【音痴なマーメイド】
音程を外すな、リズムを守れ、そこはアレーグロ!そこはドルチェ!ブレスの位置を意識しろ!右手を指揮棒の様に振りながら、今日もレッスンスタート。マーメイドは、今日も上手く歌えない。
ピアノに生涯を捧げてきた。恵まれた才能以上に努力を重ねた。ピアノは私の全てだった。鍵盤に触れている時だけ、私は生を感じる事が出来た。人生は音符で飾られていて、私は「魔術師」と言われる程、有名なピアニストになった。
ある日、事故に遭った。
その事故で左手を失った私は、生きる意味を失ってしまった。もうピアノが弾けない。その事が、絶望で私の胸をいっぱいにした。夜明け前、崖に立って海を見つめる。まだ黒く染まっている海は、私を引き
ようやく決意が固まって、一歩前に足を踏み出した。このまま生きていても、意味がない。頭の中の天秤は、死に傾いた。崖の縁まで、ゆっくりと歩を進める。大きく深呼吸をして、足をぐっと踏ん張り、飛んだ。これで楽になれる。私の意識はそこで途絶えた。
酷く耳障りな音がして、私は目覚めた。
生きているのか?私は憂鬱な気持ちを振り払い、無理矢理に
さっき聞いた、耳障りな音が聞こえる。よく聞けば、人の声だ。歌っている。洞窟の入口の方からだ。私は、声の聞こえる方に向かって歩いた。
「目覚めたんですね」
私を見て話しかけてきたのは、人ではなかった。岩の上に座って微笑む美女の下半身には、
「私を助けたのは君か?」
「そうです。たまたま貴方が飛び込んだ場所で食事をしてたんですよ。いきなり上から降ってきて、
「余計な事をしてくれたな」
「私だって、食事の邪魔をされて、いい迷惑です」
人魚は口を膨らませて言った。
「焚き火をしてくれたのか?」
「私は少しだけなら地上を歩けますし、火が怖くないんですよ。珍しいでしょ?」
人魚は片目を閉じて、魅惑的に微笑んだ。
「ありがとう。もう少し当たらせて貰うよ」
私は洞窟の奥の焚き火に足を向けた。すると、人魚が歌い始めた。それを聞いて私は叫んだ。
「おい!!なんだその酷い歌声は!!」
人魚の、音程という概念すら吹き飛ぶような歌声に、私は耳を塞いだ。これは、馬が唐辛子を食べて、叫ぶ鳴き声だ。決して人魚の歌声ではない。
「人魚だからって、歌が上手いとは限らないじゃないですか」
人魚はさっきと同じ様に口を膨らませて言った。
「そういう問題じゃない!お前の歌っているのは音楽じゃなくて雑音だ!」
「ひどーい。じゃあ、貴方は、歌が、さぞかし、お上手なんでしょうね?歌ってみてくださいよ」
いいだろう!と
「貴方なら船を沈ませる事が出来そうです」
人魚は、その美しい歌声で船乗りを惑わし、船を沈める事が出来ると言われていた。褒め言葉のつもりなんだろうが、冗談にしては笑えない。私は左手の義手を引っこ抜いて、人魚に見せた。
「本当はピアニストなんだ。もう弾く事が出来ない。悲しいけど、歌は
「そんなに、お上手なのに?」
「歌はピアノの代わりにならない。ピアノが弾けない人生なんて、歌えない人魚と同じだよ」
私は落ち込んで、視線を足元に向けた。
「ねえ、もし良かったらなんだけど、私に歌を教えてくれないかしら」
「歌を?」
「命の恩人に、それくらいしてくれてもいいんじゃないでしょうか?」
うーん、と少しばかり悩んで、私は答えた。
「君の歌声が、それなりになるまでだぞ」
「ありがとう!これでお姉様達にバカにされなくなるわ」
人魚は嬉しそうに両手を頬に当てた。
次の日から、洞窟でレッスンがスタートした。私はピアニカを持ち込んで、まずは音程の確認から始めた。ピアニカなら片手で弾ける。人魚は、ピアニカの音に合わせて声を出した。
「低い!あ、高くなった!音を正確に聞け!」
