【5年後】(文治2年=1186年)
西行にとって四十年ぶりの、遠出の旅であった。しかも六十九歳の老体である。彼が鎌倉に着いたのは夏も終わり、風が涼を運んでくる頃だった。
鎌倉の町は、もうすっかり完成していた。町の中央の若宮大路と段葛、そしてその奥の八幡宮もすでに威容を整えている。御家人たちの屋敷もできつつあり、民草の家々も大路小路に立ち並びはじめていた頃だ。
八幡宮の鳥居は海岸から一の鳥居、若宮大路中央の二の鳥居、段葛の終点の八幡宮前の三の鳥居とあった。西行は三の鳥居の前に立っていた。ひとりきりの旅である。
往来は庶民の姿も多く、西行の前をひっきりなしに通る。鳥居の下から八幡宮へと続く参道はすぐに池にぶつかり、橋板まで赤い太鼓橋とその左右にふつうの橋がかかっていた。池は瓢箪形に、左右に広がっている。その水面には、蓮が一面に繁っていた。
やがて庶民の群れが、ざわめきだした。宮に向かって右手の方から、人払いの声が聞こえて来た。そしてすぐに、おびただしい供をつれた行列が姿を現れた。
「来た」
と、西行はつぶやいた。
四十年前は素通りした鎌倉――それもそのはずで、当時は由比の元八幡と源義朝の小さな館があるだけの、ただの農村だった――今や都につぐ第二の都市――相模の国府すらしのいでいる――西行が今回はその鎌倉に、街道をはずれてまでわざわざ立ち寄ったのも、この男に会うためであった。
目の前の男――知己の清盛の平家一門を、西海に沈めた男である。八幡宮の鳥居の下に西行がたたずんでいるのを、頼朝の方が見つけて御家人に声をかけさせ、西行と名乗るや彼はたちまちこの営所に招き入れられた。
「御高名はうけたまわっておる」
頼朝はあくまで、居丈高だ。
「このような遠方にまで、この老いぼれ坊主の名が知られておりますとは、恐れ入ってございます」
頼朝は声をあげて笑った。今や諸国に、国司とはべつに守護や地頭を任ずる権力を、この男は有している。さらに早くに成っていた侍所の他に、
「この地へ必ずお来し下さるであろうことは、重源上人殿の御文にて存じておった。御老体の長旅、お疲れになったであろう」
「まだまだ、若い者には負けませぬ」
「して、せっかくのお来しだ。歌の道、ひいては弓馬武芸の故実など、御教授願いたい」
驚いたように、西行は顔をあげた。
「歌の道はともかくも、弓馬の道は……。なぜこのような仏僧に……?」
「御坊は俵藤太殿の、御末ということではござらぬか」
「いかにも、さようでは……。ただ、とうの昔に武門を離れましたゆえ、弓馬の道に関しましては全く忘却の彼方でございます」
西行は一度目を伏せ、すぐに顔をあげた。
「歌の道と申しましても心に興じた、たとえば花や月などを三十一の文字におきかえるのみです。
こうして西行の歌道論議が始まったが、結局は頼朝の誘導尋問に流され、遠い昔に忘れたはずの北面時代の記憶をたぐり、父祖伝来の武道の技までをも伝授していた。ともに食事をとりながら、談議は深夜にまで及んだ。頼朝だけは、酒杯を重ねていた。
その晩はそのまま頼朝の大倉邸に泊まり、翌朝退去した。頼朝はしきりに逗留を促したが、西行はあえて辞して旅を急いだ。頼朝は餞別にと、銀製の猫の置物をくれた。それを手に西行は大倉邸を出て公文所の塀ぎわを歩き、やがて昨日の八幡宮の鳥居のところまで来た。ここからまっすぐに、若宮大路が海までのびている。
西行はまわりに、庶民の子供たちが群がってきた。目当ては彼が手にしている。銀の猫のようだ。
「お坊さまあ。その猫、どうしたの?」
子供は遠慮がない。西行は笑って立ち止まった。
「これかい? もらったんだよ」
「誰にィ?」
「おじちゃんの昔のお友達を、殺した人にさ」
「ええッ! 恐い人ォ? その人のこと、怒ってないのォ?」
「もう怒ってなんかいない。仲良しになった」
「ええ? なんでェ?」
「時の流れが、解決してくれたんだ」
子供たちは、首をかしげていた。
「坊やたち。この猫、ほしいかい?」
「ほしい!」
子供たちが一斉にはしゃぎだしたので、西行はその猫を子供たちに与えた。そして、一人一人の頭をなでた。そのまま子供たちは礼をも言わずに、嬉しそうに騒いで去っていった。
銀の猫は与えた。だが、与えてはならない頼朝からの賜わり物は、しっかりと西行の懐の中に入っていた。奥州金を鎌倉を経ずに、直接都に搬入してもよいという許可状だった。昨夜、一晩がかりで手に入れた。もちろん、交換条件もあった。もし九郎判官義経が平泉に現れたら、すぐに鎌倉へ通報するということだった。それには西行は、空返事だけをしておいた。今は奥州へ急ぐしかない。そのまま彼は侍所別当の和田小太郎義盛の屋敷の塀づたいに横大路を西へと進み、
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