【アルコール殺菌】❤︎
住宅街の
とにかく作業が多い。翌営業日の下準備はあらかた任せられる。搬入した商品の陳列、調理器具、床や棚の清掃、廃棄商品のチェック、商品の発注。これらに加えて、大変な事がもう一つ。
「おい!いつもの!」
ボロボロの作業着を着たオッサンが、入ってくるなりレジに来て、偉そうに大声で俺に言った。
「タバコですか?それともコーヒーですか?」
「マイルドセブン!」
心の中で溜息を
「こちらですね」
2013年に、『マイルドセブン』から『メビウス』に名称を変えた青いパッケージのタバコを差し出して、確認する。俺はタバコを吸わないので、『マイルドセブン』と言う銘柄が今は存在しない事を知らずに、初めてシフトに入った夜、中々見つけられず、このオッサンに怒鳴られた。
「早く出せよ」
オッサンは酒気を帯びた息を吐きながら、小銭を投げつけてきた。
『年齢確認が必要な商品です』
バーコードを読み取ると、レジは冷たい声で発言した。
「タッチ、お願いします」
「ああ?俺が未成年に見えるのか?」
「決まりですので。お願いします」
「ちっ……」
オッサンは怠そうに指をタッチパネルに置いた。
「ありがとうございましたー」
頭を下げて、小銭を受け取ると、俺はフライヤーの清掃に取り掛かった。
これが深夜バイトが大変だと言う最大の理由。客層の悪さ。住宅街の隅にあるので、深夜は客が少ないが、癖のある客が多い。法律で『原則22:00~翌5:00の間の時給は、基本給の25%増し』と言うのが無ければ、絶対に深夜バイトなんてやらない。
俺は売れない漫画家だ。連載も持っていないし、数回、読み切りが月刊誌に載っただけの三流漫画家。漫画だけでは食える筈もなく、生活の為に週5回、ここで働いている。正直、辛い。好きな漫画を書けないし、書いても書いても担当の編集者からは駄目出しを食らう毎日。地上に打ち上げられた魚の様に、息苦しくて毎日の閉塞感に心が折れそうだ。
「すいませーん」
商品を棚に陳列していると、いつの間にかレジに客が居た。呼ばれたので、急いで対応する。
明らかに高校生と言った女の子が、オドオドしながら数本のアルコール飲料を机の上に置いていた。
「年齢確認させて下さい。身分証はお持ちですか?」
店のオーナーは、とても厳しい人で、未成年には絶対に酒とタバコは売るな、と言うポリシーのある人だった。
「あの、今、持ってなくて」
「では売れません。申し訳ございません」
「どうしても?」
「どうしてもです」
女の子は泣きそうになりながら、
「お願いします」
「申し訳ございません」
俺は冷たく同じ言葉を放った。
女の子は肩を落として、ションボリとした表情をして店を出ていった。
十数分後、また女の子が店に来た。俺は何度来ても売らないぞ、と思いながら発注の手を止めてレジに向かった。
女の子は
女の子の顔には
「あの、これ、売って頂けませんか?近くにコンビニがなくて、ここしかないんです。早くしないといけなくて」
「事情があるんだね」
俺は接客モードを止めて、トーンを落として女の子に言った。
「はい」
「……分かった。今は他のお客さんが居ないから、俺の一存で売るよ。今回だけだぞ」
俺は度数の強いアルコール飲料にバーコードリーダーを当てた。年齢確認のボタンを押して、アルコール飲料をビニール袋に入れて、女の子に手渡す。
「っ!ありがとうございます!」
お辞儀をする女の子から目を背けて、俺は商品の陳列を始めた。
深く関わらない方が良い。そう判断した。何かあれば、家族か警察が動くだろう。俺は乱雑に置いてある菓子パンを綺麗に並べた。
朝になって、シフト交代の時間になった。更衣室で着替えを済ませて、引き継ぎをする。家に帰ったらシャワーを浴びて、少し寝よう。その後、書きかけの漫画を仕上げなければ。俺は廃棄になった弁当をリュックに入れて、帰路に着いた。
築20年のアパート。家賃は5万円弱。駅からは少し歩くが、部屋は1LDK。結構、気に入っている。ここを住居にして、3年が経っていた。
