【名前のない喫茶店】
独居老人用のサービス付きマンションに移る事にした。
亡くなった夫が、必死になって働いて、建ててくれた一軒家は、一人で住むのには大きすぎたし、維持費も、かなりの物だった。一人息子は、面倒くらいみてやるよ、と言ったが、義理の娘にしてみれば、こんな老人と同居するのは、あまり気持ちのいいものではないだろう。
それなら、と息子に勧められたのが、独居老人用のサービス付きマンションに移る事だった。
身体機能が低下しても住みやすいようバリアフリー構造になっており、安心して暮らしていける安否確認や生活相談といったサービスが提供されているし、その他、掃除や洗濯、買い物代行といった生活支援サービスもある。このまま歳を重ねていけば、自分一人では生活出来なくなるかも知れない、という不安を
年金も蓄えもある。息子からの提案に、私は乗る事にした。
引越しの準備は、割と大変だったが、息子や近所の人が助けてくれて、何とかなった。沢山の荷物の内、必要な物だけを持っていく事にして、価値のある家具や、骨董品などは、息子の家へと送る算段にした。
何度か下見はしていたが、引越し先のマンションは、五階建てのオレンジ色の建物で、一階にはコンシェルジュ……(というには
荷物を部屋に入れて、
少し、散歩でもしてみようかしら、と思い立って、歩きやすい格好に着替えて、外出する事にした。
外に出て、図書館までのルートを、スマートフォンで検索する。徒歩5分。便利な世の中になった物だ。同年代には、まだまだスマートフォンやらの電子機器を使いこなせない人も多く居るが、私は、こういう電子機器やらパソコンやらが好きだったので、苦手意識は、
歩き始めて、キョロキョロと周りを見渡した。治安が良い地域なのだろう。親子連れを多く見掛けた。
図書館に着いた。腕時計を見ると、15:00になるところだった。本当は図書館の中で本を読みたかったが、夕飯の準備や、その他の家事やらを考えると、本を借りて、家で読むのが良いだろう。受付カウンターで、カードを作って、何冊か
帰り道、同じルートで帰るのも味気ないので、スマートフォンで検索した他の候補の道を歩いて帰る事にした。何か面白い発見があるかも知れない。
住宅街の中を通り抜けるルートだった。公園やら、最寄りのコンビニの場所が分かった。収穫があった。良かった。
ふと、曲がり角を曲がると、そこに洒落た喫茶店があった。レトロな雰囲気で、オープンテラスには私と同年代の女性が、数人、楽しそうに会話をしながら、お茶を楽しんでいる。
あ、ここ、良さそう。
気付くと、私は、いつの間にか、喫茶店のドアを開けていた。
「いらっしゃいませ!」
中に居たのは、女の子で、まだ高校生くらいの年齢の店員だった。席に案内されて、直ぐに水の入ったグラスが運ばれてくる。メニュー表を見ると、様々なコーヒーのブランドが並んでいた。しかし、私は紅茶派なので、メニューを見ずに、暖かい紅茶を頼んだ。注文を伝えると、女の子は、そのまま注文をカウンターの奥に居る、四十代くらいの髭面の男性に通した。この店のマスターだろうか?女の子は微笑みながら、給仕を続けた。
水を一口、口に運ぶ。レモンの風味がしっかりとしていて、美味しかった。
鞄の中から、本と眼鏡を取り出して、ゆっくりとページを
紅茶が運ばれてきて、一口飲んで、驚いた。とても美味しい。明らかに茶葉から丁寧に
基本的にはコーヒーがメインの店の様だが、紅茶にも力を入れているのだろう。メニュー表の隅っこに、アッサム、アールグレイ、ダージリン、ニルギリ、ルイボス、ウバ、様々なフレーバーの名前があった。
私は、紅茶には
優雅な一時を楽しんで、女の子に、会計を、と伝えた。レジ前まで歩を進めると、たまたまオープンテラスに居た客も、会計をするところだった。
「お先にどうぞ」
「いえいえ、私たちの方が時間が掛かると思いますので、どうぞ」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
客層も良いのか。これは当たりの店を見つけたぞ、と喜んで、私は会計を済ませた。
「ありがとうございました!」
「また来るわね。とても美味しかったわ。ご馳走様」
女の子は、まん丸い目をクルクルとさせて、満面の笑みで言った。
「是非!お待ちしております!」
外に出て、幸せな気持ちに包まれた。店の名前を覚えようと、看板を探したが、見つからなかった。
すると、オープンテラスに居た客達が、会計を済ませて、表に出てきた。
「あの……すいません」
「はい?なんでしょうか?」
客の一人が、微笑んで応えてくれた。
「私、このお店に来るのが初めてなんですけど、このお店の名前って、なんて言うか教えてくれませんか?」
客は、ふふふ、と笑って
「それがね、このお店の名前って、誰も知らないんですよ」
「え?どういう事ですか?」
「レシートやら、領収書には『純喫茶』とだけ書かれるので、それが正式名称かも知れませんけど。私達も長年通ってますが、店名を知ってるのは、マスターだけじゃないかしら?」
