砂の村
hake
砂の村
この砂は、何処から来て何処へ行くのだろうか。
焼けた咽喉を片手で撫でて、男は考えた。
だがそれは、思考と呼べる物では無く、意識を保つための単なる手段でしかなかった。
* * * * * * * * * * * * * * *
その男は、人を殺して追われていた。
明確な“誰か”では無く。
金を持っている人間を殺して追われていた。
そして、追われている事が、男には理解できなかった。
何故、追われなくてはならないのだろう?
そこにあったから、奪っただけなのに。
命を失ったそれは、ただの肉の塊だというのに。
……殺したからだろうか? それとも、金を奪ったから?
何が悪いのだろう。間違った事など、何もしていないはずだ。
今、視界一面に広がる、この砂を掬って咎める者が居るだろうか?
力の無いものが、金を持って無防備に歩いていた。だから奪った。ただ、それだけなのに……それで、何故追われなくてはならないのだろう。
水が尽き、陽が傾き始めた。
手荷物と言えば、使いなれたナイフと干し肉、そして意味の無くなった、干からびた革の水筒。
躊躇いも無く、男はそれを放り捨てた。
「駄目」
確かな声がした。
男は耳を疑った。その声は、幼い少女の声だったからだ。
「道に物を捨てちゃ、駄目」
幻聴では、有り得なかった。そして、振り向いた先に、声の主が忽然と立っていた。
微笑んで、こちらを見ていている。
「……水を、よこせ……」
男の声は、掠れていた。咽喉が、ざらざらする。
対する少女は、小首を傾げて黙っている。……聞こえなかったのだろうか。
それなら……、簡単だ。殺して奪えばいい。
男は右のズボンのポケットに入っているナイフを、少女に悟られない様にゆっくりと引き抜く。
水はあるはずだ。子供が持っていないのなら、親が持っているだろう。
人質などという、面倒くさい事などしなくていい。全員殺してしまえばいいのだから。
いや、この際、血でも良い。
この子供の分だけでも、しばらくは凌げるはずだ。水筒を拾って使えば良い。
そう思い当たって、ナイフを前に構えた時。
「あげる」
「何?」
唐突に少女が言ったので、男は間抜けな声で聞き返してしまった。しかし、少女は気にした風でもなく、
「水」
一言。
確かに男は水が欲しかった。
しかし、何故この少女は恐れないのだろうか。男の右手に握られた物が、分からないのだろうか。
ナイフを構えたまま、しかし確かに気勢は削がれて、男は少女に歩み寄った。目の前に立っても、彼女は笑っていた。
「あたしのうち、こっちなの」
左手を、少女が握った。確かな感触があった。それに導かれるまま、半ば呆然と男は歩き始めた。
奇妙な感動が、男の中に沸き起こった。
“生きている人間”に触れたのは、何年ぶりだろうか。
柔らかくて、熱を持っていた。
* * * * * * * * * * * * * * *
「ほら見て。可愛いうちでしょう?」
ぼんやりとした思考を遮ったのは、少女の声と、目の前の風景だった。
――何も、無い。
「俺をからかっているのか!?」
激昂する男に対し、少女は不思議そうに目を見張る。
「どうして?」
「何も無いじゃないか!!」
「そんな事、無い」
男は、ナイフを握る指力を込めて、詰る様に唸った。
「砂しか無い!!」
「うん」
我慢の限界が来て、男は少女の手を払い除け、その咽喉へとナイフを走らせた……が、寸前に踏み止まった。そうさせたのは、彼女だった。
笑顔で男を見つめている双眸が、男の右手を凍らせた。
何故笑っているのか、男には理解が出来なかった。
「ここにあるの。あたしのうち」
穏やかな、薄い水色の少女の瞳――いや、そうでは無かった。その瞳孔は、白く濁っているのだ。
「見えていないのか」
確認のつもりで言ったそれを、だが少女は否定した。「見えてる。」と。
「嘘をつくな」
「嘘じゃない。あたし、見えてる。あたしのうち。あれがお父さん。お母さんはね、今台所にいるの」
「あ……ッ」
声が、咽喉に痞えた。少女が指したものは……、
