やぎさんゆうびん -救済-

暗く、そして険しい闇の中を一人の少女が一歩一歩と下っていた。

其処はこの世の果てとも言われる場所。

アンデドリュータ大陸の北端。

一切の生命がいないと言われる灰褐色で塗りつぶされた名を失った山脈の足元。

本当にそれが?と疑うような何の変哲もない小さな洞窟の先の先。下りに下った先。

どんな迷宮よりも深く、どんな迷宮よりも無感情で、どんな迷宮よりも陰鬱。

ただ一言。地獄へとつながる道と言われる其処は”魔王“の寝床であった。


魔王――この世界ではただそうと称される闇の存在。

それはこの世の全ての負の感情の源だとも、あらゆる不幸の原因だともされている。

人が諍い合うのも、飢えて死ぬ者がいるのも、人々が堕落し退廃することも全てがこれのせいだと。

およそ百年の間隔で魔王はこの世界に、決まった場所に現れる。

そして同時に世界に異変が起きる。黴が湧くように魔や怪異が地上に滲みだしてくる。

水は濁り、畑に実っていた実は腐り、木々は葉を落とし、不快な匂いの風が吹きはじめる。

森の獣は気を狂わせ、妖精たちが悪意で人を襲い、見たことのない魔物が現れ脅威をもたらす。

人々は不安に慄き、人心は荒み、些細なことで刃を取るようになり、戦争も起きてしまう。

まさにこの世の終焉。魔王とはこの世の破滅を知らせるものに他ならなかった。

だが、幾度となく魔王がこの世界に現れようともこの世界は滅んではいない。


それは今、深い闇の中を一歩ずつ進む少女――デリス・デロ・フォルンテイトのおかげだ。

正しく言い直すならば、”女神“の加護を受けし人類の希望――勇者のおかげである。

この世を混沌と不幸の泥に浸す魔王がいるならば、この世には人類の平穏を守護する女神がいる。

魔王が現れれば呼応して女神は人々の前に奇跡として現れ、人類から一人の勇者を選ぶのだった。


デリス・デロ・フォルンテイト。若年16歳。

大陸の中で一番の覇を誇るファバ=イーダ王国の第一の王女その人である。

女神の啓示を受け、神器を賜り、賢者に導かれ、それから数々の試練を超えて今ここにあった。

旅立つ時こそ卸したてのマントと腰に下げた長剣を引きずる姿は頼りなかったものの、

今では腰まであった豊かな髪を切り落とし、剣呑に前を見つめる眼はもう戦士そのものだ。

すでにその剣によって百を超える魔物の大将が首を落とされている。彼女はまさに勇者であった。


勇者であるデリスは首から下げた「断罪の剣」を手の中に握る。

それはペンダントであり小指の先ほどの小さな鉄片でしかないが、第一の勇者が遺したものだという。

これを握ればデリスの中にどんな絶望にも物怖じしない勇気が湧いてくる。

これがあれば例え一切の光がなくともどんな暗闇でも見通すことができた。

どのような悲惨な光景を目の当たりにしようとも心を再び奮い起こすことができた。

辛く長い旅路の最中、来た道を戻りたいと思った時もこれがデリスを助けてくれた。


賢者は言った。「勇者とは剣先」であると。

女神に選ばれしデリスは”希望の切っ先“。彼女を後押しするのは人類が持つ全ての願い。

勇者は常に一人であり一人でなくてはならない。だが、勇者は決して一人であるのではないのだ。

全人類の願いを束ねた巨大な希望の剣。魔王すら両断するその剣の切っ先こそが勇者なのである。

だから、デリスは何も恐れない。何も不安と思わない。決して何も疑わない。

なぜならこれはたった一人の蛮勇ではなく、救うべき民、人々、この世界そのものの総意なのだから。


 ・


遂に、勇者は魔王と対峙した。

しかし、”それ“はなんなのだろう。”それ“がなんなのか、デリスはよくわからなかった。

それは巨大である。巨大な空間があり、そこに巨大な魔王らしきものがあるとわかる。

けど同時にそれはただ目の前に立つ一人程度のものにも見えた。

そこにこちらを見つめる陶磁器のような白い仮面の顔があった。

いや、その顔はあまりに巨大でそしてあまりに遠くにあるので小さく見えただけかもしれない。

その姿は曖昧模糊でとらえどころがない。同時にはっきりと人間と変わらぬ四肢があるとわかった。


デリスは断罪の剣を握る。しかし勇気は湧いてこない。むしろ今はその逆であった。

