第65話 決着

 白砂を蹴り、向かい風をつっきり、明人はベル、千星、幸十、サラとともに神殿むけて駆けた。

 ガクガクと視界が揺れる。膝に体の重みが何度もかかる。

 だが不思議と、走っても走っても、息が上がらなかった。


「全然バテない! みんな同じ!?」


 走りながら他のメンツに聞いた。


「うん!」


「おう、いくらでも走れそうだ!」


「大丈夫やで!」


 千星、幸十、サラがそれぞれ頷いて肯定した。

 元よりベルは別格だ。


「光の神の加護だな。今のような事態になることを恐れ、この世界に形を持たせる際に、あらかじめ走り続けられるような仕掛けを施してくれていたのだろう」


「ゲームで言う地形効果みたいなものか。ありがたいね。エナジードリンクよりよっぽど効く」


「ついでに蠅も止めてくれりゃいいんだがな!」


 力強く腕を振って走りながら、幸十がグチった。


「できたらしているよしたぁるわよ。本来入れないはずの深淵に形を与えて維持するだけでも大仕事みたいやで。いちおう、私を通して声を伝えるくらいならなんとかできるみたいやけど、応援してもらう? フレー、フレーって」


 長いローブを翻しながらサラが答えた。


「遠慮しとく、悔い改めそうだ」


 幸十が首をすくめてお断り申し上げた。


 不吉な重低音が、ふたたび明人の耳に届いた。

 振り向くと、炎の壁を乗り越えだした蠅の大軍が、再び迫り始めていた。


 逃すまいと、その後ろから壮絶な火柱が黒いベールに追いつき、大穴を開ける。

 だがその大穴さえも、無限と思える蠅の軍勢はまたたく間に埋めてしまった。


「あれをもう突破してきた!?」


「あいつら気合い入りすぎだろ、チクショウ!」


 目的地の神殿はまだまだ遠い。

 走り始めた地点から計っても、半分走り抜けたかどうかだろう。

 明人の隣で、


「『人の子が四人、神殿につけばいい』のだったな」


 ぼそりとベルがつぶやいた。


「……ベル? まさかだよね」


 明人はベルの次の台詞が予想できた。

 だから、先んじて引き留めた。


「ここで足止めしなくてもさ。ベルが俺たちを護衛してくれれば、それでいけるんじゃないかな。あの雷だってあるでしょ」


「お前たちを巻き添えにしないよう気をつかいながらか? 今の奴らが相手では無理だ。だからこそアニーも単独で残った。私も同じようにしなければ」


 冷徹な判断を口にして、ベルは首を振った。


「明人よ。お前は私の預言者だ。だから後をお前に任せたい。ここから先は、お前が皆を率いてくれ。ただの伝言係メッセンジャーではなく、人々を助ける者として――真の預言者として」


「でも!」


「お前ならできる。お前は貪食界どんしょくかいで熱意を見せた。闘争界とうそうかいで決意を示した。虚栄界きょえいかいではあのホフニの虚言に打ち勝ってさえのけた。……もう一度、私にお前を信じさせろ」


 そう言って、ベルは明人をまっすぐに見た。


 明人は、『ずっとそばにいて』と、本当はベルに言いたかった。

 だが弱音を全部飲みこんだ。


「……わかった」


 明人はベルの目から逃げず、うなずいた。


「頼んだぞ」


 ベルが返した満足げな笑みの、その温かさは、明人にとってこの上ない神の祝福であったろう。

 ベルが千星、幸十、サラの顔をそれぞれ素早く見まわした。


「聞いたな、三人とも! 後のことは明人に託し、私はここで奴らを足止めする! お前たちはどうか明人を支えてやってくれ!」


「はい!」


「りょーかい!」


「任せて下さい!」


 千星、幸十、サラがそれぞれ力強く応えた。

 ベルが、足を止めて振り返った。


 明人は走る速度を緩めなかった。

 ベルと視線を交わし――すれ違った。


 わき目もふらず駆け続けた。

 駆け、駆けて、神殿がようやく近くに見えてきたとき、後ろから白光が幾度も閃いて、遠くの丘の、石造りの階段を照らした。

 遠雷の轟音が明人の背を震わせ、湿気混じりの烈風がそれに続いた。



◇ ◇ ◇



 神殿めざし、四人で駆け続ける。

 観覧車のごとき巨大な車輪の下を、いくつも通り過ぎる。

 どれだけ走ったか明人が自分でもわからなくなりはじめたころ、ついに神殿に続く階段の一段目が見えてきた。


(よし、もう少しだ! これならなんとかなる!)


 そう思い、確認しようと明人は後ろを振り向いて――目を見開いた。


 蠅の軍勢が、山崩れのように急降下してきているところであった。

 とうにベルの足止めを乗り越えていたのだ。

 最初に見たときより減ってはいるが、それでも、まだ呆然とするほどの莫大な質量を感じた。たとえエベレストが崩落してもこれほどではないだろう。


「やばいやばいやばい! もう来るぞ!?」


 幸十が前と後ろを交互に見ながら、やばいを連呼した。

 黒い山津波が、明人たちを飲みこまんと、恐ろしい音とともになだれ落ちてくる。

 砂に足を取られながら走る明人たちは、飛来する蠅の群れと比べて、あまりにも遅かった。


「もうちょっとなのに……!」


 後ろを振り返った千星の顔が、絶望の色に染まる。


 蠅たちの先頭は、もうすぐそこ。距離にしておよそ20メートルほど。

 月光に照らされる、一匹一匹のシルエットまでがよく見えた。


(間に合わない……!)


 明人はそうわかってしまった。

 足は、止めない。

 だが無理だろう。


 後悔すべきことはなかった。

 誰のせいでもない。

 自分を含め、皆できるだけのことをした。その上でこうなった。ホフニたちが一枚上手だったのだ。

 たとえ合流直後に走り出していたとしても、階段を登る途中で追いつかれていただろう。


 それでも、誰も最後まで足を止めなかった。

 だが耳障りな羽音とともに、黒い塊が、怪物の手のようになって向かってきた。


「アナちゃん……!!」


「神様……っ!」


 千星とサラが、届かぬ祈りを口ずさむ。

 四人が、神殿の階段の麓で、忌まわしい巨大な手に渡されようとした、まさにそのとき。


「ゥオオオオオ――ッ!」


 神殿の方角から咆哮ほうこうが上がり、飛来してきた白く巨大ななにかが山津波と明人たちの間に割りこんだ。

 大黒柱を思わせる太い二本の足が大地を力強く踏みしめる。

 白砂が爆発したかのように飛び散る。


「え!?」


 明人は思わず足を止め、すぐ目の前にそびえ立ったそのなにかを見上げた。

 太い二本の腕、石垣のような大きな背中。

 背丈5メートルはあろうかというほどの、白い巨人であった。

 ぼろぼろの粗布だけ腰に巻き、あとはすべて素肌をさらすその姿は、まるで剣闘士か奴隷のようだ。


 巨人の太い右腕から青白い火花が飛び散り、左腕から赤い炎が燃えさかりはじめた。


「オオオオオオオオオオオオオッ!!」


 あろうことか、白い巨人はその両手を前に出し、正面から蠅の大軍勢にぶつかって、押し止めた。

 両足をくるぶしまで砂に埋め、踏ん張って。

 無理に乗り越えようとした蠅たちを、雷で打ち、炎で焼き払って。


「なんだって!?」


 明人は驚きに目を見開いた。

 千星も幸十もサラもぎょっとしていた。

 助けてくれたのはまちがいない。それに、元が人である蠅たちは、どうしてもひとかたまりになって行動せざるをえないから、先頭をつかみ取ればこのような芸当も可能かもしれない。

 だが、そのような離れ業を実際にやってのけ、しかもこの深淵で明人たちを助けてくれる相手とは?


「アキト様、足を止めてはなりません! 早くお行き下さい!」


 蠅の軍勢を押し返し続けたまま、白い巨人が腹まで響く大声で叫んだ。

 その声には、聞きおぼえがあった。


「祭司アルバ!?」


 まさかと思いながらも、明人は名を呼んだ。

 はたして、首だけを明人たちに向けた巨人の両目は、潰れていた。


「お行きを! 神殿に行って、どうか預言者としての務めをお果たし下さい! 私にはできなかったのです! 世界の呪いと一体化してしまった私には、自ら決着をつけることが許されなかった!!」


 アルバの大きな声は、嘆きに震えていた。

 心ならずも三界の発端となってしまった古き祭司の、血を吐くがごとき無念が、三千年もの長きにわたって苦しみ続けた悔恨が、胸に迫るようだった。


(そうか。だから……)


