第64話 三界の深淵
落ちた明人を、砂のクッションが受け止めた。
踏ん張りきれずに尻餅をついた。
ざらりとした砂の感触が手のひらに伝わった。
冷たく乾いた風が頬に吹きつけた。
「……どこだ、ここ」
あたりを見て、つぶやいた。
煌々と月影に照らされた白砂が、視界いっぱいに広がっている。
どこまでも続く砂の海。
夜空には雲一つない。
冷たく輝く星々と、明るく光る満月が、漆黒の空を彩っている。
ギイイイイイイイ、ギイイイイイイイ、と悲鳴のような軋み音が鳴っていた。
「……?」
不思議な光景を見た。
観覧車を思わせる巨大な金属の車輪が宙に浮き、しかもゆっくりと動いている。しかも、よく見れば、それがあちこち無数にある。
どういうわけか、重厚な金属製の輪を支える6つの太いスポークには、それぞれ人間の胸像が提げられていた。
真上からやや右、時計で言う1時と2時の間にある胸像は、赤ん坊。
そこから時計回りの方向に、少年、青年、中年、高年、老年。
つまりは六つの胸像を乗せた巨大な車輪が動いて、軋み音を奏でているのだ。
そのとき異変が起きた。
老年の胸像が頂点――時計で言うと12時――にさしかかったところで、白骨と化し、塵と消えたのだ。
そして頂点に達したところで、その塵から赤ん坊が現れた。
先ほどまで赤ん坊だった胸像は少年になっていた。
あとは同じだ。
時計回りの方向に、少年、青年、中年、高年、老年……。
ギイイイイイイイ、ギイイイイイイイ、と軋む金属の悲鳴が、広大な空間に鳴り響く。
莫大な質量を伴って動く巨大な車輪は、ゆっくりと、だが確実に動いていて、たとえ巨人が手で押さえようとも止まらないのであろうと思えた。
「明人、大丈夫か」
いつのまに来ていたのか、ベルが隣にいた。
他のメンバーはまだ誰もいない。明人とベルが一番乗りらしい。
「大丈夫。それより、ここはどこだろう」
「三界の深淵。いわば三界の土台だ。本来は空間と時間がなく侵入できないのだが、光の神が仮初めの形を持たせてくれた。表側の三つの小世界がすべて消えたため、裏側の世界を引きずり出せたのだろう」
そう言ってベルは周囲を見まわした。
緩慢に動く巨大な車輪を見上げた。しばらく観察していたが、
「運命の輪ではなさそうだな。人生に見立てた呪い、か」
「どういうこと?」
「乗っている胸像は一つ一つが参加者の象徴だ。ゆっくり動くのは時間の経過。それぞれのスポークの指す位置が、6分の1進むと、1日経つ。頂点に戻ると――つまり、6日後を終えると――、死を迎える。三界の死の呪いを可視化するとああなるのだろう。人は、生まれ、日々と共に老い、最後に必ず死ぬ。その人生のプロセスを模した呪いで、原初の二人であるホフニとアルバは、かつて互いに敵の死を呼びこもうとしたのだろう」
「……」
思い当たる節があった。
いつかのマルバシ酒店の店主の死だ。あのとき彼は急激に老化して死んだ。
時の経過と共に老い、最後に死ぬ。その人生のプロセスを模したから、あのようになったわけだ。
「もっとも、今は表の三界がない。今見ているのは過去の参加者の記録だろうな。お前と千星の像だけは、探せばどこかにあるのかもしれないが。一回転に6日かかる車輪に乗ってな」
そう言って、もう一度ベルは宙に浮かぶ無数の車輪を見上げた。
明人も同じようにした。
上半身だけの人が、生み出され、使われ、死に、原料となり、また生み出される。
それが車輪のワンサイクル。
遥か彼方まで、無数の車輪が続いている。
遙か彼方まで、無数の人間が車輪に乗せられて巡っている。
きっと地平線の向こうでも同じことが起きているのだろう。
あちこちで、人が生まれ、生まれ、生まれる。無数の人があちこちで生まれている。数えきれないほど生まれている。
死ぬ。死ぬ。死ぬ。無数の人が、あちこちで死んでいる。数えきれないほど死んでいる。
軋みながら無機質に動き続ける、巨大な車輪のスポークに乗って、その無情な動きに逆らう術もなく、老いていき、死んでいる。
男も女も、貴き者も卑しき者も、富める者も貧しい者も、健やかな者も病める者も。
天と地のあいだで、ひと時の人生が、見渡す限り無数に繰り広げられ、その結末を死によって閉じられている。
