第15話

「ごふっ」


 口から吹き出た鮮血が床を斑に彩る。

 慌てて口を抑えたが、血は後から後から込み上げ、床は瞬く間に血の海と化した。


 明らかな致死量。明確な死の気配に思わず膝をつく。痛みはとうに麻痺し、自身の吐血に溺れるかと思うほどの息苦しさ。あまりの苦痛に現実感すら遠のく。


 視界が歪む。

 もはや俺の眼は、何かを映しているようで、その実何も見ていない。ただ刻一刻と迫り来る死を待っている。

 ああ、もう何も感じない。


 世界が閉ざされ、静かな闇が俺を包む。

 ああ、ああ、ようやく、救われ






 目を覚ますと、そこはシャグマの研究室だった。

 相変わらず散らかった部屋。俺は起き上がると、用意しておいた服を着て、実験室の扉を開ける。


「おいシャグマ。終わったぞ……ってもう解剖してるのか」

「こういうのは鮮度が命なんですよぉ。被検体さんもレポートに症状をまとめといてくださいねぇ」

「おう」


 尋常ではない血溜まりの中で死体を解剖するシャグマの姿は、どこからどう見てもマッドサイエンティストだ。しかもその死体が俺の死体というのがまた、精神衛生上悪い。


「ああ、やっぱり内臓がドロドロに溶けてますねぇ。うわぁすごぉい。まるで肉のスー」


 あまり聞いていると食事が喉を通らなくなりそうなのでとっとと研究室に避難する。よくシャグマはあんなのを見て正気を保てるな。


 俺は適当な紙に今回の中毒症状検査の結果を記し終わると、手持ち無沙汰になって長椅子に寝転がった。


 今回のように中毒症状検査に付き合うのはもう何度もやっている。それは木の実やキノコのような自然物から、シャグマの調合した毒薬まで様々だ。症状は多種多様だったが、どれも辛いという点では共通していた。


「お疲れ様ですよぅ。被検体さん。今日もいいデータがとれましたぁ」

「……なら良かったよ」


 どこか晴れ晴れとした顔のシャグマが戻ってきた。手は洗ったようだが、ローブにはいまだべっとりと血がついている。怖いのであまり近づかないで欲しい。


「実験の進捗はどうなんだ?」

「バッチリですよぅ。本当に被検体さんに協力してもらえて良かったですよぉ」


 俺としても毒の実験台になるのは苦しいから早めに終わって欲しいとは思う。だがシャグマは本当にそれでいいのか。

 コイツが作ろうとしているのは、自分を殺すための毒だというのに。


「ああ、もう少し。もう少しで仇をうてますよぉ。……お父さん」


 だが、陶然とした表情で右目の包帯を撫でるシャグマを見ると、俺は何も言えなくなってしまう。


 もし俺にも、親を殺し、そして自分をも殺そうとしている怪物がいたとしたら、俺はどうしただろう。俺も、自分と刺し違えてでも殺そうとしたかもしれない。果たして俺は死以外の選択肢を見つけられるのか。

 できないのなら、下手な慰めは、それこそ毒にしかならない。


 無力だ。

 どうして俺の能力はこんなにも地味なんだ。

 オルグも、もっとマシな能力をつけて召喚すればよかったのに。


「さて、それじゃあ訓練場にいきましょうかぁ。早くワタシから一本取れるようになってくださいねぇ」

「……ああ。がんばるよ」


 空を見上げると、青い空にぽつんぽつんと浮かぶ鈍色の雲。

 もうすぐ雨季がくる。


 〇


 曇天の空。じっとりとした空気が肌にまとわりつくようだ。俺はそんな空気ごと切り払うように木刀を振るった。


「はっ」


 振り下ろした木刀は、シャグマに余裕を持って避けられた。だがそれだけでは終わらない。もう幾度となくシャグマと試合しているんだ。シャグマがそう避けることは予想していた。


