第7話 すべては幻

「ではさっそく始めるとしよう。忘れるなよ。2メートル離れたら、その時点で不合格だぞ」


 夕焼けに染まる町の、歩道の真ん中で、ベルはしかつめらしく明人にそう告げた。

 明人の返事を待たず、さっそく二足歩行で歩き始めた。


 小テスト開始というわけだ。


 テストという単語を聞いたおかげで、気合いのスイッチが入るのを感じた。明人は奮ってその横をついていった。


 行きすぎたり遅れすぎたりしないよう、ベルと並んで歩いた。


 歩くだけだった。


(……普通だな)


 いぶかしんだ。


 ついていくのが難しいくらい速く歩くのかと思ったら、別にそんなことはなかった。せいぜい早歩きくらいの速さだ。


 2メートルという距離も別にきびしくない。

 手を伸ばせば届くあたりの場所をキープしていればぜんぜん余裕だ。


 出題意図がそこにないのだろう。

 ただ歩くだけでは小テストにならないはずだ。


「先にひとつ、重要なヒントを出しておこう」


 と足を止めないままベルが言った。

 世田高の付近をだいぶ離れたあたりだ。


「この世界にあるものはすべて幻だ。こうして話している私とお前を除いてな。見えたり、聞こえたり、触れられたりはしても、すべてまがい物にすぎない。しかも物質界の事物と異なり、ちゃちで脆い。お前の普段いる物質界が、新築の鉄筋コンクリート校舎だとすれば、こちらは崩れかけの竹組足場だな。忘れるなよ。すべて幻だぞ」


「それが重要なヒント?」


「世界一重要なヒントだとも。少なくとも、この世界ではな」


 と竹組足場の創造主はそうのたまった。


「ふうん……?」


 意味がわからず、明人は首をかしげた。


 興味深い話ではあったが、このお散歩と大差ないテストに関係することとも思えなかった。


 それに、この世界のいったいどこが『ちゃちで脆い』まがい物なのかとも思った。


 沈みかけた赤くまぶしい夕日も、ときおり顔に吹きつける冷たい風も、足に伝わるレンガ畳の固さも、現実としか思えない。


 前に小石が落ちていると気がついた。

 気になって試しに蹴ってみたら、ちゃんと靴のつま先に固いものがあたる感触がして、小石がレンガ敷きの歩道の上を転がっていった。

 転がるときのカラカラという音までちゃんと聞こえた。


(ちゃちな世界、ねえ)


 『神の基準では』と但し書きが入るのではないだろうか。

 ここまでリアルなら、それはもう現実だろう。


「ちなみに、いま俺が履いてるこの靴、どうしたの。俺、ベッドに横になるときは履いてなかったけど。コートも」


「両方とも、こちらに来るときにサービスした」


「そうなんだ。あ、じゃあ現実に持ち帰れる?」


 予備のコートや靴があるといいのに、とはかねがね感じていたことだ。だからそう聞いた。


 が、ベルは首を横に振った。


「それは無理だ。物質界ではないのだから、こちらとあちらで物を融通することはできない。言ったろう、すべて幻なのだ。お前の肉体や衣服などもおなじく幻だ。動かしているお前は存在するがな。俗な表現をすれば、魂だけがこの世界にやってきて、こちら用の体に乗り移った状態だと思えば良い。だからむこうの物質界には、抜け殻状態のお前の体が今もベッドの上で横たわっているぞ」


「そうなんだ。残念」


 オンラインゲームのアバターみたいなものだろう。

 いわばこっちの世界に人形の体があって、それを遠隔操作しているようなイメージだ。


 それはそうと、ベルがさらっと流した点が気にかかった。


「ところでさ。それ、向こうの体は大丈夫なの。幽体離脱してるのと同じ状態だよね」


「そうだが、長居さえなければ問題ないから心配するな」


「長居したらどうなるの?」


「当然、あちらの体だけ飢え死にする。その場合、肉体の死がフィードバックされないから、この世界にしがみつく亡霊のような状態になってしまうな」


「ちょっとちょっと!?」


「慌てるな。あくまで長居したら、という話だ。むこうでもし危険なことがあったらすぐ戻らせる。お前だって、眠るときに二度と目が覚めないかもしれない、などといちいち本気で心配しながら寝たりすまい。それより、お前はこちらでうかつなことをしないように気を配れ。怪我までなら問題ないが、死んだ場合は本当に死ぬぞ」


「え、なんで? 俺の体は向こうだよね」


 ゲームのアバターのようなものと理解していたので、明人は慌てた。

 ゲームではアバターが破壊されたとしても、プレイしている明人に影響はない。だから同じように、こちらでどんな無茶をしても平気なのだと思っていた。


「心と体は相互に作用する、とよく言うだろう。あれだ。こちらでも肉体が死ねば、フィードバックが走って精神も死を迎える。先ほど言ったとおり、『人は肉体と精神とを重ねて存在している』のだ。もちろん事故が起こらないよう私もカバーするが、限度があるのでお前にも気をつけてもらいたい。怪我だけならなんとでもなるのだがな。死ぬのだけはいかん」


「そうなんだ。了解、気をつけるよ」


 むしろこちらこそ大事なヒントなんじゃ、と思った。知らなかったら相当危ないことだってやってしまったかもしれない。


(けど、テストの内容次第じゃ、気をつけてもどうしようもないような?)


 とも思ったが、さすがにそんなテストはしないのだろう、と考えることにした。


「ああ、気をつけろ」


 とベルはやはり足を止めずに頷いた。

 基本的にテスト中はなにをしようと止まってくれないらしい。

 厳しいところは厳しいわけだ。


 それで、余計なことに思い当たった。


(もしかしてこれ、小テストというか、神の試練ってやつなんじゃ?)


 大仰な言い方だが、実際にそのものだろう。神が課す小テストなのだから。


 そう思うと、なんだか緊張してきてしまった。


 緊張したら、なんだか喉が渇いてきた。


 舌を動かすと口蓋に張りついた。

 空気が乾いているから、というのもあるかもしれない。


 と、そのとき。


「古宮くん、お水どうぞ」


 澄んだ声が斜め前から聞こえた。


 なんと、千星であった。


「え……え!?」


 千星が、緑道と間道が交差する四つ角のすぐそばにいた。そこに設置されていた給水所のそばで、紙コップを差しだしてくれていた。


 それも、あろうことかドキリとするほど大胆な格好で、だ。


 思わず明人は足を止めた。


 まさかそこまでと思うほど布地を切り詰めた、ホルターネックにジャケット、なまめかしいエナメルのホットパンツ。


 おそらくレースクイーンを意識したのであろうその出で立ちは、千星のしなやかなボディラインを感じ取れるばかりか、アンダーバストから下腹部の中ほどまで肌の白さがあらわになっており、すべらかな足や太ももも――


(あっ!?)


 ハッと気がついて、すぐさま明人は跳んだ。


 寒気がするほど遠くに離れてしまっていたベルの、すぐそばに着地した。

 ただちに歩き出し、ヒヤヒヤしながらベルの顔をうかがった。


「失格……寸前だったな。つま先がわずかに残っていたぐらいか」


 歩きながら、ベルが無表情でぼそりと言った。


「あっぶな……!」


 今度こそ足を止めずに明人が振り返ると、千星は話しかけたときのポーズで静止していた。

 まるで映像のようだと思ったとたん、その姿が薄れていき、消えた。


 幻だったわけだ。


「あの手の罠が苦手なようだな。気をつけるといい。お前が囚われた貪食界どんしょくかいは、人の食欲や色欲につけこんで人を死においやろうとする。油断すると今晩すら越えそこなうぞ」


「ご忠告どうも」


 明人は強がってそう答えたが、心臓はバクバクであった。

 顔から血の気が引いている感覚があった。


(いきなり落ちるところだった……!)


 先ほどもらったベルからのヒントが、なぜヒントなのか、よくわかった。


 もしすべて幻だと聞いていなかったら、明人は千星の艶姿あですがたに見とれたまま失格していただろう。


(やばかった)


 足を止めないよう気をつけつつ、ふう、と息を吐いた。


 初手からこれとは。

 落としに来ているわけではなさそうだが、さりとて手心も加えてくれそうにない。


 合格するなら合格するで良し。駄目なら駄目でやむなし。

 そんな冷徹さが感じられた。


 すこし余裕を持たせようと思い、明人はベルの真横ではなく、気持ち前あたりを歩くように調整した。


 また、しばらくただ歩いた。

 仕掛けたばかりだからだろうか。なにごともなく道程を消化していけた。


 ただ歩くのもなんなので、


「ねえベル。さっき言ってた貪食界ってさ。昨日見た【夢】の世界のことでいいのかな。まあ正確には夢じゃないらしいけど」


 と明人は雑談もかねて気になったことを聞いてみた。


 夢という単語は正確性に欠けるのだろう。だが明人の中ではまだ夢という認識が強かった。だからつい夢と言ってしまった。


「ああ、人と酒食でごった返すあそこだ。先に言っておくが、お前は今晩もあそこに引きずりこまれる。気を抜くなよ」


 とベルは答えた。


 明人のななめ前に透明のバルーンが現れた。

 またテスト用の罠かと思ったが、そうではないらしい。邪魔にならない位置にあったし、歩くのに合わせて移動もしてくれた。説明用の小道具なのだろう。


 バルーンには【貪食界】と記されていた。その内側から鎖が伸びていた。そして鎖の先には学生服姿の少年のぬいぐるみが逆さづりになっていた。

 学生服が世田高のものにそっくりだし、【5】と背中に書いてもいるから、たぶん明人を模しているのだろう。


「今晩も、あそこに?」


「ああ。まだ初日ゆえ気づいていまいが、今のお前はあの世界に捕らえられた虜囚だ。このぬいぐるみのように、断てない鎖であそこに繋がれてしまっている。日中は元いた世界に帰れるが、夜中になれば寝入ったとたん引きずり戻される。すぐには信じがたいかもしれないが、今晩になれば、嫌でも本当だと知ることになるだろう」


 ベルがそう言い終わるなり、貪食界と書かれたバルーンの鎖がまきとられはじめた。

 ひっぱられた明人のぬいぐるみが、バルーンの球皮にめりこんだかと思うと、すぽんと中に入ってしまった。


「……」


 バルーンの中に囚われたぬいぐるみは、喰われて胃袋のなかにおさまった哀れな獲物のように見えた。

 たとえぬいぐるみであっても、あまり気分の良いものではなかった。


 ぽふん、という効果音付きでバルーンが消えた。説明終了、ということらしい。


「そうそう。寝たら囚われるからといって、寝ずにいるのはやめておけよ。いきなり昏倒する羽目になるぞ。午前2時には布団の中に入っていることを強く勧める。運悪く階段をのぼっている最中だったりすると大けがをするからな。目が覚めたら病院にいた、などということになりかねん」


「気をつけるよ。でも、午前2時ならいつもとっくに寝ているから大丈夫」


「なら良い」


 とベルはうなづいた。

 テストに関しては容赦ないが、関係ない部分では実に親切だ。


 どうせならこのまま何事もなく終わらせてくれるとありがたいのだが、さすがにそうもいかないのだろう。


 なにしろまだ道程は全体の四分の一を過ぎたかどうか、というところだ。仕掛けをほどこすのに十分な距離が残っている。


(次はなんだろうな。まさか水着姿の早池峰さんとか? まあ、それならそれで足を止めなきゃいいだけなんだし、どうとでもなるけども。むしろ正直ちょっと見たいというか)


 足は止めずに、そんなことを考えた。

 願わくばビキニ。

 いや競泳水着もなかなか。


 と、そのとき。


「なあ、待ちなよ」


 と後ろから声がかけられた。


(来た!)


 と思った。


 だが今度は残念ながら千星の声ではなかった。男の声だ。


 おそらく同年代だろう。というか、どこかで聞いた憶えがあった。


 不思議に思ったとき、そいつが明人の横に来た。


「待てったら」


 明人自身であった。


 それも尋常な姿ではない。

 まるで亡霊だ。服はボロボロ、顔も血まみれ。頬のあたりと、それから額の上に、それぞれドリルであけたような穴が開いていて、生々しい血がどろりとこぼれ落ちていた。


 無残な死体となった己の姿。


 そこには、幻だとわかっていても、体を硬直させかねない恐ろしさがあった。


「止まれよ。そいつについていっちゃ駄目だ。ほら、これを見ろよ。酷い傷だろ。勇気を出して挑んだせいで、殺されたんだ」


 無視して歩く明人に、死者となった明人が己のむごい傷を指さして見せた。


「がんばるなよ。せっかく囚われた先が、美味いものをたらふく食える場所だったんだ。短い時間でも愉しんでいればいいじゃないか。そうだろ。軽い気持ちで裏側をのぞいたら、ろくでもない目にあうぞ」


 血の気のない不気味な顔が、ななめ前から明人をのぞきこむ。

 濁った瞳が、触れそうなほど近くにやってくる。


 それでも明人は無視して歩いた。


 業を煮やしたのか、血まみれの幻は小走りに先に進んで、明人の前に立ち塞がった。


「聞けよ。止まれって」


「じゃま」


 明人は足を止めずに、押しのけようと手を突きだした。


 手は血まみれの亡霊にあたらなかった。


 あたる前に消えた。


 まとわりつくような声も止んだ。


 横には、変わらぬ歩調でてくてく歩いているベルがいる。

 そのすまし顔は、『なにも起きていないぞ』、と言わんばかりだ。


 実際、今の亡霊も幻なのだから、なにも起きていないのだ。


「……ハッタリが効いてたのは認めるよ。正直ホラー映画よりよっぽど怖かった。けど、ちょっと悪趣味すぎない?」


「本番はもっと趣味が悪い」


 とベルはとりあわなかった。


「それにハッタリでもない。お前より先に挑んだ者が一人、本当にああして死んだのだから」


 明人は息を飲んだ。


 足が止まった。

 消えたはずの血まみれの自分が、今度は頭の中から邪魔をした。


 ベルの背中が遠ざかっていく。


 明人はすぐにかたまった足を無理やり前に動かした。

 元のようにベルのすぐ隣に並んだ。


「ここでギブアップしてもよいのだぞ。勇敢とは言えないかもしれないが、賢明な選択だ」


「冗談。ヤバいものを見せてもらったおかげで、絶対イモを引けないって確信できたよ。続きをよろしく」


 明人は笑って答えてみせた。

 だが顔の筋肉が強ばっている感じが自分でもした。うまく笑えていなかったかもしれない。


(ええい!)


 明人は頬を両手でパンと叩いた。乾いた痛みの走った顔を、冷えきった手でこすった。

 すこし気合いが入った気がした。


「いい根性だ」


 そう言って、ベルはすこし笑った。

 テストが始まってから、ベルが笑ったのはこれが初めてだ。


 いつの間にか茶沢通りが見えてきていた。


 残る距離は、スタート地点からはかって、おおむね半分。

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