第63話 天の神と蠅の悪魔
「異教の預言者どもよ。お前たちは許されないことをした」
ホフニがゆっくりと明人たちのほうに向き直り、一人一人その顔を見まわした。
見られただけだというのに、明人は体が強ばった。
向けられた昏い怒りが、実際に質量を持って殴りつけてくるかのようだ。気圧されないよう、手を握りしめた。
「なにがあろうとお前たちだけは生かしておかない――お前たちは死ななければならない!」
ホフニの顔がねじまがった。
その瞳が狂気に濁った。
大神官の聖なる衣が
「いかん! みな、後ろに下がっていろ!!」
ベルが素早く前に進み出た。
アナも千星に憑依して姿を消し、千星の手に軍刀が戻った。
「崩された世界の再構築は後回しだ。参れ、エルロアザル! セネメレク!」
ホフニが両手をかかげて
とたん、ホフニの後ろ、ステージの岩肌が黒く汚れ、
耳障りな羽音とともに、おびただしい数の
蠅は見る間に固まって群れとなり、そして人の形を取った。
汚れたローブ、崩れかけた帽子、暗緑色の肌が、二組現れる。
一人はかろうじて人の形を取る、肥満しきった肉の塊。一人は狂気を感じさせるぎょろ目。
そんな化け物のごとき二人の男が、ホフニの後ろに控えた。
「……あいつ!!」
明人は片方の男をにらんだ。
その顔には見覚えがあった。
闘争界で透良に射殺されたはずの男――セネメレクだ。
もっとも腕がない。胴体もところどころが欠けている。ダメージが残っているのだ。
となると、初めて見るもう一人は貪食界の主――エルロアザルだろう。
病的なまでに肥え太った体躯が目についた。脂がつきすぎて、全身の肉が不気味なほど垂れ下がっているのだ。もはや顔がちゃんとあるのかも疑わしい。だが、ニキビまみれの肉のすきまからは、たしかに濁った目が覗いていた。
泣きわめいていたステージ下の人々が、叫ぶのもやめて、ぼうぜんと三神官を見ていた。
その顔には困惑と恐怖がはりついている。
自分たちがいったいどのような者たちを
「勢揃いだな。この禍々しい小世界の
ベルが油断なく鉾を構えながら皮肉を言った。
ただし、その目は三神官を鋭くにらみつけている。
ホフニ、エルロアザル、セネメレクの、合計六つの濁った目が、明人たちに向いた。
「悪魔どもよ、異教の預言者どもよ、穢れた民どもよ! 死せよ、滅びよ、呪われてあれ……呪われてあれ!
力ある呪詛とともに、息詰まるほどのむき出しの悪意が嵐のごとく吹きすさぶ。
ホフニの、エルロアザルの、セネメレクの、人だった姿が崩れていく。
現れた三組の蠅たちが、しかも集まって、ひとつの巨大な群れへとその姿を変えた。
不気味な目玉が三組浮いて、ぎょろりと周囲を見まわした。
「ばっ、化け物だっ!?」
ステージ下から悲鳴が上がった。
誰かと思えば例の元クジャク羽の男だ。
ぎょろりと、蠅の群れの中に浮いた目玉が、この発言のまずい男のほうを向いた。
「ひぇっ!?」
男がぎくりと体を強ばらせた。
その彼に、太った蠅の群れが一組の目玉とともに殺到した。
「わっ、うわわわわっ!? どっ、どいて、どいてえっ!」
男が慌てて逃げようとした。
だが周囲はほかの観衆に埋め尽くされている。そばの者は逃げられたが、男には逃げ場がなかった。
男はあっという間に全身を黒い蠅でおおわれた。
「ひぃいいいっ!? があああっ、おごっ、あっ、アギイイイイッ!」
蠅にたかられた男が、奇声をあげ、もんどり打って地面を転がる。のたうちまわり、蠅まみれの全身をかきむしる。
ついにのけぞって
「な、なんだありゃ!?」
幸十が目を
「皆、兄様と私のそばから離れないように! あの蠅はこの三界の根幹、死に至るほどの悪意、呪いにして三神官そのものです! たかられれば、ただでは済みませんよ!」
アナが声だけで警告した。
幸十とサラがゾッとした顔でそそくさと千星の後ろに隠れた。
不幸な男の体から蠅の一群がようやく離れ、ステージの上にいた元の群れに合流した。