人魚へのレッスンは骨が折れたが、意外に楽しかった。あれだけ苦痛だった音楽が、私を救ってくれる気がした。数ヶ月もの間、人魚は毎日のレッスンが楽しそうで、メキメキと上達した。
その日はピアニカを置いて、アカペラで歌を教えてみた。まだ動く右手の人差し指を指揮棒にして、人魚の歌声をコントロールした。
「うん。中々良くなってきたよ」
「本当に?嬉しい。今夜、人魚の集まりがあるの。いつもはバカにされるけど、今夜はなんだか楽しみになってきたわ」
「今の君なら歌えるよ。雑音じゃなくなってる」
「そうね、見返してやるわ」
人魚はいつもの様に、片目を閉じて微笑んだ。
「一週間くらい居なくなるけど、大丈夫?」
「その間、友人のやってる酒場で暇を潰すよ」
「あまり飲みすぎない事ね」
人魚は言い捨てて、海へと飛び込んで行った。
人魚に言った通り暇になった私は、友人の酒場へ行った。
「よお、久しぶりだな。元気にしてたのか?」
友人は、わざと明るく声を掛けてきた。私が左手を失って自暴自棄になっているのを、何処かで耳にしてたのだろう。そんな友人の気遣いが嬉しかった。
「最近は外に出て、楽しくやってる。今日は楽しませて貰うよ」
ピアニカを机の上に置いて、私は強い酒を頼んだ。
「おい、お前、音楽を辞めてなかったのか」
「ん?ああ、これはお遊びだよ」
「頼みがあるんだ!」
友人が頭を下げて私に
「今夜、一曲だけでいいから演奏して貰えないだろうか?」
聞けば今夜、酒場を盛り上げる為に雇った吟遊詩人が風邪を引き、演奏会が中止になるかも知れない、との事だった。
「いや、ピアニカだぞ?私はピアノで魔術師とまで言われた男だが、客を満足させる音楽は、もう出来ないと思う」
「それでも構わない。お前の音楽が聞きたいんだ」
それなら、まあ、と友人の押しに負けて、私は渋々了承した。
夜になった。私は演奏しなければならなかったので、酒が飲めなくて不満だったが、友人は嬉しそうだった。少し緊張してきて、私は水を口にした。
時間になった。私は酒場の中央にある椅子に座って、ピアニカを左手の義手で固定した。演奏スタート。目を閉じて、以前、人魚に聞かせた流行歌を演奏した。急に周りの騒音が止んだ。
演奏を終えた。目を開けて飛び込んできたのは、観客の笑顔。そして、いきなりの拍手喝采に私は驚いた。ピアノの演奏会でも、こんなに拍手を貰った事はない。嬉しくて、私は何度もお辞儀をした。アンコールを求められて、私はその夜、何曲もピアニカを弾いた。
「すまねえ。これぐらいしか出せないんだが」
友人が数枚の銀貨を私に持ってきた。
「いやいや、金の為に演奏したんじゃない」
友人は少し怒った様に言った。
「お前はプロだろ?プロには対価が必要なんだよ。受け取れ。そんでもって、また演奏を聞かせてくれ」
私は差し出された銀貨をポケットに仕舞った。
一週間後、久しぶりに洞窟に行った。人魚が既に来ていて、私は嬉しくなって人魚に言った。
「音楽は私を見捨てなかったよ」
ここ数日の話を聞かせた。人魚は嬉しそうに、うんうんと相槌を打った。
「君の方はどうだった?」
うふふ、と人魚は笑いながら言った。
「お姉様達が吃驚して、魔女に薬でも作って貰ったの?って聞かれたわ」
私は
「君のお陰で、死ぬ理由が無くなった。あの時、私の命を救ってくれてありがとう」
「いいのよ、それよりまたレッスンをしてくれる?」
「勿論だ!さあレッスンを始めよう。君が世界一の人魚の歌い手になるまで、止めないぞ」
「ねえ、それなんだけど」
人魚はまた片目を閉じて微笑んだ。
「一生、貴方の生徒でいたいんだけど」
突然の人魚からのプロポーズに、私は恥ずかしくなって、ピアニカの音を外した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます