【新月は何も見えない】✩
私は石ころだ。このビルを
定年退職後、年金生活では
元々無口な性格に、拍車がかかった。初めはビルで出会うサラリーマンに、おはようございますと挨拶をしていたのだが、誰も目を合わせようとせず返事もしない。無表情で遠ざかる彼らを見て、私は諦めた。たまに口にするのは、オフィス掃除の時にセキュリティの掛かったドアを開けて貰う
オフィスが静まり返る日曜日でも、仕事はある。トイレ掃除は面倒だが、嫌いではなかった。白い便器は磨くと輝くので、自分で仕事をしているのがよく分かる。その日も私は、黙々と男子トイレの清掃をしていた。
すると、すすり泣く声が個室から聞こえた。この階にオフィスを構える会社は休みのはずだが、人が居たのか。仕事か何かで辛い事でもあったのだろうか。トイレで泣くのは、誰にも聞かれたくないからだろう。私は聞こえない振りをして、掃除を続けた。
突然、ガタン!という大きな音が個室から聞こえた。嫌な予感がして、私はトイレをノックした。返事はない。私はトイレのドアを蹴破って、無理矢理こじ開けた。
上着などを吊るす、トイレの取手にタオルを掛けて、首を吊ろうとしたのだろう。さっきの音は、便器から飛び降りた音だったのか。自殺に失敗して、床に転げ落ちたのは、まだ幼さの残る顔の少年だった。
「君、大丈夫か!」
「大丈夫です」
少年の意識はハッキリしていた。
「今すぐに救急車を呼ぶから、じっとしてるんだぞ」
携帯を取り出した私を見て、少年は叫ぶように言った。
「やめてください!やめてください!」
少年の悲痛な声を聞いて、私は携帯に置いた指を止めた。
「いや、そういう訳にはいかないだろう」
「お願いします、やめてください。この事がバレたら、またお母さんに心配をかけてしまう。アイツらにもイジメられる」
少年の痛みを伴う願いを聞いて、私は携帯を仕舞った。少年は安堵して、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとうございます、おじいさん」
落ち着いた少年に、ロビーの自販機で買った冷たい缶コーヒーを渡して、私は事情を聞いた。少年は、淡々と自分の置かれた状況を話し始めた。父親からの暴力、学校でのイジメ、少年の話は悲惨なものだった。自殺の場所を、父親が務める会社のビルにしたのは、ささやかな復讐だった。
「話を聞いてくれて、ありがとうございます。なんだか、亡くなった祖父に会いたくなりました」
「なあ。君が良かったらなんだが、またこうして話さないか。日曜日は暇なんだ。私の暇つぶしに付き合ってくれよ」
そこにあったのは
「いいんですか?」
それから、私と少年の奇妙な関係は始まった。
毎週、日曜日の昼休憩の時間になると、少年がやってきた。誰も居ないビルのロビーで、缶コーヒーを片手に少年の話を聞くのが、私の楽しみになっていた。私は、透明人間ではなくなっていた。私と共通の趣味の映画の話をする時、少年は
次の週になると、お互いに感想を言い合って笑ったり、時には議論をしたりした。あのシーンはあの作品から影響を受けてるな、とか、あの主人公には感情移入できなかった、とか、他愛のない話だった。少年は少しずつ笑顔になっていった。それが嬉しくて、私は毎回少年に飲み物を
「友人が出来ました」
少年と出会って、一年が経った頃だろうか。その嬉しい報告に自然と顔が緩んだ。聞けば、入学した高校で入った映画研究部で、とても話の合う同級生が居たようだった。自然と泣けてきて、それを見て少年も泣き出した。二人でがっちりと抱き合った。もう彼は孤独ではない。安堵と歓喜が入り混じって、私は少年に問いかけた。
「もう大丈夫だな」
「はい」
文化祭が近くなったらしく、毎週来ていた少年は
「文化祭に来てくれませんか」
久しぶりに会った少年は、開口一番に私に言った。いいのかい?と聞くと、勿論ですよ、と少年は答えた。少年から貰った文化祭のチケットを、大切に財布の中に仕舞った。
文化祭当日、私は少年に案内されて様々な
「この後、自主制作の映画が始まるんです。おじいさん、見て行ってください」
楽しみだ。私はワクワクしながら、映画研究部の部室に足を踏み入れた。映画が始まった。
映画の題名は「新月は何も見えない」だった。それは、
映画のラストシーンになった。暗い夜空を見上げながら、主人公が同じ境遇のヒロインに感情的に言った。
「新月は何も見えないけれど、光が当たっていないだけで、そこには月がある。今はまだ、光を浴びていないだけさ。いつか君に、太陽からの光が降り注ぐ事を祈っている。僕にとって、おじいさんが太陽だったように、君にとっての太陽が現れんことを」
私はもう石ころではなくなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます