第二章 ⑧
「今度はどなたでしょうか? 私、まだ散歩の途中なのですが」
階段の主が律義に踊り場まで上がる。リジェッタは視線を少しだけ上に移動させた。現れたのは、つまらない黒髪の女性だった。とりあえず、美人だった。
高そうな赤い外套に身を包み、見えやすいように配慮したのか襟章が堂々とした位置で外気に晒されていた。
すなわち、鎖を噛み砕く狼の顎が。
「あなたはどなたでしょうか?」
もう一度リジェッタが聞くと、つまらない黒髪の女がやれやれとばかりに肩をすくめた。どこからか、パキパキと音が鳴る。
「我の顔を見忘れたか?」
「もとより、存じませんので」
リジェッタが首を傾げると、黒髪の女が片手で額を押さえた。こちらに言い聞かせるように、ゆっくりと口を動かす。
「イーストエリアの王、フェンリル騎士団が騎士団長・ジャックス・ウィンディールドである」
「まあ」
リジェッタがまばたきすると、黒女がくつくつと喉を鳴らすように笑った。右手を外套の内側へと伸ばし、小型の回転式拳銃を引き抜く。
「《偽竜》。長い付き合いだが、汝はもう我の組織にはいらない。このイーストエリアから立ち去るというのなら、命だけは見逃してやろう。それとも」
黒女が歩を進めた。おもむろに、銃口をリジェッタの乳房へと押し当てる。ドレス越しに、銃身が乳房の内側へと埋まった。
「こいつは小口径であるが、そのでかい脂肪の塊を貫く程度の威力は持っている。この位置からなら心臓に当たる。こんな場所で永遠の眠りにつきたいわけではないだろう?」
「その前に、一つお聞きしたいことがあるのですが」
そこかしこで、パキパキと音が続く。段々と音は大きさと増大、範囲を拡大していった。
「あなたはどなたでしょうか?」
黒女が、表情に苛立ちを含ませた。
「ジャックスだと言っているだろう。その目は硝子玉か?」
「あなたはジャックスではございません」
リジェッタが一蹴する。
黒女が声を失った。
「あの子はここまで愚かではありません。私に頼み事があるのなら、ちゃんと場を用意します。少なくとも、このような不作法などおこないませんわ」
「だ、だったらどうした。この拳銃が見えねえのか!? 動きが封じられた手前になにが出来る?」
ナイフかなにかのように乳房へとグイグイ銃身を押し込む黒女に対し、リジェッタはあくまで冷静だった。
「対物破壊小銃でも徹しきれぬ私の身体に、そのような玩具が通用すると本気で想っているのですか?」
黒女の唇が『あっ』と声をもらした。
「最初にそちらの優位を見せつけ、交渉に入る。なかなか悪くない方法です。しかし、良くもありません。カレンを見習いなさい。ちゃんと、素敵な喫茶店を紹介してくれますのよ?」
乾いた音が次々と連鎖した。リジェッタの足元、放射状に床へ亀裂が走っていた。
まるで、蜘蛛の巣のように。
まるで、そこにとても強い力が加わっているかのように。
突如、建物全体が大きく揺れた。黒女がその場で足踏みするようにバランスを崩す。
「な、なんだいったい!?」
「この程度で驚くものではありませんわ」
魔物の蜘蛛糸から生成された白帯が軋んだ。音を立てて千切れていく。髪の毛一本にも満たない細さの繊維が纏めて断裂するたびに、建物が揺れた。とうとう黒女が立っていられずに膝をついてしまう。
「どこのどなたか知りませんが、特別に私の領域を教えて差し上げましょう。どうして私が《偽竜》と呼ばれているのか、はっきりと覚えてもらいますわ」
そうして、世界は悲鳴を上げながら崩壊していく。
「さあ、とくとご覧あれ」
それは、竜の咆哮のように聞こえた。
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