冬の夕暮れ、あの娘は――
椎名ロビン
冬の夕暮れ、あの娘は――
びゅうびゅうと風が吹いている。
スカートが風にはためかぬよう尻に敷き、身長より遥かに高いフェンスへと背中を預けた。
風に負けないよう手で覆い、誰かから借りたままの安っぽい百円ライターに火を点ける。
ふぅ、と煙を吐き出して、上る煙につられるように、茜色の空を見上げた。
放課後の屋上で煙草をふかしている時に、誕生日に購入した少々値の張るイヤフォンから流れてくる音楽は、この世で最も心地のいいミュージックではないだろうか。
「……やっぱりここに居たのね」
一方、この世で最も心地悪いミュージックは、そんな幸せな時間を壊すムカつく女のお説教だろう。
屋上に続く重い扉が開け放たれ、面白くなさそうな顔をした眼鏡の女が立っているのだが、こいつがその演奏者だ。
何かを言っているようだが、丁度サビが爆音で流れているせいで、その内容は分からない。
もっとも、どうせお決まりのお小言だろうし、聞こえていたところで右から左へ音が抜けていくだけなのだが。
「屋上で吸われると迷惑だって言ったでしょう」
煙を吐き出すついでに大きく溜息を吐いて、ゆっくりとイヤホンを外した。
このまま無視して次の曲へと行きたいところではあるが、この女は無視していると無理矢理イヤホンを外してくる。
今使っているイヤホンは、コツコツ親の財布から抜き取った金でようやく買った高級品。
乱暴に扱われ、断線したらたまったもんじゃない。
イヤホンを首にかけ、ゆっくりと世界一嫌いな女へと目を向ける。
バタバタとスカートを風にはためかせ、それを恥じる様子もなく直立不動で立っていた。
「おいおい、誰かと思ったら、露出狂サマですか。生憎だけど、それ見せられても舌打ちくらいしか出せないぜ、私からは」
ほんの少しだけ、嫌悪感に眉が動いたことを、私は見逃さなかった。
昔からそうだ、この女は。
品のないジョークに対し嫌悪感を抱き、そしてそれを押し殺す。
努めて冷静に対処する姿が、相変わらず気に食わなかった。
「そういうのは、あそこでやってきたらどうよ。アンタみたいな女でも、ぱんつ見せたら人気出るんじゃねえの?」
クク、と笑い、親指でフェンスを指す。
正確には、その向こうに見えているであろうグラウンドを、だ。
飽きもせず、部活に勤しむスーパー健全高校生サマが暑苦しい声で何かを叫んでいる。
「ラガーマンにでもメチャメチャにしてもらえよ。強豪校で朝から晩まで練習練習な奴らだし、体力も筋力も性欲も持て余してるんじゃねえの? たっぷり可愛がってもらったら、少しはそのクソつまんねぇ鉄面皮にもヒビが入るかもしれないしさァ」
相変わらず、目の前の腹立たしい女は、大きく表情を変えない。
それでも、一瞬、きゅっと唇を軽く噛んだ。
やや震えた唇で一度深呼吸をしてから、ツカツカと距離を詰めてくる。
そして、乱暴に私の右手首を掴み、捻り上げた。
「煙草をやめろと言ったのだけど、聞こえなかったのかしら」
「クソ、暴力振るっていいのかよ、委員長」
まだ煙が立ち上っていた愛すべき煙草ちゃんは、悪い堅物大魔王に奪われて、そして携帯灰皿という死刑台へと送られてしまった。
嗚呼、どうか、まだ余命が少し残っていたというのに、助けてやれなかった私を許してほしい。
「三つ言うわ。まず一つ。私はもう委員長じゃない」
知っている。
私達三年生は、とうの昔に自由登校になっている。
故に真面目な生徒の大半は学校ではなく予備校に行き、不真面目な生徒の大半はカラオケボックスやゲームセンターに行っていた。
故に、三年生は既に委員会活動から引退している。
クラス委員長だって、その例外ではない。
「そりゃ失礼。でもほら、アンタ、委員長であることしかアイデンティティがないじゃん? だからてっきり、今も終身名誉委員長なのかと思ったんだよ」
「言っておくけど、私だって腹を立てることくらいあるわよ。もっとも、今は貴女がアイデンティティなんて言葉を知ってることへの驚愕が勝っているけれど」
ああそうかよ、と呟きながら、無意識に――いや、本当に、マジのガチで無意識に――煙草の箱を取り出した。
当然のように、再度手首を捻り上げられる。
まだ三本しか吸っていないのに、箱ごと抑えられてしまった。
「二つ目。学校で吸わないで。制服で吸うのも禁止」
「……あのさ、委員長権限があるわけでもないのに、人から物盗るってのは問題ないわけ?」
クソがつくほど真面目な彼女には分からないだろう。
齢十八にして、多額の煙草税を納める者の気持ちなど。