後には、白目を剥き、口を泣き叫ぶように大きく開いた、無残な死体が転がっていた。
一瞬の
「殺した!? 殺したぞ!?」
「いやあああああ!!」
パニックが起きた。
人々が血相変えてステージ近くから逃げ始め、丘のほうへと散っていく。
蠅の中の目玉たちは、逃げ去って行く人々をちらりと見たが、すぐに明人たちのほうへと視線を戻した。
「気をつけろ。奴らはもう本性を隠す必要がなくなった。なりふり構わんぞ」
ベルが警告した。
「悪魔めが」
ホフニの憎々しげな声がし、蠅の群れの中央あたりに浮いた目玉がベルをねめつけた。
それとともに、あろうことか蠅がさらにその数を増しはじめた。
「まだ増えるのか!?」
額から汗が流れてきた。
今でもただならぬ圧を感じるというのに、まだ抑えていたほうだったのだ。おそらく、引き出す悪意の量を擬態できるギリギリにとどめていたのだろう。
明人の見る前で、濃密な悪意が一つにまとまっていく。
恐ろしいほどの数の蠅が、一個の生き物のように渦を巻く。
気の遠くなるほどの年数をかけて人を殺し続け、増殖を重ねた呪いの本質――蠅の王としての真の姿がそこにあった。
しかし、
「私は悪魔ではない。お前たちがなんと言おうとも」
ベルは臆することなく、焦ることもなく、堂々と三神官の前に立ちはだかった。
そして右足を一歩前にだし、右手の鉾を左手に持ち替えた。
(あれ? ベルは右手が利き手のはず)
どうしたのだろう、と明人が不思議に思っていたら、突然、湿気を含んだ大風が吹きはじめた。
揺れる大地の上、乾いた空に、濃い雷雲がひろがった。
「え、え、え!? ウソ!? アナちゃん、これ逃げなくていいの!?」
なぜか千星が慌てだした。
「大丈夫ですよ。前回ほどの規模ではなさそうです。明人さんに憑依もしていないでしょう?」
アナが落ち着いた声でいさめた。
闘争界で透良と戦ったときに似ていたのだろう。
だが驚いたのは千星だけではなかった。
「この雷雲は!? 信じられない――まさかあの異教の神が降臨したのか!」
「神ではない、悪魔だァ! 悪魔悪魔悪魔! 血にまみれた悪魔だァ!」
「その通り、奴は悪魔だ! 悪魔――ベルゼブブだ!」
「我が声を聞く者よ、唾棄せよ! 憎め! あやつは虚栄の悪魔ベルゼブブである!」
「悪魔悪魔ァ! 血に
「悪魔ベルゼブブ!
いや。
実際に喧伝しているのであろう。
虚言も言いつのれば真実だと、嘘偽りを塗り重ねているのだ。
明人は顔をしかめた。
「鏡を見ろ。全部お前たちのことじゃないか」
生け贄を貪り、血に穢れ、虚栄に狂う、蠅の王。
寸分たがわず、今の彼らの姿である。
蠅の姿をした誘惑者、悪魔ベルゼブブ――そのような者がもし存在するとしたら、それは彼らのことに他ならない。
「ベルゼブブ? マジ!?」
幸十が顔を引きつらせた。
「こーら。めったなこと言うたらあかんよ、ゆーちゃん」
子どもをたしなめるかのような顔で、めっ、とサラが人差し指を幸十の口元にあてた。
「やめろって。そうじゃねーし。だって、その名で貶められた神サマっつったらよ……」
首だけ動かしてサラの指から逃げ、幸十が珍しく畏れた顔でベルを見た。
ベルは気にした風もない。
やかましく叫びつづける蠅の群れから目を離すこともない。
「アルバも光の神を呪ってしまったらしいが、お前たちも事情は同じだったか。そうして私を呪ったのだな」
「蠅の悪魔であれと兄様を呪ったがために、かえって自分自身が蠅の悪魔になったわけですか。妄りに呪う者にはよくある末路ですが」
アナが冷たく言った。
その台詞が挑発となってか、ブウン、と不快な羽音がいっそう増した。
「死せよ、異教の預言者ども! 滅びよ、悪魔ベルゼブブ! 呪われてあれ!」
濃密な蠅の群れが、動いた。
その濃さを増したかと思うと、ステージの幅をまるまる覆うほどの巨大な塊となって、血も凍るような羽音とともに明人たちに殺到した。
