【実験体Xは悩んでいる】
その日、実験体Xは悩んでいた。
実験体Xは生物学的には、女性である。天才科学者によって生み出された
悩みの原因は彼女の生みの親……天才科学者の
彼女……華は小学生低学年くらいの年頃で、浅葱美琴の遠縁に当たる少女だと聞かされた。彼女の両親が亡くなって、身を寄せる場所がないかと親戚から相談されて、浅葱美琴が引き受けた……というのが、事のあらましなのだが、それまで浅葱美琴と二人で暮らしてきた実験体Xにとって、華は異物であった。
穏やかな二人暮しに、突然、土砂降りの雨が降り注いだようだった。
「えっちゃーーん!バスタオル取ってよぉ」
浴室から聞こえてくる、悲鳴のように高い声に、実験体Xは溜息を
『えっちゃん』と言うのは、実験体Xの呼称である。浅葱美琴は、自宅では、きちんと『実験体X』と呼ぶのだが、外では『
「華、これ、下着です。きちんと、体を拭くのですよ。風邪など引かれては、迷惑千万です」
「えっちゃん、めいわくせんばんって何?」
「とても迷惑だ、という事です」
「華、風邪引かない様にするね」
「それがいいでしょう」
この後、髪を濡らしたまま、浴室から出てくる事は、毎回の事なので分かりきっている。面倒だが、華の髪を乾かす為に、実験体Xはドライヤーを取り出して、華が出てくるのを待った。
「えっちゃん、今日のご飯は何?」
「今日はエビフライです」
「えー!やったー!」
「サラダもちゃんと食べないと、エビフライはあげませんよ」
「サラダには、トマトって入ってるの?」
「入ってます」
「うげぇ……」
華は苦虫を噛み潰したような顔をして、吐く真似をした。
「貴方は私と違って、人間なのですから、しっかりと栄養バランスを考えた食事を摂らなければならないのです。美琴も、ですけど」
「みことちゃんもトマトは嫌いだって言ってた」
「美琴は苦手な物でも、ちゃんと食べます。貴方も食べなさい」
風呂上がりで、ポカポカした熱を放つ華を、膝の上に乗せて、実験体Xはドライヤーの風を華の髪に当てた。華の髪は
「みことちゃんは?」
「美琴は仕事中です」
「今日は一緒に、ご飯食べないの?」
「いえ……もう直ぐ帰ってくると思いますよ」
言い終わった直後に、玄関のドアが開く音がして、浅葱美琴が帰ってきた。
「おー!華!大人しくしてたかい?」
「みことちゃん!おかえり!」
「ただいま!実験体X、華の面倒を見てくれて、ありがとう」
長く、赤に近い茶髪を後ろで縛り、パンツスーツ姿に、薄化粧の浅葱美琴は、身長が低い
「はい。美琴、お疲れ様でした。お風呂も沸いてますし、食事も直ぐに出来ますが、どうしますか?」
「食事にしよう。華は、もうお風呂を済ませてるんだろう?」
「はい。先程上がって、今、髪を乾かしていました」
「じゃあ、食事だね」
「分かりました」
実験体Xは台所へ向かった。
「華、今日は何をしてたんだい?」
「今日は、えっちゃんに勉強を教えてもらった〜!」
「へえ!どんな勉強を習ったんだい?」
「今日はね〜『ジョルダン標準形』と『ガロア理論』だよ〜」
一般的に、専門の大学で学ぶ、代数学の分野の事だ。
「そう……難しかった?」
「凄く難しかった!でも、えっちゃんが、ちゃんと教えてくれるから、大丈夫だよ」
「そうかい」
浅葱美琴は、目尻を下げて、華の頭を
「ねえ、みことちゃん」
「なんだい?」
「華、学校……に行ってみたい」
「学校かあ」
「うん……昨日、マンションのベランダから、華と同じ歳くらいの子達が、仲良く遊んでるのが見えたの。華も、あの子たちと遊びたい」
「う〜ん」
「だめなの?」
「駄目じゃないよ。近い内に、手続をしよう」
「やったー!ありがとう、みことちゃん!」
華が飛び上がって喜ぶのを見て、浅葱美琴は心の中で
華が寝た後、浅葱美琴が値の張る年代物のウィスキーを炭酸水で割って、自室で
「はい」