コツコツとバレない程度に親の財布から抜いた小銭をかき集め、
こっそり親のタスポを持ち出し買わなくてはならないのだ。
あの苦労は、何も知らない部外者が気安く台無しにしていいようなものではない。
「そうね、訴えられたら負けると思うわ。それを承知でやってるの。罰が下れば受け入れるつもりよ。自分のしたことの責任から逃げる気はないわ」
真っ直ぐな目で睨みつけられる。
虫酸が全力疾走した。
今ならグラウンドで汗を流すラガーマンに放り込んでも、虫唾くんは捕まらずに走り抜けられるのではないかというくらいに、それはもうとんでもなく虫唾が走りまくっていた。
「貴女だって、私が学校に来ていることは予想出来たはずなのに、それでも吸っていたのでしょう。こうなることくらい分かっていたのに、それでも止めなかったのだから、貴女にも責任はあるわ」
責任。
それが、クソいけ好かないこの女の口癖だった。
行動には責任が伴う、責任は果たさなくてはいけない、自分の犯した罪への責任を――
兎に角彼女は厳格で、自他の区別なく、責任ある行動を心掛けさせていた。
いや、『心掛けさせていた』なんていうのは、オブラートに包みすぎて原型が失われているか。
こいつは、責任ある行動を求め、強いているのだ。
目上だろうが不良だろうが気にせずに、あまねく全てに責任を求めている。
学区が同じで小学生の頃から彼女を知っているが、少なくとも同じクラスになった小学四年生の時には既に“こう”だった。
生まれながらにして真面目な性格で、そしてそのまま捻じ曲がらず成長できる家庭で育ったのだろう。
もしくは病気かのどちらだ。できれば病気であってほしい。
「責任責任うっさいな。それしか喋れないのか? ピカチュウだって、もうちょっと色々喋ると思うけど?」
ああ、お嬢様のアンタはピカチュウなんて知らないか、と続けようとしたが、止めた。
本当に知らないと、それはそれで腹が立つ。
上流階級のお嬢様というのも、こいつが気に入らない理由の一つだ。
「大体アンタだって、言葉に責任取れてないじゃんか」
精一杯睨み上げる。
それでもきっと、大して怖くもないだろう。
私は別に、チンピラというわけではない。
家に居場所がなくて、学校にも馴染めなかった、ただの負け犬だ。
手当り次第人に噛みつく殺意とバイタリティに溢れた狂犬には遠く及ばない。
ただキャンキャンと、惨めに吠えるしかできないのだ。
案の定、鉄面皮はピクリとも反応していない。
どこまでも冷たく、見下すような視線を向けてくるだけだ。
「言ったよなァ、私みたいな奴は絶対許せないって。言ったよなァ、許せないから、絶対更生させてみせるって。言ったよなァァァァ、おい、その結果このザマかよ」
精一杯顔を歪めて、鼻先が触れそうなほど顔を近付ける。
顔を近付けすぎて、折角立てた中指は視界に入れてももらえてないだろう。
全く動じる様子もなく、真っ直ぐに見つめ返されていた。
「そうね。貴女程度がここまで意固地になるとは思ってなかったわ」
「あのさ、マジで私をナメてんだろ、お前。さっきの言葉をそっくり返すぜ。私だってキレる時ゃキレる」
「知ってるわ。むしろ、何があれば貴女は腹を立てないのかしら。空虚な顔して、いつも何かに漠然と腹を立てているでしょう?」
こいつの言葉はいつもそうだ。的確に逆鱗へと触れてくる。
それに加えて、圧倒的な上から目線。
腸が煮えくり返りすぎて、モツ鍋屋でも開けそうだ。
「確かに腹は立てているのに、行動に移す根性がないから、その怒りは発散されない。けれども、腹を立て続けていられるほどの信念もなければ意思もない。だから次々と対象を変え、腹を立てては目を背け続けているのでしょう」
「黙れ」
思わず胸ぐらを掴む。
普段であれば、こんなことはしなかっただろう。
喧嘩も強くない私が、こんなことをしてもメリットなど何もない。
だからいつもは、その場は舌打ちだけで済ませ、人気のない場所で適当にゴミ箱を蹴り飛ばすのだ。
「殺すぞ、クソが」
親の金で護身術を習っていたと噂のこいつに、勝てるわけがない。
それでも言葉が出てしまった。
堪えきれない怒りを引きずり出すことにかけては、こいつの右に出る者はいないだろう。
「出来もしないことを、軽々しく口にしない方がいいわよ」
案の定――軽々と捻り上げられる。
手首を無理矢理引き剥がされ、足を引っ掛けられ転がされる。
後頭部に感じる異物感は、首にかけていたイヤホンを頭部で踏み潰しているからだろう。
「だから軽いのよ。言葉も、意思も、何もかも」
「クソ野郎ッ……」
