【腐男子くんと貴腐人さん】
俺、
7年前の夏休み、姉の部屋にあった、とあるアニメの薄い本が俺をBLに目覚めさせた。(薄い本とは、成人向け二次創作同人誌を指す俗語である。実際に本の厚みが殆どない、薄い本の事が多い)当時、小学校高学年の俺が大好きだったそのアニメは、腐女子達に大人気の作品だった。俺はそんな事なんてつゆ知らず、
中身を見た俺の頭の中に稲妻が走った。
え?なんで主人公がライバルの男の子の○○を××してるの!!??
本来のアニメにはない、オリジナルストーリー(微エロ)が、そこでは展開されていた。
しかし、そのオリジナルストーリーは、とても面白くて、俺はすっかりBLの世界にハマってしまった。主人公とライバルが、そんな関係になる話なんて思いつきもしなかったし、ラブコメとも禁断の愛ともとれるストーリー展開が、とてつもなく面白かったのだ。姉にこれの続きを貸してくれ!と言うと、姉は一瞬驚いた顔をしたが、アンタ……血は争えないわね……と言って、オススメのBL作品を沢山貸してくれた。ただ、この事は両親にも友人にも言ってはいけないよ、と強く念を押されたので、俺は姉以外の誰にも言わずにBLを楽しむ腐男子になったのだ。
中学生になる頃には、自分の小遣いでBL本を買うほどの腐男子になっていた。勿論、店舗に行くのは
「
直接会うのはリスクがある。実際、俺は性別も年齢も伝えてないし、見知らぬ人とネットを介して会う……と言った事にも抵抗感があった。しかし、貴腐人先生に会いたい気持ちと、特別冊子を手に入れたい気持ちが強くて、今週の土曜日に二人で会う約束を取り付けた。布石を打つために、会った時に驚かないでくださいね、とメッセージを送る。貴腐人先生からは、了解!とだけ返事が来た。う~ん、心配だ。二人で会う前日、俺は中々寝付けなかった。
待ち合わせは、隣町のカフェ。俺は緊張して口が乾いていくのが分かった。電車の中で、何度も水を口にした。電車を降りて、カフェまでの道をスマートフォンで検索していると、高校の担任の
「あ!藤本くん!こんなところで何してるの?」
「あ、え~と。友人と遊びに……」
「へえ~」
「先生は?」
「私は見回りよ。藤本くんも遅くならないように帰宅するのよ」
「はい」
加藤由香里は微笑んで、俺の肩を叩いた。
「まあ、藤本くんは割と優等生だから心配はしてないけど」
加藤由香里は、そう言うとそそくさと何処かへ行ってしまった。
目的のカフェに着いた。中に入ると、窓際の席に案内された。柔らかいソファーの感触を感じる。ホットコーヒーを頼んで、手持ち無沙汰になった俺は、店内を見渡した。小さなカフェで、店長らしき人がカウンターで湯を沸かしている。その湯気が、ゆっくりと天井へ上っていくのを見つめていると、スマートフォンが震えた。貴腐人先生からカフェに着いた、との連絡だった。緊張しながら窓際の席に居ます、とメッセージを送ると店のドアが開いた。カラン……とドアに取り付けてあったベルが鳴って、振り返ると、そこにはさっきまで俺と話していた加藤由香里が居た。
「え?」
思わず声を上げてしまった。その声に気づいて、加藤由香里は驚いた顔をしながら近づいてきて、真琴さん?と声を掛けてきた。どう考えても誤魔化しきれない状況だったので、俺は素直に
「そうか~!ちょっと気まずいね」
「そうですね」
ははは、とお互いに笑いあった。加藤由香里が席に着くと、店員が注文を取りに来た。アイスコーヒーを、と加藤由香里は
「えーと、藤本くん……いや、真琴さん」
「はい」
「これ、お望みの品でございまする」
「おお、かたじけない……」
二人でふざけあいながら、新作のBL本を受け取った。代金を渡して、チラリと紙袋の中にある本の表紙を見た。
「くぅ~!今回の表紙も
「そうなのよね~!しかも付録、先に読んだんだけど、この男性教諭のオリジナルストーリーがまた切なくて……」
「ちょっと!貴腐人先生!ネタバレはなしですよ!」
「これは失敬」
高校でのお堅い先生のイメージが
その日はお互いに色々な事を語った。どういう経緯でBLに目覚めたのか、どんな性的嗜好をしているのか、どの作者の描く、どのキャラクターが好きか、など話題は尽きなかった。
「いやあ、久しぶりに色々語れたわ。まだまだ理解されにくい趣味だから、仲間を作るのも一苦労なのよね」
「俺は初めての経験なんで、とても新鮮でした」
「そうなんだ。もっと語り合いたいね」
「そうですね。でも、学校では……」
「絶対に秘密ね。お互いにバレたら人生が詰むわ!」
「では協定を結ぶということで」
「OK」