 アルバが神殿のほうから現れた理由もわかった。

 牢から解放された彼は、神殿内にある呪いの基点を自ら始末しようとしたのだ。

 そして、失敗した。


「アキト様、どうか早く! どうか貴方に希望を託させて下さい!!」


「……ありがとうございます! 必ずやってみせます!」


 明人は叫んだ。

 それはもちろん、アルバをここに置いて、ということだ。

 だが盲目の巨人は完爾かんじとした笑みで応えた。


 重い笑みであった。

 それはきっと、使命を果たそうとする預言者を信じる笑み。

 そして、長年苦しんだ一人の男の希望を託す笑みであった。


「明人くん! 行こう!」


「ああ!」


 もうためらわなかった。

 丘の神殿に続く長い階段を、四人で一気に駆け上りはじめた。

 誰も一段一段のぼったりしない。一段飛ばし、二段飛ばしだ。


「狂ったかアルバ! あれが崩されれば貴様も終わりだぞ!!」


 押しとどめられた蠅の大軍勢から、ホフニのしゃがれた叫びがアルバに放たれる。


「終わらせるのだ! 長き悪行の清算は今こそなされよう! ホフニよ! 忌まわしい私の過去よ! 今度こそ私はあやまつまい!!」


 蠅の王に立ち向かう、盲いた巨人の大音声が響く。


 かまわぬとばかり、蠅の群れが乗り越えようとする。

 それを白い巨人から放たれた凄まじい炎と雷が焼き払う。

 階段を駆け上っている明人たちのところまで、熱気が伝わる。


 ならばと蠅の大軍がいったん引き下がり、巨大な杭のようになって突進する。

 白い巨人が両手を前に出し、恐ろしくなるほどの重低音とともに、正面からそれを受け止める。


「すっげえ……! ありゃどこの神様だ!?」


 階段を駆け上りながら幸十が問うた。


「祭司アルバ! 人だよ!」


「マジかよ、人間ってすげえな!」


 幸十の言うとおり、たった一人で蠅の悪魔を食い止める巨人の姿は、神と見まごうばかりの勇姿だ。

 敗れたりとはいえ、アルバはあのホフニたちを相手どって相討ちにまで持ちこんだ男である。きっと彼は三千年前にもああしてホフニたちと戦ったのだ。


 だが敵はホフニ一人ではない。

 エルロアザルとセネメレクもいる。

 両手で止めた巨大な槌から、小さな槌が二つ飛び出して、巨人の脇腹と心臓の上を突き刺した。


「ぐうっ!!」


 たまらずアルバが後ろに倒れた。

 仰向けになった白い巨体に、蠅たちが、巨大な全身から発する炎にもひるまず一斉にたかり、かえってその火を覆い消す。


「ウオオオオオオオオオオオオオオ……ッ」


 蠅の姿をした呪いに全身をおおわれた巨人の、断末魔のごとき凄まじい苦悶の叫びが、明人の背中に届いた。


「祭司アルバッ!?」


 たまらず足を止めて叫んだ明人の見る前で、しかし再び巨人の体から稲光が閃いた。

 全身を覆っていた無数の蠅が燃え上がり、炭化して地面にこぼれ落ちた。


「古宮くん、登って! 止まったらあかん!!」


 喉が潰れそうなほどの、サラの必死の叫びが明人を促した。


 それに同意するかのごとく、アルバが巨体を起こした。

 膝をつき、蠅たちを行かせまいと両手を大きく広げた。

 その全身を、燃え尽きないのか不安になるほど壮絶な猛炎が包む。

 心配するなと、明人たちに健在を見せつけるように。

 だが立ち上がれず、ついた膝をそのままに。


 強引に突っ切ろうとした蠅の大群が、しかし天にも届かんとする火柱によって、一瞬で灰燼と化した。


「明人くん!」


「……っ!!」


 心配を振り払い、明人は再び階段を駆け登りはじめた。

 登る間、ほのお赤光しゃっこうが、雷鳴が、雄叫びが、『急げ』と何度も背を叩いた。

 神殿の入り口が、すぐそこに見えた。


 ひとときも止まらず、皆で石製の大門をくぐりぬけた。

 四人の走る足音が、無人の神殿の石床をあわただしく鳴らす。

 煌々とした月明かりの差しこむ神殿は、灯りがなくとも中がよく見えた。


「あっ! あれとちゃう!?」


 サラが息せき切りながら、神殿中央にある奇妙なシルエットを指さした。


「げっ。なんだありゃ!?」


 幸十が顔をしかめた。


 大きな台座に乗った、異形の石像であった。

 二人の男の体を痛々しくねじりながら、二重螺旋にじゅうらせんの形で絡み合わせる、奇妙な造形をしていた。

 おそらくホフニとアルバの像なのだろう。ねじられた二人は、それでも上半身だけは互いから離して、今にも殺し合いを始めそうなほど恐ろしい顔を向かいあわせている。ただしアルバらしき片方の男だけが、アブのような太った虫に鼻を刺され、ギョロ目のヘビに首を絞められていた。