「本当に語彙が貧弱ね。クソクソクソクソ耳障りだわ。ピカチュウだって、もう少し語彙が豊富だと思うのだけれど?」
倒れた私を見下ろして、仁志――こいつの名字だ。名前を呼ぶのはムカつくが、煽られた直後にクソ女とか気に入らない女とか、使い倒した代名詞で表現するのも、負けた気になる――がフェンスへと背中を預けた。
夕日に照らされたその顔は、率直に言うと、綺麗だった。
煙草と不摂生のせいで早くも汚くなってきた私の肌と違い、淡雪のように白い肌は、紅を何より美しく描く上質なキャンバスのようで。
景観に溶け込みながらも、しかし強くその美しさを主張している。
そう思う自分が腹立たしくて、情けなくて、悔しかった。
「話が中断してたわね。三つ目の、言いたいことを言うわ。こんな布切れに興奮し襲いかかるような男に、責任を取れるとは思えない。だから絶対にお断りよ。責任が取れる相手としか、そういうことはしたくないの」
「重たいヤツめ。だからモテねーんだよ」
「モテたくないもの。いいことだわ」
付き合う前から責任だの何だの、重たすぎる。
大体別に避妊してたら責任とか別にないんじゃないかと、私は思う。
まあ、そういう私も男と付き合うつもりなんてないからその辺りはよく分からないし、ラガーマンに襲わせる場合は当然のようにゴムなんて無しで「孕ませてやれ」と煽る気満々だったのだけれど。
「それと――今、四つ目を言わなければいけないことを思い出したわ」
そう言うと、仁志は音を立て、フェンスを登り始めた。
転落防止のため高く作られたソレを、躊躇いもせず、すいすいと登っていく。
これまで何度も屋上でやり取りをしてきたが、こんなことは初めてだ。
さすがに開いた口が塞がらない。
「私は露出狂ではないわ」
――知ってるわ、あれは単なる煽りだボケ。
――ていうか、今思いっきり見えてンだよ、やっぱり露出狂じゃねえか。
そんな言葉も、今は出てこない。
とうとうフェンスを登り切ったので、気が気でなく、会話なんてしていられなかった。
「元々、この屋上は立ち入り禁止。なのに職員室に忍び込んで勝手に合鍵を作り、たまり場にしている問題児がいる。それが発覚すれば委員長たる私も責任を取らされるから、内内に処理しようとしていたのよ。だからこの時間、屋上に入れることを知る生徒は私達しか居ないし、誰かが来る恐れもないから、スカートを抑えて下着を隠さなくても、問題ないと思ったのよ」
言いながら、仁志はフェンスを跨ぐ。
そして、先程よりもゆっくりとフェンスを降り、屋上の縁へと立った。
「ああ、でも、ここに立つと、下から見えてしまうかしら。だとしたら、少し――いえ、大分、恥ずかしいわね。やはり私は露出狂にはなれそうにないわ」
「いや、おまっ……何してンだよ!」
今も、びゅうびゅうと風が吹いている。
肩まで伸びた仁志の黒髪が、彼女の首にまとわりついた。
相変わらずスカートも派手に捲れており、簡素な下着が丸見えとなっている。
普段は鉄壁だというのに、今は隠そうともしない。
それどころか、強風に対してバランスを取ろうとする意思すら、感じられないように思えた。
「……やりやすいようにしてあげたんじゃない」
「あァ?」
動揺する私に、淡々と、告げてくる。
相変わらず底冷えするほど視線が冷たい。
だけど――――その口元は、どこか笑っているように見えた。
口元に大きな変化があるわけではない。
けれど何度見ても、笑っているようにしか見えない。
それも、こちらを煽るような笑みではない。
どこか淋しげで、何かから解放されることを期待するような笑み。
「私を、殺すんでしょう?」
ぞくりとする。
思わず飲み込みかけた唾が、喉に引っかかり下りてこない。
まるで、見えない何かに首を掴まれたようだ。
「それとも――今回も、責任から逃げるのかしら」
見えない何かに、今度は心臓を掴まれる。
謎のプレッシャーに押し潰されて、こちらが先に死んでしまいそうだ。
いつもの軽い悪態も、今は喉を通らない。
無責任な言葉なんて、二酸化炭素を吐き出すように、自然と吐き出せていたのに。
「……責任にも色々と種類があるわ。法を守ることも責任と呼べるだろうし、法を破ってバレた時に罰を受け入れるのも責任と呼べる。だから別に、貴女が未成年で煙草を吸っていようと、私はどうでもよかったの。法を守れと言うつもりもない。破って補導されるのは貴女の自由。貴女が自分の命を削ろうと、どんな生き方をしようと、それは貴女の勝手」
意図のわからない言葉を聞いても、脳がまともに理解をしない。
何故、こいつはこんなことを?