「あれは、砂だ」
「うん」
「砂だぞ!?」
「どうして怒っているの?」
「何を言っているんだ!?」
語気を荒く言ったつもりだったが、その声は意思に反した弱弱しいものだった。
「疲れているの?」
「…………」
「もうすぐ夜になるから、ゆっくり休んで行ってね」
抗う事が、出来なかった。
事実、身体は疲れきっていたし、何よりこの得体の知れない少女に……人を何人も殺した男は、恐怖していた。
* * * * * * * * * * * * * * *
彼女が持ってきたのは赤錆びたコップが1つ。底には穴が空いていた。
「水、今持ってくるね」
とうとう、立つ事すら出来なくなった男は、砂の上に横たわっていた。
しばらくして戻って来た少女の手には、刺の生えた植物と、尖った小さな石が握られていた。そうしてコップの穴に布を宛がうと、男の口の上にかざし、持っているよう言った。
促されるままにそうすると、少女は器用に持って来た石で植物を磨り潰し、その汁をコップに絞った。
「……ムッ!」
予想以上に強烈な苦味だったため、思いがけず声が出た。
「ふふッ」
おかしそうに少女が笑う。
「あたしでも平気で飲めるのに。おじさん、大人なんでしょう?」
「……おじさんじゃ無い」
癪に障って言い返すと、少女は素直に言い直した。
「お兄ちゃん?」
「……そうしておけ」
「ふふふッ」
「笑うのを、やめろ」
「うん。……ふふッ」
「…………」
草の汁は、咽喉を潤すには程遠い量だった。しかし、彼には何とも言いがたい充足感があった。
乾ききった物を、何かが満たしていた。
その証拠に、男の右手には、もう何も握られていなかった。
* * * * * * * * * * * * * * *
不意に、大きな風が吹いた。宙へ巻き上げられた砂が、彼らにも吹き付ける。同時に、目に激痛が走り涙が滲んだ。流れ出た雫を服の袖で拭うが、視界がはっきりするのには時間がかかった。
――そうか。
男は、卒然と理解した。
この幼い少女は、目に入りこんだ砂を疎んで、手で擦ったのだろう。何度も何度も、繰り返し。……そして、光を失った。
早く砂漠を抜けないと、男の目もいずれ同じ運命をたどる事になるだろう。それは困る。
「そろそろ帰らせてもらう」
「夜になるよ」
「構わない」
「すごく寒くなるよ。服も凍っちゃうの」
温度差が激しいと知ってはいたが、そこまでとは思わなかった。だから、上着はとうに脱ぎ捨てていた。このままでは、凍死は免れない。
おもむろに、少女は穴を掘り、そこから砂まみれの緑の毛布を引きずり出した。
「くっついて寝よう。そしたら寒くないから」
「……親がいるんだろう?」
「大丈夫。砂だから」
「お前……」
二の句が継げず、結局、また少女に従う形になってしまった。
* * * * * * * * * * * * * * *
ゆるやかに時間が流れていた。
大気は冷気を帯びて、全身を針の様に刺していた。
男は、小さな少女の身体を抱える様にして毛布に包まった。
少女が眠れない様なので、男は気になっていた疑問を口にした。
「何故、砂がお前の両親なんだ」
「違う」
背を向けたまま、少女は小さく頭を振った。
「砂に、なったの」
「……お前の言っている事は、意味が分からん」
「あのね、死んじゃったの。そしたら、どんどん柔らかくなってね、砂になったの」
「…………」
「あたしも、死んだら砂になるの」
「…………」
「そしてね、皆とずぅっと一緒にいるの」
「皆……?」
「うん。千恵ちゃんに、徹君。紫苑君に麻奈ちゃん。お父さんと、お母さんもね、皆よ」
「そうだったのか」
――ここには、村があったのだろう。
それを、この無機質な砂の粒がゆっくりと……家を、木を、そして人を。全てを蝕んで埋めてしまったのだ。
愕然としていた男の耳に、激しい咳が飛びこんできた。腕の中の少女が、全身を震わせている。
小さな細い咽喉が、裂けてしまうのではないかと思えるほど、息が出来ないのではないかと思えるほど。少女が激しく咳き込んだため、男は身じろぎをした。