「これだ! まちがいない」


 明人には一瞬で直感できた。

 三界の発端を示すこの像こそが、呪いの象徴にして、基点だ。


「よし、壊そう!」


「どう壊すの!?」


「ぞ、像やし……ハンマーとか金槌とかを使うんやろか?」


「ねぇよそんなもん!」


 互いに顔を見合わせる間に、入り口の向こうから蠅の羽音が近づいてきた。

 とうとうアルバまでもが乗り越えられたのだ。


「オイやべえ、やべえぞ! 近づいてんぞ!」


「どうする、どうすれば」


 もう悩む時間はない。

 明人が一か八かで押してみると、ぐらり、と重い台座が揺れた。


「押せる! 押すんだ、みんな押して!」


「お、おう!」


 両手で押しはじめた明人のすぐ下に、幸十が張りついた。必死の形相で像を押した。

 台座の端が浮きはじめた。


「えいぃぃっ!」


 千星も加わる。

 角度が上がっていく。

 10度。

 20度。

 耳障りな蠅の羽音が大きくなる。


「やあああっ!」


 サラも張りついた。

 30度。

 40度。


「だああありゃああっ!!」


 明人は浮いた底に素早く腕を突っこんで、千切れてもかまわないとばかり、両足に力をこめた。

 羽音はすぐ後ろだ。

 45度。

 50度。


 ふっと、押し返してくる重さが明人の腕に伝わらなくなった。

 巨大像が、スローモーションのように、ゆっくりと傾いて、倒れていく。


「っ! やった!」


 叫んだ瞬間、暗黒の洪水が全員を飲みこんだ。

 明人も千星も幸十もサラも。


「きゃあああああっ!?」


「うああああああっ!?」


 倒れた全身を、カサカサ蠢くおぞましい感触に包まれる。

 耳元を気が狂いそうになる羽音が覆う。

 手が固まる。

 足が痺れる。

 息が止まる。

 血が凍っていく。

 黒いなにかに全身が同化していく。


 がしゃあっ、と石の破砕される盛大な音が響いた。


「ガッ!?」


 異様な悲鳴が起き――蠅の群れが、弾けるように散じた。


「ぶはっ!」


 息ができた。

 手足の感触が戻った。

 月光の映る神殿の床が見えた。

 体に温かい血が通った。


「おお、ホフニ様ぁっ!」


「見えない! 見えないィ!!」


「お、おのれ若造どもがあああっ!!」


 エルロアザルの、セネメレクの、ホフニの、怨嗟の叫びが神殿内に響き渡った。

 だが、明人たちを見失ったのであろうか。それともコントロールを失ったのであろうか。

 蠅の群れがてんでばらばらに空を右往左往しはじめた。


「た、助かった……か?」


 耳障りな羽音を立てる蠅たちが、しかし神殿の外へと逃げ散りはじめたのを見て、皆で息を吐いたのもつかの間。


 ぐらりっ、と今度は地面が揺れた。

 世界が崩壊しはじめたことを示す地の揺らぎは、しかし、これまでにないほど大きかった。

 奥の柱の一つがたちまち倒れて砕けた。


「な、なんかこれ、いかにもな雰囲気ちゃう?」


 床に手をついたまま、サラが幸十と顔を見合わせた。


「勘弁してくれよ。ここ神殿のど真ん中だぜ!?」


 だが議論する時間はなさそうであった。

 ぐらぐらと、柱が、ついで神殿が、どんどん大きく揺れ始めた。


「逃げよう! みんな立って!」


 明人は揺れる石床に足を取られながらも立ち上がった。

 千星に手を差し伸べた。


「次から次へといい加減にしてよ、もう!」


 そう言いながらも、千星が明人の手を取って素早く立ち上がった。

 同じ要領で、明人と千星がそれぞれ幸十とサラに手を貸して立ち上がらせた。


「行こう!」


 明人は皆にそう号令した。

 まだあたりに残っている蠅など無視である。

 千星、幸十、サラが入り口向かって走り始めたのを確認し、最後に明人も駆けだした。

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