「何度も言わせるな。私は悪魔ではない!」
明人たちを飲みこまんとする黒い津波を、ベルが一喝し――右腕を天に突き上げた。
その腕が青く発光し、いつか明人も聞いたことのある、静電気に似た音が幾度も起きる。
「私はベル――またの名をバアル=ゼブル! 高き館の王と呼ばれた、天の神だ!!」
雷鳴が
雷雲とベル、天と地の両方から、稲光がほとばしる。
明人たちを飲みこまんとした巨大な波を、幾条もの青白い稲妻が走り、覆う。
大轟音が、怒り狂う呪詛の叫びが、骨まで響かせた。
全員を飲みこむはずの黒い津波が、止まった。
次の瞬間、その全てが炎に包まれた。
無数の蠅が、巨大な炎によって焼き払われていく。
吐き気を催すほどの悪臭が漂う。
そうして一匹一匹がすべて地に墜ち、
「すご……」
半ばぼうぜんと立ちつくす明人に、立つのがやっとというほどの強風が横から吹きつけた。
汚い死骸の山が風に吹き散らされた。
続いて起きた大雨が燃え残りの屑を洗い流した。
「シャレになんねー……。なんだ今の蠅と雷。神話の戦いじゃん」
幸十が目をぱちくりさせていた。ちゃっかりサラと手をつなぎつつ。
「ふうっ」
とベルが右手を下ろし、息を吐いた。
決着らしい。
「全部、終わったんだよね? 三界も崩せたし、ホフニたちも倒せた」
明人がそう聞くと、ベルは首を振った。
「いや。今回の三界はこれで終わりだが、ホフニたちは表にでている部分を焼き払っただけだ。呪いの基点――つまり根っこが残っているかぎり、奴らは何度でも復活できるだろう。何年かかけて力を蓄えた後、別の三界を再び創ろうとするにちがいない」
「そうなんだ。これで全て解決すると思ったんだけどな」
三界を崩した今、自分たちはこれで助かる。
しかしこの仕組みを作った三神官たちが残っている限り、またいつかどこかで同じ事が繰り返されてしまうのだ。
「なに、不審死のタネも黒幕の正体もすべて割れた。あとは追い詰めるだけだ。光の神も手伝ってくれよう。なんとかなる」
「……そうだね」
煮え切らないものも感じるが、ともあれ自分たちが最低でも必要とすることは叶えられた。
そう思うと、肩の荷がすこしおりた気になるのもたしかであった。
「バアル=ゼブルがベルの隠してた名前?」
と聞いた。
「うむ。といってもベルの名でも呼ばれている。なのでこれまで通り、ベルでかまわんぞ」
とベルは軽い調子で言った。
「了解」
と明人も軽く答えた。
そんなベルと明人のやりとりを横で聞いていた幸十が、
「あー……。なあ早池峰。ってことは、アナ様の正体って……」
めずらしく身を縮こまらせ、おそるおそるといった感じで千星を見た。
千星がぱちんと片目をつぶった。
「うん、アナトだよ。アナちゃんは」
「ですよねー。……シャレになんねえ。ウガリット神話の主人公様とその妹君様じゃねえか。あっきーに早池峰、お前ら信じらんねーくらい気安いな」
「え? あー。知らなかったし、それで良いって言ってもらったしなあ」
「私も。今は知ってるけど」
「無理にうやうやしくされなくても困らんのでな」
「大昔ならともかく、今はもう人の世においては隠居同然の身ですしね」
ううむ、と幸十が顔を引きつらせた。
神はいないと日ごろから公言している男だが、もしかすると、自覚がないだけで本質的には明人より敬神の念が強いのかもしれない。
(そういえば若林神社の祭りには毎回律儀に出席するよな、ゆっきーって)
と明人は思った。
明人たちの地元にある若林神社は毎年ちょっとした祭りを催している。その催しを、なんだかんだ言いながら幸十は毎回手伝っているのだ。むしろ彼と比べれば、明人のほうが不真面目なくらいだろう。
「ところで手のひらの数字はどうだ? 三界もまもなく崩れきるであろうし、そろそろ字も消えるはずなのだが」
とベルが聞いた。
明人が見る前に、幸十がさっそく右の手のひらを返した。
「お! 字が消えてる!」
と皆に手のひらを見せた。
たしかにそこにあった数字がなくなっている。
「よかった! これで私たちも死なずに済むはず……」
今度は千星が自分の手のひらを見た。
そして、眉をひそめた。
「あれ、待って。私の数字、消えてないよ」
と千星が手のひらを皆に見せた。
そこにはたしかに【1】の数字が残っている。
明人も自分の右の手のひらを見てみた。
やはり、【1】とあった。
「俺のも消えてない。完全に崩れてからかな?」
とベルに聞いた。
返事がなかった。
「ベル? これってもう少ししたら消える……?」
聞こえなかったのかと思って、問い直した。
そして、気がついた。
ベルが顔を青くしていた。
「馬鹿な。そんなはずはないぞ!? 同じ呪いなのだから、同時に消える。八神の呪いが解けている以上、お前たちの呪いも解けなければおかしい」
それを聞いて、明人は血の気が引くのを感じた。
千星もだ。
つまりベルの計画の上でも、これで消えているはず、だったのだ。
(どこかに計算違いがあったのか?)
あったのだろう。
数字がまだ残っているのだから。
だが、今から原因を調べる時間はあるだろうか。
そのとき。
ステージ下の、誰もいなくなった地面が不気味に震えた。
「言ったはずだ、異教の預言者どもよ――」
ホフニの声が大地を震わせた。
蠅の姿はない。
だが代わりに、地面が勝手にえぐれはじめた。
怒り狂ったホフニの顔がレリーフとなって浮かんだ。そして、その目が明人たちを見下ろし、その口が動いた。
「――お前たちだけは生かしておかないと! お前たちは死ななければならない!!」
そこで呪詛は途絶えた。
世界崩壊に伴う地割れが走り、止まった顔を引き裂いた。
「ベル、今のは……」
「うむ。数字が消えないわけだ。この世界を通して呪う仕組みは、たしかに消えた。八神の手のひらの数字が消えたのがその証拠だ。だがホフニたちが仕組みを受け継ぎ、お前たちを呪いはじめている」
「逃がすものかってわけか」
レリーフの残骸を見下ろしながら、明人は顔をこわばらせた。
オート処理からマニュアルに切り替えた、といったところだろう。
ベルの預言者である明人と、アナの巫女である千星は、ホフニたちにとっても特別の存在となっていたのだ。
と、黙って様子を見ていたサラが、とつぜん耳を両手でふさいだ。
口が声をださずに動いている。そしてコクンとうなずいた。
「館主様!」
「私か。なにかな。できれば手短に頼みたい」
と問うたベルに、サラが言った。
「『扉を開けるので飛びこむように』と伝えるよう、いま声が」
「なに? ……おお! すると彼からか!?」
地獄に仏といった調子でベルが問う。
それにサラが答えるのを待たず、ステージ下の地面に、今度は巨大な扉が現れた。
観音開きの金属の塊が、重低音をあげながらひとりでに開いていく。
「これは! うむ、助かる。明人、千星、急ぐぞ!」
「えっ? まさか、これに飛びこむの?」
と明人は聞いた。
地面に空いた扉の向こうは真っ暗だ。
飛び込んだが最後、生きて帰れないのではないかと思えた。
「当然だ、急げ! 三神官は三界の呪いの大本だ! その奴らに直接呪われはじめた以上、お前たちに残された時間はごくわずかだぞ!」
そう言って、ベルは真っ先に飛び降りた。
範を示そうというのだろう。
白い服を着たネコ姿が、地面に開いた大きな扉の向こう側へと消えた。
「あ、ちょっとベル! ……ああもう、しょうがない! ちーちゃん、行くよ!」
後ろの千星にそう言って、明人もベルを追って扉の向こう側へと飛び込んだ。
さきほどまで地面のあった場所は、しかし今や明人の体を支えない。
足に着地する感覚も伝わらず、どこまでも続くような不気味な落下感がそれに代わった。
そして明人の全身は暗闇に包まれた。
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