「おい……ッ」
思わず、男が声をかけた時。
少女は口から何かを吐き出した。
――血と胃液の混じった、砂だった。
* * * * * * * * * * * * * * *
殆ど眠る事が出来ずに、朝を迎えた。
まどろみから引き戻された男は、朦朧とする意識を落ち着けようと、何度か頭を振った。
どさり。
男の両腕から、重たい何かが落ちた。
空になった腕の中を、じっと見つめて、男は理解した。
ここには、自分しか居ない事を。
自分と、砂。
目の前に横たわる、少女の瞳はガラス玉の様で、昇り始めた陽の光を集めて煌いていた。
それから。
その小さな目に、鼻に、口に、耳に。
風に舞った砂の粒が、音も無く吸い込まれて行く。
「ああ、そうか」
何かの儀式を見守る様に。そして静かに。
「砂になるのか。」
男は呟いた。
それは生き物の様に、波打ち、泡立ちながら。
――少女は、砂に溶けた。
残された男は。
砂の上に、じっと立っていた。
いや。そうではない。
ここは少女の家。
あれは少女の父。少女の母。
地平線の向こうから、風に乗って来るのは、男の殺した人間達。
男は、両手で砂を掬った。
これは少女。砂になった少女。
「水が、欲しいんだ」
しかし、指の隙間から彼女は逃げてしまう。風が、彼女を遠くへ運んでしまう。
今、ここにあるのに。確かに触れる事が出来るのに。
どうしたらいい……?
どうしたら、この手で彼女を捕らえられる?
ああ、そうだ。
男は、皮の水筒に砂を詰めた。彼女を詰めた。
これで良い。彼女はずっとこのまま。
……だが、彼女はもう笑わない。
永遠に、男に答える事は無い。
どんなに求めても、あの暖かい手は、還らない。
景色が霞んだ。
「俺も、一緒に……。」
男の手の力が抜けて、水筒が落ちた。
砂が、こぼれた。
その上へ、半ば故意的に、男は倒れこんだ。
「お前の村へ、連れていってくれ・……」
囁くような声が、咽喉から漏れた。
「俺も、砂に…………」
急速に狭まる視界に、何かが映った。
……人影だった。
少女が迎えに来てくれたのだろうか……。
「連れて、行って、くれ……」
落ちて行く意識の中、男の手を誰かが、確かに握った。
* * * * * * * * * * * * * * *
重たい瞼を開いて、映ったものを理解するのに苦労した。
白い天井。点滴の袋。覗きこむ白衣の中年の男。
病院だ。
脳天を木刀で殴られたような衝撃が、男を貫いた。
「悪運の強い男だぜ。全く」
呆然とする男に掛けられた、最初の言葉だった。声のほうを向くと、男が数人立っていた。誰もが、憎悪と侮蔑をあからさまに張りつけていた。
「あのまま、殺してやりたかったぜ? ええ?」
黄色い脂の染みついた歯を剥き出して、農夫らしい男が吐き捨てる。
……男が、3番目に殺した女の亭主が、こんな顔だった。
ぼんやりと、男は思った。
この農夫も、妻と一緒にいたかったのだろうか、と。
だから、怒り、自分を追いかけてきたのだろうか、と。
妻を殺した、自分を。
不意に、胸が苦しくなった。
自分の奪ったものが、全身に重くのしかかる。
身じろぎも出来ない男を見て、農夫達は嘲笑して部屋を出て行った。
白衣の中年が、嘲りと、少しの哀れみを込めた声で言った。
「退院したら、死刑だとよ。……治療し甲斐の無い奴だ」
* * * * * * * * * * * * * * *
人気の無い病室で、男は静かに時を待っていた。
ここで死んでも、砂になれるだろうか。
そうしたら、風が少女の家まで運んでくれるだろうか。
もし、なれなかったら……?
ならば、なれるまで待とう。
――許されるまで。
穏やかな気持ちで、男は目を閉じた。
そして、ふと右のズボンのポケットの異物に気付く。
そっと手を差し込むと、暖かい物に触れた。
それは、少女の欠片だった。
砂の村 hake @hake2020
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます