第21話 老若

 スーツ女が鬼の形相で明人をにらみつけた。目をつり上げ、歯を食いしばり、まばたき一つせずに。

 息が荒い。着地後すぐ、オタマを守るためにこちらにむかって駆けてきたのだ。

 よく見ると左の二の腕あたりの生地が裂けていた。袖口から血が流れ、手首を伝っていた。ベルと空中でやり合ったときの手傷だろう。


「クソガキが……!」


 地面に散乱していたビフテキの欠片を、スーツ女が革靴で踏みにじった。靴底のはしから黒い煙が立ち上った。


「よくもこの楽園を台無しにしてくれたね」


 怨嗟えんさに満ちた汚い響きが、のどから絞りだされた。

 肩から伸びる硬質の黒腕こくわんが、怒りをあらわすように気色悪くうごめいた。

 息苦しくなるほどの悪意が明人の体に絡みついた。


 身を焼くような憎悪と殺意。

 それは本当に感じとれるものなのだと、明人は生まれて初めて知った。


「食われて骨になる楽園なんてあるかよ。地獄の間違いだろ」


 呑まれてしまわないよう虚勢を張った。

 本当は足が震えていた。

 息が乱れた。

 顔から血の気が引いていくのが自分でもわかった。


 避難する人々が、しかし二人には決して近寄ることなく通り過ぎていく。誰も明人とスーツ女のあいだに割りこまない。

 プロレスラーを思わせる立派な体格の男がちらりとスーツ女を見たが、慌てて顔を背け、大きな体を縮こめてそそくさと逃げて行った。


「地獄か」


 スーツ女は鼻を鳴らした。


「食う側に立てない畜生にとっちゃ、そうかもね」


 唇をまがまがしくじ曲げた。だが目は明人をにらみつけ続けている。周囲の人間たちを一瞥さえしない。

 その足先がじりと動いた。

 いつ飛びかかってきてもおかしくない。


(やばい)


 明人は目をそらさなかった。

 そらせなかった。


 実のところ、戦う術はない。

 素手でやりあうなど論外だ。向こうには黒腕という凶器がある。

 だから余計に目をそらせないのだ。

 こうなったらハッタリを効かせて、明人にも反撃の手段があるのだと思いこませなければならない。

 むこうが怒りに駆られながらも、まだ襲ってこない理由があるとしたら、それは先ほどあの黒腕を明人が防いだことに他なるまい。実際に防いだのはベルなのだが、そのことをスーツ女は知らないのだ。

 だから、戦えるフリをする。

 時間を稼ぎ、ベルが来るまでなんとか持たせるのだ。

 ベルはよほど遠くまで離れたと見えて、まだ姿も見えない。あるいは人形に妨害されていたのかもしれない。だが人形たちは全滅したから、いま向かってきている最中だろう。

 希望は、きっとある。


 明人の後ろでひと際大きな地響きが起きた。ついに傾いていた大門が倒壊したらしい。

 飛び散る小石や破片が、明人の体のあちこちにぱらぱらと当たった。

 大きな建材も容赦なく飛んでいるらしく、レンガが重そうな音を立ててそばに落ち、転がった。

 あんなものが当たれば大怪我をする。

 だがそれでも、明人はスーツ女の挙動から目を離さなかった。


(よそ見したら終わる)


 その確信があった。

 どれほど危険でも、今は目をそらせない。そんなことをすれば、気がついたときには、あの異形の腕で頭を撃ち抜かれているだろう。


 もちろん危ない。

 今この瞬間、後ろから大きな塊が頭にでも直撃したらおしまいだ。あっさりとどめを刺されてしまうだろう。

 そこは、自分の運を信じるよりなかった。


 と。

 小さな破片がスーツ女の左頬にも当たった。

 ざらりと、そのあたりから何かがこぼれた。

 砂の固まりに見えた。

 その様子はなぜか周囲の崩れる崖を思わせた。


(……?)


 眉をひそめた明人に気がついたのか、それとも何か感じたのか。

 ハッとしてスーツ女が頬を左手で隠した。

 怯えた、ようであった。

 その手の指と指の間から、砂状のなにかがこぼれ落ちていた。


 今度は女の右のかめかみに小さな破片が当たった。

 当たったところがまた崩れた。


「くっ、くそっ!」


 スーツ女が明人そっちのけで、空中に視線をやった。


(なんだ?)


 怪訝けげんに思う明人が見る前で、女は片手を顔の前に出し、落ちてくる破片をふりはらいだした。

 だが大量に飛んでくる破片を全て防げるものでもない。その手をすり抜けて、ウズラの卵くらいの大きさの石が右目近くに当たった。


「うっ!?」


 うめいたスーツ女の顔肌かおはだがごっそりとこぼれ落ちた。

 地面に落ちたその肌が、剥がれたペンキのようにボキリと折れ、ちらばった。


「え……?」


 明人は己の目を疑った。

 皮の剥げたスーツ女の右目の近くだけが老いていた。そこだけ色が変わり、シミとシワができていた。


(あのときと同じ……? いや、なにか変だ)


 以前マルバシ酒店の店主に起きた急激な老いが、彼女にも起きたのかと思った。

 だがなにか違う。

 あのときは全身が一気に老いていった。だが今回は、顔の一部だけが老いている。その周囲は若く美しい女の顔のままだ。

 思わずギクリとするほどの異様な姿であった。


「あああ……!? 見るな。見るな! クソっ、畜生! ああ、こぼれる! クソォ!」


 スーツ女が今度は右目を手で隠した。

 左手は頬に当てたままだ。両手がふさがった。

 今度はなにもしていないのに鼻がもげた。

 いや、鼻の形をした肌が剥がれて、その下からシミだらけの鼻が露出した。


 なにが起きていたのか明人にもようやくわかった。


「その顔、つくり物なのか」


 つまりは化粧。

 もはや特殊メイクの域だが、おそらくそういうことだろう。

 あの老いた顔こそが本来の姿なのだ。

 彼女は以前、大門の裏で参加者をハエの生贄に捧げ、代わりになにかを受けとっていた。

 一体なにを受けとったのかと首をひねったものだが、なんのことはない。見せかけのアンチエイジングに費やすための原料だったわけだ。


 だが。

 クモの単眼のごとき不気味な瞳が、指と指の間から赫怒かくどに燃えて明人をねめつけた。


(しまった)


 今の言葉は禁忌タブーだったのだ。

 あまりに異様な光景に気を取られて思わず口にしてしまったが、失策だった。

 それも、致命的な。


「キアアアアアアアアーッ!!」


 言葉にさえならぬむき出しの狂気が響き渡る。

 老若ろうにゃく入り混じる顔面をあらわにして、スーツ女が明人に狂奔きょうほんする。

 黒腕の鋭い先端が、一直線に明人の額に向かう。


「……!」


 明人はかわさない。

 かわせない。


(嘘だろ!?)


 とっさに体が動かなかった。

 どす黒い気迫に呑まれていた。蛇ににらまれた蛙のように。


 眉間みけんを貫かれて頭蓋骨に穴が開く、あっけない音が響いた。

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