一回転を人生に見立てた車輪が広がる世界は、形を与えた者が知恵を司る神であるが故か、これまでとは全く異なって、厳粛さに満ちていた。
どさどさっ、と、後ろで重い物が落ちる音が連続した。
「ふうっ」
「おっとお!」
「あいった~……。背中打った……」
華麗に着地した千星、幸十。そして背中から落ちたサラであった。
それぞれ服装が変わっている。千星は闘争界で着ていた白スーツ、幸十は学生服、サラは長い白のローブ。
ネコ姿のアナが千星から分離した。
「おー、焦った。大丈夫かよ、サラ」
「おおきに、なんとか大丈夫」
そう言って、幸十が差し出した手を掴んで、よいしょとサラが起き上がった。
「あれっ、ゆっきーも来たの? もう呪いは解けたはずだろ」
と明人が聞くと、
「だからってオレだけ『お疲れっした』なんてできるわけねーだろが。サラに来て欲しいとも言われたしな」
と幸十は男気を見せた。
「おー、カッコイイじゃん」
と明人はからかうように言った。
半ばは本音でもある。
幸十は口は悪いし、好き嫌いも激しいし、付き合う相手もとことん選ぶ。だが、付き合うと決めた相手にはとことん付き合ってくれもする。今のような非常事態において、これほど頼もしい友人もそういない。
「だろぉ? これはドヤ顔していいと自分でも思うわ」
と幸十は明人に得意げな顔をしてみせた。
その近くで周囲を観察していた千星が、
「なんだか静かな世界だね。今までと全然違う」
とサラに話しかけた。
「欲を煽ろうとして来んから、静かに感じるんとちゃうかな。ここ、人を誘惑して破滅させるための世界ではないみたいやし」
車輪群を見上げながら、サラが世界の本質を言い当てた。
さすが光の神の
「あ、それだ。すっごいわかる、それ」
と千星がうなずいた。
千星もサラと同じく神から指導を受けた身ではあるが、どちらかと言えば最前線で暴れるタイプである。参謀タイプのサラとはところどころで性質の違いが際立つ。
「さてと。皆ちょっと聞いて。この世界のどこかにある神殿の中に、三界の呪いの基点を象徴化
とサラが言った。
「神殿? どこだろう」
「んーと。あ、あれじゃね? ほれ、あの丘の上」
と幸十が指さした。
その指の先には、たしかに砂の海に浮かぶ島のような丘があり、その丘の上に神殿らしき建物のシルエットがあった。
それはいいが、かなり距離がある。
「遠いね」
「遠いな」
「遠いよね」
「遠いですね」
「遠くね」
サラを除く全員が一斉に同じことを言った。
ばつの悪そうな顔でサラが首をすくめた。
「い、いやあ。おかしいんやわ。神殿のそばに出してくれるって聞い
ベルが耳をぴくりと震わせた。
「待て。神殿のそばに出るはずだった、だと? しかも、すぐに入るべきとも言われていたのか?」
「え、ええ、まあ。『四人の人の子が、すぐに神殿に入らなければならない』と言われとりました。予定が変わったんか、
「どうかしたの、ベル?」
「うむ……。気にしすぎかもしれんが、もしかするとまずいかもしれん」
「あ、ちょっとごめんなさい」
サラが眉をひそめ、耳を塞いだ。
「え、えっ? 『今すぐ走れ。遠ざけた者たちがやってくる』?」
慌てた風につぶやいた。叱責でもされたかのようだ。
ベルの血相が変わった。
「やはりか!? みな、すぐ神殿に向けて走れ! 今すぐだ!!」
なにに気がついたのか、ベルが勢いよく手を振ると、率先して突然駆けだした。
「了解、でもどうしたの!?」
わからないまま、すぐに明人も続いた。アナもだ。
「グズグズするな、お前たちも走れ!」
ベルが千星、幸十、サラを鋭く促した。
「え、なになに?」
「なんなんだよ、急に!?」
「急ぐで! わからんけど、声がめっちゃ慌ててはった! ただごとやない!」
千星、幸十、サラが戸惑いながらも追いかけてきた。
駆けながら明人はベルに聞いた。
「いったいなにがあったの、ベル!?」
「妨害を受けている! これほど遠くに落ちたのは、彼の予定が変わったのではない! ホフニたちに位置を変えられたのだ! お前たちをあの神殿に入らせまいとしてな!」
走りながらベルが応えた。
「え!? あいつら、まだ来るの!?」