「美琴、今、いいですか?」
「うん」
実験体Xは、少し神妙な面持ちで、部屋に入ってきた。
「華が学校に通う……というのは本当ですか?」
「ああ……その事について、君に相談したかったんだよね」
「私は反対です」
「だよねぇ……」
ウィスキーの炭酸割りを口に含んでから、浅葱美琴は首を回した。悩んでいる時の癖である。
「華の計算能力は、現段階で大学生レベルです。まだ八歳ですよ?そんな彼女が、小学校で他の子たちと仲良く出来るとは、私は思えません」
「いやあ……理系の分野は、そうかも知れないけれど、言語などの文系分野は、まだまだ未熟だし、集団での行動などは経験しといた方がいいだろう」
「集団行動なんて、意味がありません。それに、彼女、
「彼女の母親の遺言でね……『普通の幸せ』を掴んで欲しいそうだ」
「普通?何ですか、それ」
「普通は普通だよ」
「ありふれている、とか、珍しくない、という意味であるならば、私も貴方も普通ではありません。私たちは幸せではありませんか?」
「やめてくれよ」
「美琴、兎に角、私は反対です」
「本当はね……」
ふぅ、と吐息を漏らして、浅葱美琴は続ける。
「私だって、地元の小学校なんかに通わしたくはない。彼女の才能を伸ばすなら、今すぐにだって、海外の大学に通わせるべきだよ。彼女は歴史にその名を刻む、偉大な数学者となるだろう。けれどね、実験体X。私は彼女が偉人にならなくても構わないと考えているんだ」
「どういう事ですか?」
「実験体X。私も『天才科学者』と言われた女だ。様々な苦労をしてきた。華には、そんな苦労をせずに、ただ穏やかに暮らしてくれれば……そう願う自分もいるのさ」
「私には理解不能です」
「まあ、兎に角さ、一度通わせてみようよ。それで駄目なら、やめればいい。人生はトライアンドエラーさ」
「……分かりました」
渋々といった表情で、実験体Xは部屋を後にした。近頃、愛想のない人間なんかよりは、人間味に溢れてきたな、と浅葱美琴は微笑んだ。
「ついでに、小学校への転入手続をするかあ」
近くの小学校のホームページのURLをクリックして、浅葱美琴は首を回した。
『あさぎ はな』と名前の書かれた、数々の文房具を見て、華は大興奮だった。明日から小学校へ通う事になり、その準備の一環として、持ち物に名前の書かれたテープを貼る……という作業中である。
「ねえ、えっちゃん!これはなに?」
「これは筆と
見たことのない文房具や、新品のランドセルを見て、華は我慢しきれずに、高い声で歓声を上げた。
こういう所を見ると、八歳の子供なのだが。実験体Xは微笑んで、華の様子を見ていた。その日、浅葱美琴が帰宅すると、ランドセルを抱えたまま、華は眠ってしまっていた。
「いやあ、ああいう姿を見ると、まだまだ子供だな、と感じるね」
「実は昼間、私も同じように感じてました」
実験体Xと浅葱美琴は、お互いに見つめあって笑った。
明日、どうなるのだろうか。
不安は尽きない。
意外にも、華は小学校での生活に直ぐに順応し、友人も沢山出来て、小学校での生活を楽しんでいた。音楽のセンスはないらしく、唯一、評価が『普通』と通信簿に書かれそうだ、と
良かった、と浅葱美琴も実験体Xも安心していたある日、事件は起きる。
事の発端は、一人の教育実習生だった。その日、実習を任された、とある男子大学生は、華のクラスで少しだけ難しい算数の問題を出した。解けない事が前提で、解けなかった後に、算数の楽しさを伝える……といった目的の授業だった。
この問題が分かる人?と聞いて、誰も手を挙げないのを見て、男子大学生は、当然だ、と
おや?と男子大学生は驚いた。正解だ。しかし、この問題なら、一流進学塾に通う子供なら解けても不思議ではない。だが、このままだと、授業本来の目的が果たせない。教室の後ろで授業を見学している、このクラスの担任にも格好がつかない。慌てて、男子大学生は、高校生でも解けないレベルの問題を出した。これなら、大丈夫。式なんかは省略して、こういう問題も、解けるようになるんだよ。算数から数学に変わる瞬間を味わって欲しいんだ。と言いかけて、彼は絶句する。
