【スラム街の名士】


 私が君達に1つだけアドバイスをするならば、金儲けをしろ、だ。金を汚い物の様に、清貧であれ、と愚者は呟くが、あれは言い訳だ。金持ちになれなかった敗者の愚痴だよ。


 初授業。スラム街の名士と呼ばれる老人は、部屋にいる数人の生徒に力強く言った。


 ここは世界でも有数の教育機関で、最も人気の高い授業の1つ。何人もの生徒が、この授業を希望し、実力と運を兼ね備えた、数人の生徒だけが、彼の授業を聞く事が出来た。


「そもそも、金とは何か分かるかね?」

 視線をこちらに向けられて、僕は自分がその問の答えを求められているのを知った。


「通貨……というのは、契約です。物々交換から始まった制度を、より正確且つ公平な物にする為に、この通貨には、これだけの価値がありますよ、と、国家や世界が保証する契約書の様な物です」

 僕は、自分が学んだ知識から、言葉を選んで老人……教授に言った。


「模範解答だな。けれど、金とは、もっと簡単な物でいい。欲望を具現化出来る物だよ」

 教授は、黒板にスラスラと図を書き始めた。僕達は、それを神のお告げの様に、ノートに板書し始めた。それを見て、教授は笑いながら言った。


「こんな物、板書しても仕方ないよ。君達の頭脳なら理解出来る筈だし、『理解』出来たなら、板書よりも深く脳裏に焼き付く。まあ、止めはしないがね」

 教授は、黒板に大きく丸を付けた。そして、その中に『最適化する個人』と名称を付けた。


「『最適化する個人』は、自分の欲求を最大限満たすために、常に自分にとって最適な行動をとる合理的な人間だ。欲求は何でもいい。女にモテたい、美味しい物が食べたい、最高の睡眠が取りたい、人より儲けたい」

 黒板の大きな丸の中に、複数の丸が付けられた。教授の字は汚くて、殴り書きだった。


「人は皆、『最適化する個人』だ。勿論、そうでない人間も数多く居る。今回は、そう言った聖人君子や負け犬を除いた、理想論を語ろう」

 教授は、図の隣に、大きく疑問詞クエスチョンマークを書いて、その下に、こう書いた。


「個人にとっての最適化の結果が、全体にとって、どの様な結果を導くか?」


 教授は、書き終えると、教室全体を見渡して、言った。

「これがミクロ経済学の基礎だ」


「個人の最適化、複数人の最適化、全体の最適化の結果が、全体に与える影響を考えてくれ。今日の授業は、ここまで。今から呼ぶ生徒は、私と食事を共にする事」

 授業が始まって、10分もしない内に、教授は授業を切り上げた。食事のメンバーの中に、僕の名前があって、僕は止まらない知的好奇心に、心が踊る様だった。




 あのスラム街の名士と食事が出来る!




 確か、彼と食事する為の権利が、何かの番組の企画で、一般的なサラリーマンの月収の3倍の値段で、オークションにかけられていた。つまり、これからの1時間弱は、僕にとってサラリーマンのボーナスと同じ価値があるって事だ。


 教授は、僕を含めた数人の生徒を引き連れて、郊外にあるレストランに入った。少し小さい個室を予約していた様で、店員がスムーズに僕達を案内してくれた。


「君達の中に、私の授業で今日は終わりだと言う生徒は居るか?」

 しーん、とした個室の中で、僕だけが手を挙げた。


「そうか。君は酒をたしなむか?」

「はい」

「一緒に飲もう」

 教授は、店員に食前酒を頼み、僕に近くに座る様に言った。ラッキーだ。


「私には学歴はない。ただ、勉強は人の何倍もしてきたと言う自負がある」

 食事が始まる前に、教授は、いつもの様に力強く言った。


「偉そうな経済学者は、皆、机上の空論で惑わしたり、詐欺まがいの行為をしている。本当に経済の事が分かるなら、儲けてから、人に自分の言いたい事を語れ、と私は常々、考えている。だから、私は儲けたし、この知識や財産を使って、君達の様な将来有望な若者とコネクションを作って、更に儲けたい。これが、本音だ。貴重な時間を使って、この大学の特別教授になった理由だよ」

 教授はそう言って、僕達を見渡して微笑んだ。


「では、皆。自己紹介をしてくれ」

 教授の言葉に素直に従って、僕達は自己紹介を始めた。





 スラム街の名士と呼ばれる、この老人は、『世界で最も株で儲けた人物』として、あらゆるメディアに取り上げられている。それなのに、生活は全く派手ではなくて、学生時代に今の奥さんと住んでいたアパートに、今も住んでいるし、愛車は黄色い軽自動車。腕時計は、『正確さ』を売りにしている国産メーカーの安物。唯一、金を使うのは、『食事』だけだった。


 こんなに金を稼いだなら、僕なら毎日、豪遊するし、大学の特別教授なんて、面白くない仕事はしない。


 彼の出身は、この国でも最も治安の悪い地区。スラム街だ。


 今でこそ、治安も良くなって、むしろ観光名所の様な扱いを受けている様だが、教授が幼少期を過ごしていた当時は、夜中に響く銃声の音が、目覚し代わりだったと、教授は笑って言った。