「来るから彼が警告している! まずいぞ、ここはいわば奴らの本拠地だ! 来るとしたら、これまでの比ではないのが……」
言いかけて、なにかを感じとったのか、ベルが後ろを向いた。
その顔が引きつったのを見て、明人たちも後ろを見た。
「あ……!」
遠く、上空に巨大な何かが蠢いていた。
星空を隠す、漆黒の
しかもそれが、一斉に明人たちに向けて押し寄せてきていた。
まだ距離があるにもかかわらず、聞き覚えのある不気味な羽音がかすかに届いた。
「なっ……なんだありゃ! 前の比じゃねえぞ!?」
幸十がすっとんきょうな声をあげた。
「ここは呪いの基点のすぐそばだ! 奴らの力は最大限に発揮される!」
と走りながらベルが言った。
「ま、まずいよ、これ。これじゃ、たぶん神殿にたどり着く前に追いつかれちゃう」
千星が足を止めないまま振り返り、不吉な予感を口にした。
彼女の言うとおりであった。
星々の光を次々飲みこんでいく禍々しい蟲のベールは、無情なほど早く距離を詰めてきている。
そして、神殿ははるか遠くだ。
これでは追いつかれる前にたどり着くことは到底できそうにない。
「ヤッベー……。詰んでねえかこれ」
「まずいね」
明人は短く答えた。
あの数だ。あっという間に飲み込まれるだろう。その結果は死だ。これまで他の者がそうなったように、もがき苦しんで死ぬ。
と、併走していたアナがサラに問うた。
「サラよ。『四人の人の子が神殿に入る』とあの方がおっしゃっていた、と言いましたね。それに間違いありませんか?」
「は、はい。そこは大丈夫です」
サラの答えに、こくん、とアナがうなずいた。
「よろしい。ならばまだ手はあります。明人さん、千星ちゃん、八神、サラ、最後まで決して諦めてはなりませんよ。兄様、私はここに留まって時間を稼ぎます」
四人に発破をかけた後、アナは剣呑な顔でベルに言った。
「やむを得ん。任せるぞ」
「はい。あの卑しい者どもに、戦神とはなにかを思い知らせてやります。あとはお願いします」
「ちょ、ちょっとアナちゃん!? 冗談だよね?」
あわてて千星がアナを引き留めた。
「千星ちゃん、わかるでしょう。あなたは皆と共に神殿へたどり着かなければならないのです。……私がいなくても、すべきことをするのですよ」
アナが立ち止まり、蠅の大軍勢のほうに向き直った。
「アナちゃん!? ウソ、嫌だよ!」
千星が足を止めて懇願するように言った。皆も足を止めた。だが、
「早く行きなさい!」
厳しい叱責が千星を打った。
千星がびくっと泣きそうな顔で体を震わせた。
「大丈夫、やられはしません。あなたがやりとげられれば、またすぐ会えますよ」
「絶対?」
「絶対です。私を誰だと思っているのですか、千星ちゃん。戦神アナトですよ」
「……信じるからね」
「ええ、信じなさいな。……ふふっ、思えば、私が千星ちゃんに信じると言ってもらえたのは、これが初めてですね。女神と巫女なのに、おかしなこと」
くすっとアナが笑った。
千星が複雑な顔でなんとか笑おうとしていた。
「さ、早く行きなさい!」
「……うん。またね」
「ええ、また」
身をひるがえし、千星が駆けだした。うつむいて、ぎゅっと唇をかみしめたまま。
明人たちもすぐに続いた。
どれほど駆けた頃か。
後ろが急に明るくなり、明人の背中を燃えさかる炎の音が叩いた。
骨の
「え!?」
駆けながら明人が振り返ると、天まで届く火柱が、まるで剣山のようにいくつも立ち上り、蠅の大群を貫いていた。
まるで炎の柱でできた神殿のようだ。
その麓で、長く美しい銀髪をなびかせた大人の女性が、その美貌を赤い火の光に照らされていた。
宙に浮く刀槍を無数に従え、銀の鎧に身を包み、その肩に蠅であったとおぼしき塵を降り積もらせて。
(え)
と明人が思った、その次の瞬間、蠅の群れの先頭を遮るように巨大な炎の壁が立ち上り、戦女神の姿もまた壁の向こうに隠れた。
「明人、足を止めるな! いくらアニーでもそう長くは食い止められん! すぐに乗り越えてくるぞ!」
「りょ、了解!」
思わず呆けていた明人だが、ベルに言われてすぐにまた走り出した。
神殿までの距離は、まだ三分の一も縮まっていない。
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