ニヤニヤしながら櫻井悠人が視線を私に向けた。用件なんて分かってるくせに。意地悪。でもそんなところも好きなんだ。
「これを受け取って欲しくて」
鞄の中から紙袋を取り出す。届け、私の想い。
「お!チョコレート?」
「うん」
タブレットに触れる指先が震える。そんな私の様子を見て、櫻井悠人は真剣な眼差しで私を見つめた。
そして、右手を下に向けて構える。
「えーと……」
櫻井悠人が不安そうに、その手をなでるような感じで、左手を添えた。
「これで合ってるのかな。さっき、YouTubeで見て覚えたんだけど」
手話。そのジェスチャーの意味は「愛してる」。
涙が
「え?泣くの?」
櫻井悠人は慌てて机の上に合ったペーパータオルを私に差し出した。私はタブレットの画面を素早くなぞる。
「めちゃくちゃ嬉しいよ。私も櫻井が好き」
「良かったー!いや、まあ今日が今日だけにお前から告白されるだろうとは思ってたけどな!」
ふん、と鼻を鳴らして櫻井悠人は笑った。
「ところで、今日のお前、なんかめちゃくちゃ可愛くない?」
「わ。ありがとう」
「なんか雰囲気変わったよな」
「魔法を掛けてもらったの」
「どういうこと?」
その後、美容院に行ったことや櫻井悠人に告白する為に色々な努力をしたことを伝えた。
「嬉しい~!これからよろしく。多分、今から色々な事にぶつかると思うけど、二人で乗り越えられたらいいな」
「うん!」
その後、2時間ほど話をした。名残惜しいが、そろそろ帰宅しないと……と櫻井悠人が席を立つ。心配なのか、駅まで送ってくれて、私の姿が見えなくなるまで手を振ってくれた。
日が暮れそうだ。私は急いでLienに向かった。
繁華街は人で溢れている。耳が聞こえない私はかなり注意して歩かないといけない。なのに、少しでも早く佐藤さんに報告がしたくて足早になった。
Lienに着いた。外の暗さに反比例する様に明るい店内。ドアを開けるなり、佐藤さんが不安そうな顔でやってきた。
「どうだった?」
その言葉に私は親指を立てる。
「本当!やったー!」
佐藤さんが私に抱きついてきた。
「佐藤さんのおかげです。本当にありがとうございました」
「そうでしょ!私の魔法は一流なんだから!」
それから、私は音のない天国……Lienに通い続けている。佐藤さんに憧れて、高校を卒業した後、美容師を目指すことにした。正直言って、耳の聞こえない私からすると、美容師になるのは、かなり大変なことだ。それでも、この夢を叶える為なら、努力は惜しまないぞ!と心に決めている。
いつか誰かに素敵な魔法を掛けられるようになれたらいいな。
バレンタインデーのあの日、佐藤さんが掛けてくれた魔法のような。
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