 教授は幼いながら、誰よりも熱心に働いた。朝、日が昇る前に、隣町におもむき、新聞配達、靴磨き、煙突掃除に、工場での勤務をこなした。彼には夢があった。


 いつか、こんなスラム街から抜け出して、城の様な家に住み、毎日、豪華な食事をして、バカンスには海外へ旅行する。そんな未来を描いていた。


 ある日、両親が急死し、身寄りのない教授の元に、母親の親戚が教授を引取りにきた。なんと母親は富豪の出身で、教授は幸運にも少年の段階で、抱いていた夢を叶えてしまった。


 城の様な家に住み、毎日、デザートまで付いてくる食事に、教授は情熱を失ってしまった。





「そこから、もう一度、情熱を取り戻すのに、3年掛かったよ」

 教授は、僕に笑いながら身の上話をしてくれた。この話を新聞記者にでも話したら、1冊の本が出来るんじゃないか?って位に濃い話だった。


 中学に上がって、寄宿舎付きの名門校に入学した教授は、そこで衝撃を受けた。自分は特別な運を持っていて、偶々たまたま、幸運にも全てが上手くいった、と思っていた。しかし、世の中には、こんなにも沢山の恵まれた人間が居るのか!クラスメイトの誰もが、自分で自分の洋服を洗った事のない奴らばかりだった。


 教授は、失望と共に情熱を取り戻して、こんな運だけで生きてきた奴らには、絶対に負けたくない、と勉学にいそしんだ。特に経済学は、彼の知的欲求を満たしてくれた。


 実家の経営が苦しくなって、教授は学校を後にする事になった。何人かの友人は、教授とこれからも付き合っていきたいと、文通しようと言ってくれた。彼らとの付き合いは、今でも続いている。


 教授は、実家から援助を受けずに、また街で働き始めた。名門の高校に入学したが、今度は勉強はおろそかにして、毎日の様に働いた。


 ある日、大企業のトイレ掃除をしている時に、役員が2人、トイレに入ってきた。少年は、役員全員の顔と名前を覚えていた。彼らは上層部の人間だ。


 2人は、次の経営会議で発表だな、とだけ話をした。教授は勘づいた。合併だ。この大企業のライバル企業は、とある製品の設計ミスで、重大な経営不振に立たされていた。しかし、その技術力は、他に類を見ない程の物だった。


 教授は確信を持って、全財産を証券会社に預けて、投資した。次の週、教授の思惑通りに事が進み、教授は財産を数日で10倍以上にした。


 そこから、株式にのめり込んだ。面白い。こんなに面白い遊戯があったのか。知識や勘を頼りに、リスクヘッジをしながら、財産を増やしていく。ゲームのハイスコアを更新する様な、ワクワクする感じが、たまらなく教授の心を奪った。


 教授はある日、恋に落ちた。とある証券会社に勤める女性社員。その知性的な言動と、穏やかな雰囲気にやられた。猛アタックした。彼女が、今の奥さんである。当時の奥さんは、教授の誘いを断る為に、私の証券会社で大口の口座を開いてくれたら、交際してもいいわ、と言った。その日の内に、教授は口座を開いて、奥さんとの交際を始めた。


 今まで投資してきた中で、最高の株主優待だったよ、と教授は笑いながら、僕に言った。


 毎日、どんどん増えていく財産。しかし、その財産を、教授は殆ど使わなかった。


 何故ですか?と言う僕の疑問に、教授は愚問だな、と少し怒気を込めて返答した。


「100ある財産から、10の財産を使って、残り90になった財産を2倍にしても180。財産を使わなければ200。それなら、私は財産を使いたくない。私が、金を使うのは、人とのコネクションを作る為の交際費と、妻と過ごす時間の為の娯楽費だけだ。」

「お金の使い方は人それぞれだと思うのですが、教授は最終的に稼いだ金を、どうしたいのですか?」

「まず、私にとって財産はステータスである事を理解してくれ。だから、極力減らしたくない。後は、私の会社に居る、全ての社員と、私の子供達の幸福の為に使いたい」

 教授はそう言って、コース料理のメインディッシュにナイフを通した。


 食事が終わって、数名の学生と共に、食事代を出してくれた教授に感謝を述べた。教授は、先行投資だよ、私の得意分野だ、と笑顔で応えた。




 次の週の授業で、学生達は、先週、教授から出された問題について、自分達の考察を述べて言った。教授は1つ1つ、聞きながら、正解とも不正解とも言わずに、感想を述べた。


 授業が終わる間際になって、教授は言った。






「それぞれのプレーヤーが最適な行動を取っても、全体として最適にはならない」


 教室が静まり返った。


「人は何か選択を前にした時、自分にとって最高だと思うものを選ぶ。最高だと言う事は、その選択肢が、他の選択肢と比べて何かが良い物ということだ。では、その『何か』とは、何だろう?私に取っては金だった。君達に取っては何か。それを自らが知る事から、私の授業を始めたいと思う。では、また来週」


 僕達は、教授の言葉に溜息しか出なかった。





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