階段を上がって、ドアノブに鍵を差し込んだ時、右隣の部屋の扉が開いた。空室だった筈だが、誰か引越してきたのか。俺は挨拶でもしようと、扉から人が出てくるのを待った。
深夜、アルコール飲料を買いに来た女の子だった。アイロンを綺麗に掛けて、ピシッとした制服を着ている。やはり高校生だったのか。
「おはようございます」
俺が声を掛けると、女の子は少し驚いた表情を見せて、頭を下げて言った。
「おはようございます。昨夜はありがとうございました」
「まさか隣に引越してきたのが君だったとはね。もう深夜に来ちゃダメだぞ」
「……多分、また行きます」
苦しそうに女の子は言って、じゃあ、とお辞儀をして階段を降りて行った。
また来るのか……俺は眠い目を
夕方になって目を覚ました俺は、廃棄弁当を電子レンジに入れて、お茶を沸かした。ちなみに冷蔵庫はない。コンビニバイトのお陰で、冷蔵庫無しでも暮らしていける。廃棄商品が貰えると言うのも、俺があのコンビニで働く理由の一つだった。
電子レンジがチン、と鳴って、暖かくなった弁当を取り出して頬張った。不味い。本当は自炊して、野菜を多めに取って、健康的に暮らしたい。けれど、漫画を書く為には食費や家賃を削って、画材を買う必要があった。
作業机に向かって、ペンを握った。今回書いているのも読み切りの短編。中々、筆が乗らずに、俺は書きかけのページを見つめた。
これ、面白いのか?
自問自答。昔は自分が天才だと思ってたし、初投稿の作品が佳作を取って、浮かれていた。けれど、それからは鳴かず飛ばず。編集者からは、とある漫画家のアシスタントをしてみては?と打診されている。アシスタントか。それも良いのかも知れない。自分の作品を作るのは、少しの間、諦めるべきか。
気分を変えたくて、外の空気を吸いたくなった。少し肌寒い春先の公園へ行く事にした。水筒に沸かしたお茶を入れ、上からジャージを着て、徒歩1分の公園へ向かう。そろそろ桜が咲きそうだな、と思っている内に公園に着いた。
ベンチに座って、視線を足元に向けながら水筒のお茶を飲んだ。太陽は沈みかけていて、空は群青色に染まっていた。
女の子がブランコを漕いでいた。
「早く帰った方が良いよ」
俺は少し離れた位置に居た女の子に声を掛けた。そろそろ夕飯時だ。高校生とは言え、女の子なんだし、夜になると危ない。
「こんばんは」
女の子はブランコから降りて、俺の隣に座った。
「あの時、お酒を売ってくれてありがとうございました」
「うん……でも、本当はいけない事だからね」
「また売ってくれませんか?」
「ねえ、俺が思うに君は普通の女子高生だ。そんな君が酒を飲むとは思えない。理由を話してくれないか。事情によっては考えるよ」
あまり立ち入りたくなかったが、仕方ない。ここで断っても、彼女はまた頬に
「父がお酒を飲むんです」
「お父さんが?」
「はい」
女の子は、淡々と自分語りを始めた。
母は未亡人でした。シングルマザーだった母は、女手一つで私を育ててくれました。父とは母が働いていたスナックで出会った様です。私は
けれど、私が中学に上がった頃、脇見運転をしていた車が、私と母の元に突っ込んで来ました。母は私を
母を失った悲しみからでしょうね。そこから父は自暴自棄になり、仕事を辞めて、ずっとお酒を飲む生活を始めました。完全にアルコール依存症です。今は二人で生活保護を受けながら生活しています。
お酒が切れると、父は私を殴るんです。なんでお前が生き残ったんだ。あいつを返せ、あいつを返してくれ、と泣きながら私を
俺は女の子の話を聞いて、沈黙した。これは警察に言わなければいけないのではないか。
「最近ね、父を殺す事に決めました」
女の子は
「どういう事?」
「アルコール依存症の父は、最近飲まないと離脱症状を起こす様になりました。これからもお酒を与え続けます」
女の子は冷たく笑いながら、俺に言った。
「スーパーでも、酒屋でも、お酒を売ってくれません。あのコンビニしかないんです。お願いします」
女の子は目を閉じて、深々と頭を下げた。
「なあ、警察に行かないか?