もしよかったら、連絡先交換しませんか?色々と話したいです、と言うと加藤由香里は笑ってQRコードを提示してくれた。それを読み取って、よろしくお願いします、とだけ打ったメッセージを送った。
その日から貴腐人先生……加藤由香里とのBL談義は毎日の様に行われた。俺は姉以外にBL話をリアルで出来る相手が居なかったので、兎に角嬉しかったし、加藤由香里も『腐男子』というレアな存在の俺に興味を持ってくれた様だった。加藤由香里との会話はいつもぶっ飛んでて、数学のA先生と体育教師のB先生は怪しいとか、生徒のC君とD君はいつも一緒に居るから多分出来てるとか、身近な人たちで行う妄想話に、俺はいつも腹を抱えて笑い転げてた。加藤由香里は俺の6つ年上の女性だったが、俺は同志として加藤由香里の事を見ていた。
加藤由香里が
恋人とは学生時代から付き合いで、今年で交際8年になるそうだ。そろそろ結婚も視野にいれたいのに、彼氏が中々プロポーズをしてくれないので、逆プロポーズでもしてやろうかと考えている、と加藤由香里は言った。それって面白いですね、と俺が言うと加藤由香里は、本当にしてやろうかしら、と息巻いていた。
そんなある日の深夜、加藤由香里からメッセージが届いた。
「彼氏にプロポーズされました!」
俺は直ぐに電話を掛けて、おめでとうございます!と、電話口で大声で言った。加藤由香里はハイテンションで、ありがとう!私、幸せになる!と嬉しそうに返事をしてきた。
次の日、登校すると加藤由香里が、藤本くん、放課後に理科準備室に来てくれる?と真剣な表情で言ってきた。俺は、何かあったのかな?と思いながらも、分かりました、と言って、その日の授業を上の空で受けた。
放課後になって、俺は足早に理科準備室に向かった。
加藤由香里は既に理科準備室に居て、ご足労いただきありがとうございます、とお
「いきなり本題に入るんだけどさ」
「はい」
「これ、貰ってくれない?」
加藤由香里が指さした方向には、数個の段ボール箱があった。
「なんですか、それ」
「ちょっと見てみて」
「あ、はい……」
俺は恐る恐る段ボール箱の中身を
「え!?先生、こんな危険物、理科準備室に隠してたんですか?」
「し、し、し、仕方なかったのよ!もう家には保管する場所なかったし、彼氏には腐女子なの隠してるの!」
「いやあ……でも、いずれバレますよね?」
「だから私、もうBL活動止めようと思うの。藤本くん、これ全部貰ってくれない?」
「それは嬉しいですけど……先生、本当にこの世界から足を洗うんですか?」
「一般人として生きていくわ……」
「そこに幸せがあるんですかね」
「五月蠅いわね。まあ、なにはともあれ、どうせ捨てたり売ったりするくらいなら、君に受けっとって欲しいな、って思ったのよ」
加藤由香里はニッコリと笑って、俺に言った。俺は、じゃあ遠慮なくいただきますね、と言って頷いた。
「でも、どうやって運ぼうかな……」
「実はさ……」
「はい」
「この5倍くらいの段ボール箱も部屋にあるんだよね」
「え……完全に
「だから車で運んであげるよ」
「よかった。それなら安心ですね」
「とりあえず、ここにある段ボール箱、全部私の車に運んでくれる?その後、私の家に行って、また段ボール箱を積んで、藤本くんの家に行く……ってプランでどうかしら?」
「なるほど」
「じゃあ、一緒に運びますか」
俺達は理科準備室から、一つ一つ段ボール箱を運んだ。本って意外と重いんだよなー、と思いながら、慎重に階段を降りた。もしも段ボール箱を落としたりして、中身が飛び出したら、一巻の終わりだ。全ての段ボール箱を車に運び終えて、加藤由香里は自分の家へと向かった。俺は一度帰宅してから、楽な恰好に着替えて、加藤由香里の部屋に向かう事にした。地下鉄で3駅。誰かに見つかったら、事だな、と思いながら事前に教えて貰った加藤由香里の住所を、スマートフォンに入力した。
加藤由香里の家に着いて、電話すると部屋の番号を教えられた。オートロックの扉に部屋番号を入力してドアを開けて貰った。部屋の前には既に何個もの段ボール箱が並んでいた。
「いやあ……想像していた倍はありますね」
「なんてったって、学生の頃からのコレクションだから」
「お宝アイテムも眠ってるんでしょ?」
「勿論よ。君の大好きな作家の初期作品とかもあるから、楽しみにしててね」
「ありがとうございます」
二人で段ボール箱を運んだ。車に積み終える頃には、汗びっしょりになって、楽な恰好をしてきてよかったな、と思った。
「じゃあ、今から君の家に行くから……って、助手席も段ボール箱でいっぱいね」
「先生、じゃあ俺は電車で帰ります。家の前にコインパーキングがあるので、そこに停めておいてください」
「分かった」
俺は駅に向かう途中で、姉に電話を掛けて事のあらましを説明した。姉は、つまりは大量の宝物が届くわけね……と嬉しそうにしていた。姉さん、協力してくれる?と聞くと、BLの為なら何でもするわ!と言った。
家に着いて、加藤由香里の車に近づくと、既に姉が段ボール箱を運んでいた。
「姉さん!?」
「あ、誠。遅かったわね」
姉さんは、段ボール箱を一つ一つ、宝物を運ぶかのように家に運んでいた。どうやら加藤由香里と話をして、先に荷物の運搬を始めていたようだ。
「藤本くんのお姉さん、なかなかの腐り具合ね」
「先生も感じますか」
「あの腐臭……私の学生時代を思い出すわ……」
加藤由香里は天を見上げて言った。流石、姉さん……。
「さて、藤本くんも運んでくれる?ご両親、そろそろ帰ってくるらしいわよ」
「え?もうそんな時間か!急がないと!」
「親バレは死に等しいからね」
三人で急いで段ボール箱を家に運んだ。俺の部屋も姉の部屋も、段ボール箱でいっぱいになった。運び終えた後、姉は加藤由香里に頭を下げながら、握手を求めていた。腐女子同志、なにか通ずるものを感じたのだろう。
「じゃあね、藤本くん」
「はい」
「もう、BLは語れないけど、藤本くんの担任であることに変わりはないから、何かあれば連絡してきてね」
「ありがとうございます」
加藤由香里は
数日後、加藤由香里が結婚するらしいというニュースが、学校中に響き渡った。口の軽い教師の誰かが漏らしたのだろう。なあ、藤本、お前知ってるか?と何度も色々な人に聞かれても、俺は知らなかったという姿勢を貫き通した。
ホームルームの時間になって、女生徒の一人が加藤由香里に、先生いつ結婚するんですか?と聞いた。加藤由香里は、少しだけ神妙な面持ちになって、頭を下げた。
「皆さんに伝えるのが遅くなってごめんなさい。噂になっているみたいですが、先生結婚します。予定はまだ未定ですが、今年中には式を挙げると思います」
その発言にクラス中が
「結婚したら、仕事を辞めて家庭に入ると思います。私、子供が欲しいんです。この仕事も大好きだから凄く悩みました。でも、彼が転勤族で今も別の都道府県にいるので、そこで一緒に暮らそうと決めました」
加藤由香里の発言にクラスの皆が真剣に耳を傾けていた。俺も寂しくなるな……と思いながら先生の発言を聞いていた。
加藤由香里は俺達が卒業するタイミングで、仕事を辞めるようだった。他の都道府県に行っても教員を続ければ良いじゃないですか?と言うと、教員免許というのは全国共通だけど、公立学校の教諭になれば、採用された都道府県ごとでの就職しか出来ないらしく、他県で教員として働くのはかなり難しいとの事だった。
数か月後、卒業式は
大学生活は充実していた。加藤由香里に言われたからではないけれど、自分の趣味をオープンにする事にして、サークルは漫画研究会にした。そこで、BLについて語れる仲間も少しだけ出来た。けれど、加藤由香里……貴腐人先生と話をしていた時の様な高揚感はなかった。加藤由香里の存在は自分にとって、とても大きかったのだなと自覚した。大学では、友人も沢山できたし、恋もした。兎に角、沢山の経験を積んだ。将来を考えた時、俺は「教師」になりたいな、と思って、教職の授業を取った。俺も先生になって、悩んでいる生徒の心を軽くしてあげられるような教師になりたい、と考えるようになったのだ。
加藤由香里には
卒業を控えたある日、加藤由香里からBL本返してくれない?と連絡が来た。俺は驚いて、直ぐに加藤由香里に電話した。
「先生、何かあったんですか?またこっちの世界に戻ってくるんですか?」
俺がお道化て言ったセリフに、加藤由香里は重い雰囲気で返してきた。
「実はさ……離婚することになったのよ……」
「え……」
俺は掛ける言葉を失ってしまった。電話越しにすすり泣く声が聞こえる。
「やっぱり、自然な私でありたいと思ったの。BL好きで子供たちの事が好きな、貴腐人な私に。彼との結婚生活は幸せだったけど、お互いに言いたい事をちゃんと言える関係を構築しないとダメね。BL本、まだ残ってるかしら?」
「ええ。残ってますよ」
「無理ならいいんだけど、返してもらえると嬉しいな」
俺は今がチャンスだと、覚悟を決めていった。
「返す代わりに貴腐人先生が欲しいです」
加藤由香里は驚きつつも、笑って答えた。
「じゃあ、一生BL談義をしてくれる?」
「死ぬまで腐り続けましょうよ」
「最高ね」
俺、藤本誠は腐男子である。俺達は多分、死ぬまで腐り続けるだろう。そんな未来を想像しながら、俺は加藤由香里と本を返す日のスケジュール調整を始めた。
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