「ふんっ」


 すかさず追撃。それすら避けられたとしても、さらに追撃。

 シャグマの次の行動を予測しろ。シャグマの一手先、二手先、三手先を。


「ここ、だ!」


 俺の切り上げを避けるために、わずかにシャグマの上体が浮いた。このタイミングなら絶対に避けられない。俺は流れるように振り下ろしを


 瞬間、シャグマが消える。


 俺の振り下ろしは虚しく空を切った。

 ……予測通りだ。


「およ」


 背後から振り下ろされたシャグマの腕を掴み、喉元に木刀を突きつける。


「俺の、勝ちだ」

「……そう、みたいですねぇ」


 俺は手を離すと、冷たい地面に寝転がった。

 火照った体が冷やされていくのが気持ちいい。

 俺は荒い息をつきながら、達成感に浸った。


「いやぁ、本当に雨季が来る前に一本取られるとは思ってませんでしたよぉ」

「お前……」


 僅かな剣戟の間に俺がこんなに疲弊しているというのに、シャグマは顔色ひとつ変えていない。本気を出していないのが丸わかりだ。


「手加減されてたって分かると、嬉しく無くなるんだが」

「いやいやぁ、手加減とかじゃないですよぉ。これはただ単に被検体さんの体力不足と魔力効率の問題ですよぅ」

「……ならいいんだけど」

「技術的には及第点ですねぇ。後はこの調子で頑張ってください」


 技術的……それも微妙に怪しいが。

 俺がシャグマから一本とれたのは、シャグマの動きを見切ったからではない。ただ単に、シャグマは背後に回り込んで不意をついてくる事が多かったから、というだけだ。

 初見であの動きをされたら絶対に見切れないだろう。

 シャグマと何度も試合をして、傾向と対策をして辛うじてもぎ取った勝利だ。いや、そもそも傾向と対策を立てることも技術の一つなのか?


「ん?」


 考え込む俺の額に、ぽつんと水滴が落ちてきた。

 それはひとつ、またひとつと大地を濡らすと、次第にその勢いを強めていく。


「雨、ですねぇ」


 天を見上げたシャグマがポツリと呟く。


「って事はもしかして雨季に入ったのか」

「そういう事ですよぉ。危なかったですねぇ。滑り込みセーフですよぉ」


 本当にその通りだ。

 もうそんなに時間が経っていたとは。月日が経つのは早いものだ。


「なあシャグマ、ひとつ聞いていいか?」

「なんですかぁ」

「どうしてこんなにも、俺の訓練に付き合うんだ?」


 シャグマから見たら俺はまさしく被検体だ。こんな訓練に時間を使わず、実験に没頭した方が得だろう。なにせ、シャグマは死ぬつもりなんだ。死んだ後の事なんて、どうなろうと知った事ではない、そう思ったとしても不思議ではない。


「今さら聞きますぅ?」

「今気になったんだ。仕方ないだろ」

「そうですねぇ。理由は色々あるんですよぉ。被検体さんが弱いままだと所長の妙な実験が始まってワタシが実験する時間がとれないとか、ワタシの実験に協力させるための口実が作りやすい、とか。でも一番はアレですねぇ」


 シャグマはしゃがみこみ、その幸薄い顔に微笑みを浮かべると


「ワタシはね、被検体さんに恩返しがしたいんですよぉ」

「恩返し?」

「被検体さんが居なければ、ワタシの実験は絶対に進まなかった。被検体さんがいるから、今ワタシは希望を持って実験に臨めている。だから被検体さんにはちゃんと幸せになって欲しいんですよぉ。ワタシが死んで、研究所という鳥籠から解放された後も」


 思わず唖然とする。

 シャグマがそんな事を考えていたなんて思いもしなかった。戦いを教えたのは街までたどり着くため、魔法を教えたのは俺がこの世界でも生活できるようにするため。シャグマなりに、俺の事を考えていたのだろう。

 だが


「……だったら俺の事ちゃんと名前で呼べよ」

「さて、柄にもなく寒いこと言っちゃいましたねぇ。こんな所にいても風邪引いちゃいますしぃ、さっさと中に入りましょうかぁ」

「おい、無視すんな」


 でも確かに火照った体を冷ますにも限度がある。

 俺は起き上がるとシャグマの後に続き研究所へと向かった。


 途中、何となく空を見上げる。

 この世界に来て初めて見る雨は、ひどく懐かしい物に感じた。

 前の世界もこの世界も、雨に大した違いはない。体の芯まで染み入るような、冷たい雨だ。


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