いや、それより、早くこちらに戻さないと、不味いのでは?
分かっていても、声が出ない。完全に、呑まれている。
「貴女は、貴女の責任において、貴女の人生を自由に生きる権利がある」
嗚呼――そういえば、風の噂で聞いた気がする。
こいつは、良家のお嬢様で、厳しい教育を受けていると。
責任責任五月蝿いのも、やたらと厳格なのも、そうなるよう躾けられたからだと。
そんな家庭で厳しく育てられたのだ。
当然、それはもう有名な私立大学へと進学するよう、親から言われていたと聞く。
浪人は一族の恥晒しなので、他者の世話など焼かずに勉強に打ち込むよう、何度も注意されていたと、クラスメートが噂していた。
そして、「絶対に現役で合格するから」と、護身術の習い事も委員会活動も続けていたと。
「だから、制服姿での喫煙と、学校での喫煙だけを咎めていたのよ。それだけは、周囲に迷惑がかかる。バレた時に、貴女一人の責任じゃなくなるわ」
私は、どうせ高卒で働くことになるだろうから、全然知らないのだが――私立大学というのは、そろそろ合格発表の時期なのではないだろうか。
ここ数日、進学先の報告に訪れる生徒が増えていることは、屋上に居ても何となく気が付いていた。
それは、つまり、こいつの受験の結果も出たかもしれないということだ。
「……今私が自らここから飛び降りたら、家族をも巻き込んでしまうでしょうね。私を追い込んだのは両親ではないか、なんてね。マスコミも騒ぐかもしれない」
それが意味することは、つまり――――
「そうすると、私だけの責任ではなくなってしまうの」
――――彼女が、自分の言葉に責任を取るときが来たかもしれないということだ。
「賢い人なら察してくれているだろうけど、貴女馬鹿だからはっきり言うわね。私を殺したい貴女に、私を殺すようお願いしているのよ」
聞こえてくる言葉を、ちっとも脳が受け付けない。
代わりに、仁志との思い出がフラッシュバックする。
嗚呼、そう言えば――本気で一度腹を立てて、死んでもお前に屈しねえなんて、吠えたっけ。
それで、こいつは言ったんだ。
「命を賭けて貴女を更生させる、なんて言ったのに出来なかった。その責任も取れるし、貴女に殺されるなら、満足よ。更生させるどころか、人殺しまでさせてしまうなんて、末路として相応しいでしょう?」
クソ、勝手なことを言いやがって。
お前は、ほんと、いつもそうだ。
一方的に言葉を投げかけ、私の感情を逆なでする。
脳裏をよぎる思い出も、腹立たしいものばかりだ。
くたばれとも、死ねとも、沢山言ってきたように思う。
「貴女だって、クソとしか言えない女を殺したいのでしょう?」
だけど、本当に殺したいほど、憎んでいたわけではない。
毎日私とツラを合わせて会話をしてくれるのは、こいつくらいだった。
屋上に逃げてる私を追いかけてきてくれるのは、こいつだけだったのだ。
だから――嫌いだけど、死んでほしかったわけではない。
「それとも一生、貴女は自分の吐いた唾から逃げ続けるの?」
嗚呼、だけど――――彼女の、願いは、“そう”なのだ。
そして口にした以上、私が断ったとしても、いつかは実行される。
それが、責任の二文字に縛られた、目の前のクソ女なのだ。
「更生まではしなくても、少しはマシになったところ、最後に見せてくれたって、いいじゃない。付き合いだけは、長いんだから」
殺したくはないムカつく女が、最期の相手に私を選んだ。
事故を装うでもなく、私の責任において、「殺せ」と言った。
きっと、ここで彼女を突き落とせば、一生その責任は付き纏うだろう。
「あいつが押せと言った」なんて言葉では、逃れきれない責任が。
「さあ――――どうするの、関さん」
大嫌いだけど、殺したくはない。
気に入らない奴だけど、願いは叶えてやりたい。
相反する二つの気持ち。
選択するのは、私だ。
私が、私の責任において、選ばなくてはいけないのだ。
「私、私は――――」
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