へえ、と目を大きくして、私は感謝を述べて、頭を下げた。
「ここのお茶、とても美味しいでしょ?また、ここで会うことがあれば、一緒にお話しませんか?」
「是非、お願いします」
友人まで出来そうだ。新生活のスタートは上々。私は、歩を軽くして、帰路に着いた。
次の日、朝目覚めて
店名が分からないので、スマートフォンで検索出来ない。『純喫茶』で検索すると、他の店舗が表示される。仕方が無いので、
徒歩、3分で、店に着いた。開店している。迷わずに来れた事が嬉しかった。喜び勇んで、店のドアを開けた。
「いらっしゃいませ!あ、また来てくださったんですね」
女の子の店員が、ニコニコとしながら、私の元へとやってきた。小さな店内は混みあっていて、空席が少なかった。
「どうしましょうか……オープンテラスは冷えますし……カウンターでも、よろしいでしょうか?」
「構いませんよ」
カウンターに通されて、モーニングセットのメニューを見た。トーストにゆで卵、サラダと果物、ワンドリンクが付いて、500円もしない。トーストは、ホットドッグや、その他のパンにも変更が可能。破格だ。一般的なモーニングの値段なのかも知れないが、あのクオリティの紅茶が飲めて、この値段なら、毎日通う。
「モーニングのAセットを。ダージリンで」
「かしこまりました」
マスターは、ぶっきらぼうに応えて、ティーメジャーで茶葉の量を正確に測り、ガラス製のティーポットに入れた。ゆっくりとお湯を注いで、ユラユラと回転する茶葉の動きを見ていた。
数分後、マスターは、陶器のティーカップに、紅茶を注いで、ティーポットに、ティーコジー(保温のためにティーポットに
「とても美味しいです。私は紅茶好きなんですけど、ここまでの紅茶には、中々巡り会いませんでした」
「ありがとうございます」
マスターは、少し照れた様だった。
「コーヒーに力を入れているお店だと思うのですが、紅茶が美味しくて、朝から来てしまいました」
「……ここだけの話、私も紅茶派なんですよ」
片目を
「茶葉にも、かなりの
「正直、とても力を入れています。採算的には、赤字ギリギリですよ」
マスターは、そう言うと、棚の奥から、茶葉の入った缶を持って来て、私に言った。
「中々、手に入らない茶葉を、本日仕入れたので、もしも良かったら飲んでいきませんか?」
「それは楽しみですね。モーニングを食べ終わったら、それを一杯、頂けますか?」
「承知しました」
楽しみだ。私はトーストを
カラン……と鈴の音が鳴って、一人の女性客が入ってきた。昨日、私が話し掛けた、私と同年代のグループの一人だ。
「あら、おはようございます。早速いらしてたんですね」
「はい、とても気に入ってしまいまして」
「それは良かった」
女の子の店員が、席に案内しようとしたが、混雑していて、カウンターしか空いていない状況だった。
「カウンターでも、よろしいでしょうか?」
申し訳なさそうにする女の子に、気にしないで、と言って、女性は、こちらを向いて言った。
「お隣、よろしいですか?」
「はい、どうぞ」
女性は嬉しそうにして、私の隣に座った。
「マスター、モーニングのAセットを」
「かしこまりました」
明らかに慣れた言い方で、注文して、女性は私に話し掛けてきた。
「初めまして。私は
ぺこり、と頭を下げて渡邉律子は白い歯を見せた。
「初めまして。私は
「あら、お独りで?」
「はい。実は、夫を亡くして、独居老人用のサービス付きマンションに引っ越してきたんですよ」
「あら、ひょっとしてオレンジ色の建物の?」
「ご存知なんですか?」
「あのマンション、ウチが設計したんです。偶然って怖いですね」
会話に花が咲いた。色々と話していると、マスターが例の紅茶を淹れてくれた。
香りを楽しみながら、
「仲村さん、とても美味しそうに紅茶を飲みますね」
「はい!私、紅茶に目がないんです」
「私は、いつもブラックコーヒー。このお店、コーヒーも美味しいですよ」
「今度、飲んでみます」
渡邉律子と一時間ほど話して、解散の流れになった。
「私は毎朝、ここでモーニングを食べるので、もしまた会えたら、お話しましょう」
「はい」
スプリングコートに身を包んで、帰路に着いた。
こうして、私はお気に入りの店……名前もない喫茶店で、毎日を過ごす様になった。
ある日の午後、いつもの様に紅茶を飲んでいると、
男は、カウンターに足を向けて、席に着くなり、マスターと話を始めた。よく聞こえなかったが、マスターも渋い顔をしていて、あまり印象が良くなかった。なんだか、店に
男が店を出ようとして、レジ前に立つと、マスターが会計は良いから、と言った。男は、無表情のまま、退店した。
男が退店するなり、マスターは、女の子に「
店内の客は、私一人。事情を聞いてもいいものだろうかと、少し
「仲村さん、御騒がせして、すいませんでした。本日のお代金、サービスさせて下さい」
「いえ。気になさらないで。寧ろ、サービスされた方が、気を遣ってしまうわ」
