【新月は何も見えない】✩


 私は石ころだ。このビルを闊歩かっぽするサラリーマンにとって、私は石ころだ。誰も気にとめない、路傍ろぼうの石。冷たく無視している訳でも、差別意識を持って接してきてる訳でもない。彼らにとって、私は透明人間のような存在なのだ。私は清掃員。今日もこのビルを磨きあげる。


 定年退職後、年金生活では心許こころもとない私は、ビルの清掃員の職に就いた。妻に先立たれ、孤独な老人と化した私が求めていたのは、金よりも人との交流だったのかも知れない。ところがこの仕事に就いて驚いたのは、誰とも話さず一日が過ぎていく事だった。今更、他の仕事を探すのも面倒で、私は渋々続ける事にした。


 元々無口な性格に、拍車がかかった。初めはビルで出会うサラリーマンに、おはようございますと挨拶をしていたのだが、誰も目を合わせようとせず返事もしない。無表情で遠ざかる彼らを見て、私は諦めた。たまに口にするのは、オフィス掃除の時にセキュリティの掛かったドアを開けて貰う懇願こんがんだった。


 オフィスが静まり返る日曜日でも、仕事はある。トイレ掃除は面倒だが、嫌いではなかった。白い便器は磨くと輝くので、自分で仕事をしているのがよく分かる。その日も私は、黙々と男子トイレの清掃をしていた。


 すると、すすり泣く声が個室から聞こえた。この階にオフィスを構える会社は休みのはずだが、人が居たのか。仕事か何かで辛い事でもあったのだろうか。トイレで泣くのは、誰にも聞かれたくないからだろう。私は聞こえない振りをして、掃除を続けた。


 突然、ガタン!という大きな音が個室から聞こえた。嫌な予感がして、私はトイレをノックした。返事はない。私はトイレのドアを蹴破って、無理矢理こじ開けた。


 上着などを吊るす、トイレの取手にタオルを掛けて、首を吊ろうとしたのだろう。さっきの音は、便器から飛び降りた音だったのか。自殺に失敗して、床に転げ落ちたのは、まだ幼さの残る顔の少年だった。


「君、大丈夫か!」

「大丈夫です」


 少年の意識はハッキリしていた。


「今すぐに救急車を呼ぶから、じっとしてるんだぞ」

 携帯を取り出した私を見て、少年は叫ぶように言った。

「やめてください!やめてください!」

 少年の悲痛な声を聞いて、私は携帯に置いた指を止めた。


「いや、そういう訳にはいかないだろう」

「お願いします、やめてください。この事がバレたら、またお母さんに心配をかけてしまう。アイツらにもイジメられる」


 少年の痛みを伴う願いを聞いて、私は携帯を仕舞った。少年は安堵して、ゆっくりと立ち上がった。


「ありがとうございます、おじいさん」


 落ち着いた少年に、ロビーの自販機で買った冷たい缶コーヒーを渡して、私は事情を聞いた。少年は、淡々と自分の置かれた状況を話し始めた。父親からの暴力、学校でのイジメ、少年の話は悲惨なものだった。自殺の場所を、父親が務める会社のビルにしたのは、ささやかな復讐だった。


「話を聞いてくれて、ありがとうございます。なんだか、亡くなった祖父に会いたくなりました」

「なあ。君が良かったらなんだが、またこうして話さないか。日曜日は暇なんだ。私の暇つぶしに付き合ってくれよ」

 そこにあったのは憐憫れんびんの情だったが、孤独を埋めたいという私の欲もあった。

「いいんですか?」


 それから、私と少年の奇妙な関係は始まった。


 毎週、日曜日の昼休憩の時間になると、少年がやってきた。誰も居ないビルのロビーで、缶コーヒーを片手に少年の話を聞くのが、私の楽しみになっていた。私は、透明人間ではなくなっていた。私と共通の趣味の映画の話をする時、少年は多弁たべんになった。私は今流行りの映画を教えて貰えたし、少年は往年の名作の話を聞いては、メモをして、配信アプリで映画を見るようだった。私はそういうのは分からないので、休みの日に映画館へと足を運んだ。


 次の週になると、お互いに感想を言い合って笑ったり、時には議論をしたりした。あのシーンはあの作品から影響を受けてるな、とか、あの主人公には感情移入できなかった、とか、他愛のない話だった。少年は少しずつ笑顔になっていった。それが嬉しくて、私は毎回少年に飲み物をおごった。初めは恐縮していた少年も、いつの間にか二杯目を強請ねだるようになった。


「友人が出来ました」


 少年と出会って、一年が経った頃だろうか。その嬉しい報告に自然と顔が緩んだ。聞けば、入学した高校で入った映画研究部で、とても話の合う同級生が居たようだった。自然と泣けてきて、それを見て少年も泣き出した。二人でがっちりと抱き合った。もう彼は孤独ではない。安堵と歓喜が入り混じって、私は少年に問いかけた。


「もう大丈夫だな」

「はい」


 文化祭が近くなったらしく、毎週来ていた少年はしばらく来れませんと言った。気にするな、と私は言ったが、それは強がりだった。日曜日になると、誰とも話さないことが苦痛でたまらなかった。一人で飲む缶コーヒーは、いつも以上に苦かった。


「文化祭に来てくれませんか」


 久しぶりに会った少年は、開口一番に私に言った。いいのかい?と聞くと、勿論ですよ、と少年は答えた。少年から貰った文化祭のチケットを、大切に財布の中に仕舞った。


 文化祭当日、私は少年に案内されて様々なもよおし物を見て回った。少年に紹介された友人は、女の子だった。これは甘酸っぱい匂いがするな、と私は思った。


「この後、自主制作の映画が始まるんです。おじいさん、見て行ってください」


 楽しみだ。私はワクワクしながら、映画研究部の部室に足を踏み入れた。映画が始まった。


 映画の題名は「新月は何も見えない」だった。それは、いじめられていた少年が、共通の趣味を持つ老人と出会い、成長していくというストーリーだった。お世辞にもよく出来ているとは言えないその映画を見て、私は感動した。こんな風に私に恩返しをするなよ。いつもおごっていた飲み物の料金以上のものを返されて、私は涙で前が見えなくなっていた。


 映画のラストシーンになった。暗い夜空を見上げながら、主人公が同じ境遇のヒロインに感情的に言った。


「新月は何も見えないけれど、光が当たっていないだけで、そこには月がある。今はまだ、光を浴びていないだけさ。いつか君に、太陽からの光が降り注ぐ事を祈っている。僕にとって、おじいさんが太陽だったように、君にとっての太陽が現れんことを」


 私はもう石ころではなくなっていた。



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