第三章 ①


 黒女は一歩後退るも、己が恐れを吹き飛ばすかのように笑った。

「ふ、ふははっははははっははは! その束縛から逃れられるものか。蜘蛛女帝の糸はその程度では」

 悲鳴が踊り場に反響した。

「はっ?」

 黒女が瞠目する。

「絹が裂けるような乙女の悲鳴と言いますが、この場合は乙女の悲鳴のような絹の裂ける音とでも言うべきでしょうか」

 リジェッタの右手が内側から突き出た。白帯を掴み、そのまま引き千切る。

束縛を否定し、拘束を破壊し、固定を拒絶していく。

外套でも脱ぐような気楽さで白帯を剥がし終えた。自由になったリジェッタを前にして、黒女の視線が一点に釘付けされる。

「な、なんだ、お前」

「私の名はリジェッタでございます」

「なんだ、その、なんだ、その、その、その〝腕〟は!?」

 リジェッタの右腕が人間の枠から完全に逸脱した。

 盛り上がった筋肉は強化繊維の服を突き破り、樹木の根が何本も束ねられたかのように隆起している。元の三倍以上の長さまで育ち、肌色ではなく硬質な真紅で覆われていた。蛇や蜥蜴などの爬虫類とはまるで異なる。それは、鋼鉄と同等の硬度を誇る鱗だった。五指を飾るのは肉厚で長大な爪、職人が鍛え上げた刃がごとき鋭さだ。

爪の先端に、白帯がわずかに引っかかっている。いくら伸縮性、引張荷重に秀でているのだとしても、切れやすさは別問題だ。どんなに引っ張っても破けない絹帯も、鋏で少し切めを入れれば容易に裂ける。

「これは、竜の腕です。より正確に言えば、竜の腕となるように魔造手術した腕ですわ。ほら、分かりますか?」

 顔を蒼白に染めた黒女へと、リジェッタが穏やかに優しく、ゆっくりと説明を続ける。

「筋繊維は巨人種でも神の末裔とされる亜神巨兵トロールを。骨は戦士として生まれた龍牙骨人スパルトイを。神経は空の大精霊である風帝妖魔シルフを。爪は極東の島国から取り寄せた鬼を。それで、鱗が一番迷ったのです。まさか、蜥蜴亜人リザードマンの貧弱な鱗を使うわけにはいきませんし」

 リジェッタが語る間、黒女は息をのむばかりだ。とうとう咳き込んでしまう。それでもなお、視線は動かない。

「手を引きなさい。名も知らぬ誰かさん。ここは、あなたのような〝世間知らず〟が訪れて許されるような場所ではございません」

 すると、あれだけ恐怖していた黒女から表情が抜け落ちた。乾いたスポンジに水が染み込むように、段々と別の感情が顔に浮かび上がる。焦燥か、増悪か。顔の筋肉が歪んでいく。

「退けるものか。ここまでして、なにもかもなかったことに出来るわけねえだろう。ここでお前を殺せば全部、片が付くんだ。殺してやる。殺してやるぅううううううううううううううううううううううううううううううううううう!!」

 黒女が老婆のごとく背筋を丸めた。すると、背中から何かが突き出る。それは黒い甲殻に覆われた節足だった。元の手足とは別に化け物の脚が六本、生えそろう。胴体が樽のように膨れ、短く硬い黒毛で覆われていく。

 大きく開いた口が裂け、内側に牙が伸びた。

 目が飛び出し、赤く染まっていく。

「……蜘蛛女帝の糸を生成する器官ではなく、全てを移殖していましたか」

 だが、これは、

「言ッタダロウ。退ケナイト」

 背中から伸びる節足が床を押し、胴体が宙に浮かぶ。

 見下ろされ、リジェッタは目を細めた。

 蜘蛛女が、両顎から伸びる牙を広げて叫ぶ。

「元カラコンナ作戦ナド面倒ダト想ッテイタンダ。俺ヲ殺セルモノナラ殺シテミロ。ソノ身ヲ喰ラッテ糧ニシテヤル!!」

 リジェッタを狙い、節足が打ち下ろされた。

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