「本当に申し訳ありません」
「……何があったのか、聞いてもいいかしら?」
「……マスター、仲村さんに事情をお話しても構わないですか?」
マスターは、少し考えた後、カウンターに来ていただけますか?と言った。私は読んでいた本を閉じて、カウンターに座った。
「さっきのは、兄なんです」
マスターは、重い口を開いた。
「こいつは、兄の娘でして……つまりは、姪っ子なんです」
女の子は、ぺこり、と頭を下げた。
意外な関係性を知って、私は目を丸くした。
「兄は事業に失敗して、借金を抱えてまして……その時は、うちの親がなんとか工面したんですが、その後、詐欺まがいの商法をする会社を
女の子は泣きそうになりながら、マスターを見ていた。
「あいつは、その筋の人間と付き合いがある様です。何度も注意しましたし、兄弟の縁も切りました。しかし、金に困ってるんでしょうね。最近、毎日の様に、電話を掛けてきては、亡くなった両親の遺産を分けてくれ、と言ってきます」
「両親を亡くされたんですね」
「この店は、元々、両親が経営していたんです」
マスターは、店内を見渡して、私に言った。
「我ながら、良い店だと思います。残された遺産は、この子の為に使いたいし、この店も、この子に残してやりたい。私には、子供が居ないので」
女の子は、物憂げな顔をして、マスターを見つめた。
「コイツは、来年、留学する予定なんです。その資金も、遺産から出す予定です。アイツには一銭も渡すつもりは、ありません」
「……それでも、お兄さんが来るということは、相続権に問題があるのですね?」
「……お察しの通りです。遺言状がなかったので、アイツにも財産を得る権利が生じています。しかし、両親は遺言状を書いた、と言っていました。アイツが遺言状を何処かへやったか、捨てたに決まっている」
「……難しい状況なのですね」
「正直、困っています」
「この事は内密にしておきましょう。私が力になれることがあれば、仰ってください」
「ありがとうございます」
家に帰って、息子に電話をした。マスターには言わなかったが、息子は弁護士をしている。事情を説明すると、息子は、うーん、と難色を示した。
「遺言状がない場合、相続権ってのは必ずあるんだよね……いくらか払って、縁を切るのがベターだと思う」
「そうなの……でも、なんとかしてあげたいわ」
「母さん……確かに僕も、母さんがお世話になってる人達の事だから、なんとかしてあげたい気持ちはあるけど、法律は法律だからね」
「でも、その人は詐欺まがいの行為をして、訴えられてるのよ」
「相続権には関係ないよ」
「そうなの!?あー、どうすれば良いのかしら」
「ちなみに、亡くなった御両親というのは、お兄さんが面倒を見ていたのかな?」
「そう……だと思うけど」
「……分かった。明日、そっちに行くよ。一緒に、その喫茶店に行こう」
「本当?ありがとう」
電話を切って、早めに床に就いた。
次の日の午後、息子とマスターの所へ行って、話をした。
「面倒を見ていたのは私でも兄でもないんですよ……施設に入れていて。親父が生きていた時は、私が面倒を見ていたんですけど、母が一人になった時に、自分から施設に行く……と言い出しまして」
息子は、難しい顔をしながら、マスターに問いかけた。
「言い難いこととは思うのですが、財産は
「2000万です。近くのマンションを経営してるんです。毎年、600万ほどの家賃収入があります」
「……2000万?」
「はい」
「……気になりますね。」
「と、言うと?」
「少な過ぎます。家賃収入が毎年600万もあるのに、その預金額は少ない。調べてみても良いですか?」
「よろしくお願いします」
息子は、微笑んで、店を後にした。
数日後、息子から電話があった。預金口座があった銀行の支店に問い合わせ、その預金口座の過去10年間の取引履歴を取り寄せたようだ。
取り寄せた取引履歴を見ると、マンションの家賃収入として、確かに600万円程度の振り込みがあったが、同時に毎年300万円程のお金が引き出されており、引き出された金額の合計は、10年間で3000万円近くになっていた。
「これは財産を事前に受け取った物と見なされるよ。財産を分ける必要は無いと思う。マスターに、報告しておいて」
私は直ぐに部屋を出て、喫茶店へ向かった。
マスターに、事のあらましを伝えると、ホッとした表情をして、自分の姪っ子を呼んで、二人して私に頭を下げた。私は、お気になさらずに、と言って、紅茶を注文した。
少し離れた席に居た、渡邉律子が私に話し掛けてきた。
「ねえ、仲村さん。
「そうなんですか?なんて店名なんです?」
「『brotherhood』ですって。ちょっと洒落てるわよね」
兄弟愛……両親が残したであろう、その店名を聞いて、私は少し切なくなった。マスターの淹れてくれたティーポットの中で、茶葉がユラユラと揺れていた。
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