さっき、正解を口にした少女……浅葱華が、黒板の前へやってきて、男子大学生の省略した式を書き出し、訂正まで加えたのである。
不幸なことに、この男子大学生が、この一連の流れを、自分のSNSに載せてしまうのだった。こうして、浅葱華は、普通の幸せから遠ざかる事になる。
「やれやれ……また取材を申し込まれたよ」
浅葱美琴は、両目を
あの一件以来、真偽を確かめる為に、何人かの大学教授が、華の元を訪れていたらしい。そんな話を、ほんの少しも耳にしていない浅葱美琴と、実験体Xは、小学校に抗議して、華を
このまま、周りの熱が冷めるのを待つしかないな、と考えていた、ある日、青天の霹靂が彼女達を襲う。
華の祖父が、親権を返せと、裁判を起こしたのだった。
「どういう事ですか?」
怒気を含んだ実験体Xの言葉を、冷静な声で浅葱美琴は返した。
「彼女の祖父は、とある世界的な保険会社役員でね。華の母親とは折り合いが悪かった。華の能力を知って、自分の後継者に
うーん、と額を指で
「保険会社と数学って関係があるのですか?」
「ああ。保険、金融などの分野で、保険商品の設計やリスクの評価などのために、高等数学は必須なんだ。そうじゃなくても、彼女の能力があれば、何かのビジネスには使えるはずさ」
「……だから、小学校なんかに通わせるのは、反対だったんです」
「起きてしまった事はしょうがないよ。実験体X、君の目から見て、裁判の勝率は?」
「……判例を見るに、かなり厳しいでしょうね。やはり、血の繋がりというのが、大事になってきます。本当に、この国は生き辛い。私の人権すら認めてくれない、こんな国に、まだ未練でもあるんですか?そうだ!海外へ行きませんか?」
「それも考えの1つにしよう」
浅葱美琴は、頷いて、自室に戻った。
裁判は揉めに揉めた。お互い一流の弁護士を雇い、様々な手を使ったが、果たして浅葱美琴と実験体Xは裁判に負けた。華の親権は祖父へと帰り、虚無感で二人は無言のまま帰路に着いた。
「この際、華を誘拐して、海外へ飛びましょう」
「恐ろしい事を言うね、実験体X。でも、それもありかも知れないなぁ」
華と、最後の夜を過ごす事になった。華は幼いながらも事情を理解しているようで、塞ぎ込んで浅葱美琴の自室に
「華!そろそろ出てこないか?」
「いや!」
「私も実験体Xも、華と離れたい訳じゃないんだ。でも、おじいちゃんと暮らす事になってしまったんだよ。華が大きくなったら、ちゃんと迎えにいくから、今日は一緒に、夕飯を食べよう」
「いや!ほっといて!」
駄目だ、と諦めて、リビングに戻る。浅葱美琴は、実験体Xと顔を見合わせて、肩を
その日、華が部屋から出てくる事はなく、二人は深夜まで起きて、華を説得したが、華が出てくる事はなかった。
朝になった。
目を
「みことちゃんのパソコン借りて、海外の大学の入試受けた。合格したら、海外に行くから、三人で一緒に暮らそうよ」
この子は、本当に強く、賢いな、と実験体Xは思った。
数年後、実験体Xは悩んでいた。
海外に移り住んで、華は直ぐに大学へ通い、今も優秀な成績を修めている。それは良い事だ。しかし、今日、同級生の男の子を家に呼んでいい?と聞かれて、実験体Xは戸惑っていた。研究所にいる浅葱美琴に相談したら、彼女もどうしていいか分からないらしく、返答に詰まって、二人は覚悟を決める事にした。
男の子は、どんな子なんだろうか。苦手な食べ物とかあるのだろうか。
あの日のメニューを迷った様に、実験体Xは悩んでいる。
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