全く見通せない闇の中にチカチカと火が灯る。それは魔王の瞳の色だったかもしれない。

光が滲み、揺れ、香りが漂う。獣の死骸が腐ったような匂い。母の胸元で嗅いだような匂い。

いつの間にかに足元は水のようなものの中に浸っていた。

刺すように冷たく、しかし泡の中のように感触はなく、それは水かそれとも自分が溶けているのか。


”手“が伸びてきた。

デリスはもう怖くて怖くて仕方なかった。けどここから逃げ出そうとも思えなかった。

未だに自分は勇者であり全人類の希望のその切っ先であった。

誰かが背中を押している。魔王に向けて勇者を向かわせようと押している。

人々の希望。みんなの希望。乳母の顔が思い浮かんだ。そして前線を指揮してた隊長の顔。

人間同士の戦争で親をなくした子の顔。その子を引き取ったみすぼらしい教会の司教。

ひとつの川に橋を渡す為だけに亡くなった幾人もの人達。自分の手を握って死んだ人達。


自分の背中を押す彼らの想いは、熱い激情ではなかった。不幸や苦痛への怒りではない。

そう。その想いは”安心“だ。全ての人々が勇者へと向ける感情は”安心“。

今の苦痛が消えさる安心。未来へのあらゆる不幸の予感が消え去る安心。

女神に選ばれたたった一人の勇者に任せられるという――”安心“。


 ・


第一王女を勇者として送り出してからちょうど七か月目。

ファバ=イーダの王都は喜びと勇者を讃える声に満ち、昼夜を問わず歓喜の歌が響いていた。

空を覆う暗雲は一切が消え去り、魔物は姿を消し、水に清らかさが戻った。

誰の目にもそれは勇者デリス・デロ・フォルンテイトが魔王を倒したことに他ならなかった。

人々は笑う。喜び、笑い、また喜び、繰り返して笑う。負の枷から放たれたことを歓喜する。


女神の啓示によれば魔王を倒した勇者はそのまま女神の元へと召されるらしい。

そしてこれまでの勇者と並び、天上から人々に祝福と守護を与えてくれるのだと。

民は盃を天へと突きだす。勇者デリス・デロ・フォルンテイトに感謝と祝福を――と。


 ・


都から馬で二日ほどの距離にある賢者の塔。その中の一室で賢者は青い空を見て息を吐いた。


賢者――ノミュオル・エイマダ・グラセレテリン。

数百年を生きる老齢だというが真実は誰も知らない。知られているのは賢者であることだけ。

此度の勇者に魔王の元へと辿り着くための術と知識を授けた人物である。

前回の時も彼をそれが行ったと古い書物に記されていた。


「些か不安であったが、今回も無事送り届けられたようでなによりだ……」


安楽椅子に身を預けながら、皺だらけの賢者は心底ほっとしたというように言った。

そんな様子を見て彼の若い弟子(と言ってもすでに五十を超えている)が訝しむ。


「勇者が魔王を撃ち滅ぼすのは、女神の力をもってしても絶対ではないのですか?」


確かに選ばれし勇者は幾つもの艱難辛苦に見舞われるだろう。

しかし女神の定めた勇者という存在はそれに勝ちうる存在であることも間違いないはずだ。

加えて、賢者というそれをこの世界で補助する者もいる。断罪の剣も彼が授けた。


「絶対――というものはこの世界にはない。もう、この世界には絶対はないのだ」


老齢の賢者はしゃがれた声で、何かを思い出し、諦めたかのようにそう零した。

そして恐らく”次“の時には自分はもういないと悟り、たった一人の弟子に全てを語ることにした。


 ・


――この世界はとっくの昔に神に見放されている。


この言葉はしかし正しくない。正しく言い直すなら、人は神を信じることができなかった。

ある時に神が世界を創造し、人類にこの世界を与えてから数千年。

人々は唯一絶対のその神の庇護の元、数を増やし、知恵をつけ、文明すら築いてみせた。

折に触れて神は人々に奇跡と恵みをもたらし、人々は神に高い信仰心を捧げていた。


そして神はある時、信徒を通じて人々にこう告げた。天国へ迎える時が来たと。

約束された幸福の国。善人だけが住み、神の傍で一切の苦痛と不幸もなく永遠を生きる。

これは既にいつか来うるものだと知らされていた。故に信仰心を高めよとも。


人々は歓喜した。歓喜のあまりに熱狂にすら至った。そして熱狂の後に彼らは恐れた。

果たして自分は天国に行く資格があるのだろうか?