「嫌です。どうしても父を殺したい。毎日の様に暴力を振るわれた痛みを忘れる事が出来ません」
女の子の声には強い意志が感じられた。
「俺は協力できない。何かあったら、漫画が書けなくなるじゃないか」
「店員さん、漫画家なんですか?」
「売れてないけどね」
俺は
「今度、店員さんの漫画、見せて下さいね」
女の子はベンチから立ち上がって、諦めた様に
その夜、
「諦めたんじゃないのか?」
「店員さんは優しいので、多分売ってくれます」
客が居なくなるのを待っていたのだろう。誰一人居ないフロアで、女の子は微笑みながら酒のコーナーへ向かった。
アルコール飲料を数本、机の上に置いて、女の子は言った。
「お願いします。もう殴られるのは嫌です」
俺は首を横に振る事が出来なくて、無言でバーコードリーダーをアルコール飲料に当てた。
「ありがとうございます。父を殺したら、必ずお礼はしますね」
女の子は、いつもの様に綺麗なお辞儀をして、店を出た。
その日、家に帰った後、眠れなくなった俺は作業机に向かった。スラスラとペンが動く。そう、俺は女の子を主人公にして、漫画を書き始めたのだ。その日の夜も、その次の夜も、女の子は店にやって来た。
数週間後、漫画を書き終えて、俺は編集者の元に漫画を持って行った。
「この話、とても良いですね」
編集者は目を輝かせながら、俺に言った。
「ここ数年、読んできた漫画で一番面白いです。早速、編集会議に掛けます。よろしいですか?」
「よろしくお願いします」
俺は確かな手応えを感じて、出版社を後にした。
その日の夜も、女の子はやって来た。
「ねえ、気になってたんだけど、お酒を買うお金はどうしてるの?生活保護じゃ、そんな余裕はないだろう?」
俺の問い掛けに女の子は平然と答えた。
「アダルトコンテンツに写真を売ってます。顔出しはしてませんけど」
「そこまでしてお父さんを殺したいの?」
「はい」
女の子はアルコール飲料を入れたビニール袋を持って、声のトーンを落とした。
「多分、もうすぐです。もうすぐ殺せます」
女の子の声には微量の毒が含まれていた。
それから数日が経った日の朝、救急車のサイレンの音で目が覚めた。ドタドタと、足音が俺の部屋の前を横切った。暫くして、インターホンが鳴る。
扉を開けると、女の子が立っていた。
「父が危篤です。今から病院に行きます」
「そうか」
「またお店に行きますね」
女の子は救急車の元へ小走りで向かった。
女の子の
「やりましたよ!この間、持ってきて下さった作品、連載決定です!」
編集者は興奮して、口早に言った。
俺は喜んでいいのか分からなくなったが、ありがとうございます、と編集者にお礼を言った。
「題名、
「いえ、変えます。『アルコール殺菌』に変えて下さい」
「なるほど。父親は雑菌と言う事ですか」
編集者は多分、電話越しに
「3日後、会社に来てください。連載のお話をしましょう」
「分かりました」
今日も女の子は店に来るだろうか。俺は冷めきった弁当を電子レンジに入れた。
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