果たして自分はそれほどの信仰心を持っていただろうか?

神は決してそんな篩をかけるとは言っていなかった。時が来れば全ての人は迎え入れると定めていた。

だが、誰かが疑い始めればそれは伝染病のように人々の間に広がっていった。

自分が正しくないと知る者は自暴自棄となり、半端な者は彼らをなじり自分が正しいと言った。

人々は信仰と正しさには序列があり、天国へ行くには資格が必用だと固執した。

なにもかもが、自分が他人よりかはましだと思いたいが為のことだった。


そして、これが蔓延すると今度は人々は神を疑いはじめた。

最初からそんなうまい話があるはずないと、ちっぽけな自分を守る為に神を否定した。

人々を欺く邪神だとも言い放った。邪神の言う天国とは地獄のことに違いないとすら言った。

おおよその人間が不安から心を苛み、内から信仰を手放した時、天国の門は閉じられた。


真なる神の意図がどこにあったのか、それを知る術はもうない。

ただ、神はその日を境にこの世界から消え去り、千年近く経つ今も姿を見せてはいない。


 ・


神が世界から姿を消して後、世界は人の悪心により歪められることとなった。

神の去った世界ではあらゆるものの理が人間の心に由るようになってしまったのだ。

疑心に満ち、虚栄に飾られ、信ずるに足りるものを持たない人々の心は世界を大きく乱した。

見たことも聞いたこともない魔物が地上に湧いて出てくるようになった。

吹き荒ぶ嵐が街を建物ごと吹き飛ばし、海竜が尻尾を振ればあらゆる船が海の藻屑となった。

死んだはずの者が立ち上がり、ただの斧が独りでに人の首を跳ね、酒は毒となった。

遠からず世界は滅びるだろうと思われた。思われればこの世界では現実になりえた。


その世界崩壊の危機に立ち向かう賢者達がいた。

一人は、ファルマーク・イユ・ネンデリセリオン。百を超えても少女のような人だった。

一人は、マブス・デージモーリン。寡黙であったが、その知は賢者の中でも飛びぬけていた。

その他に十数人の賢者がおり、ノミュオルもまた彼らの一員であった。


ファルマークは言った。世界の秩序を元通りにするには神の代わりを用意しなけばいけないと。

マブスはこう言った。神だけでは繰り返しになるので、不幸を司る存在も必要だと。

そうして生まれたのが”女神“と”魔王“。そして”勇者“という存在であった。


人々がこの不安定な世界を乱す悪心を、魔王は自らが根源であると定義しその道理で収集する。

女神は神の代理を標榜し、魔王の許容量を超えて悪心が溢れた時、はじめて勇者を選定する。

その勇者を突き動かす力は勇気や希望ではない。人々の”解決されて欲しい“という願望だ。

そして、勇者により魔王が倒されるという一見の物語が彼らにそれをもたらせる。

人々は、勇者により魔王が倒されたと信じるが故に、その”真実“で世界を元に戻すのだ。


 ・


賢者が語った真実に弟子は言葉を失い、そして考えたいと言って部屋を後にした。

残された賢者はしかし、彼がどう判断してもよいだろうと思った。

見込み通りに自分の後を継いでくれるもよし、逆にこの世界を見限ってくれてもよいと。


あれよりおよそ千年。賢者は何度も繰り返し女神と魔王の間で取り次ぎをした。

そして新しい勇者を送り出す度に二人の賢者に思いを馳せた。

女神となったファルマーク。魔王となったマブス。当時は全員が大いに反対したものだ。

どうして、システムの核が賢者自身でなければいけないのか。

女神と魔王。役割として自らを定義してしまえば、自我はその定義が固着するほどに失われる。

ただの犠牲であれば誰であって、いやそもそも人でなくとも可能であったはず。

ならば、彼女と彼女の意思。思惑はどこにあったのか。


「……この世が人々の信じるものによってできているとするならば」


この千年を記憶する賢者は考える。この千年で一切の不変であったもの。それは――。


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