【4年後】(治承3年=1179年)

 市の雑踏は、西行が若い頃のままだった。変わったことといえば、市を見下ろしていた東寺の五重塔との間に、大屋敷が出現したことであった。

 八方町にも及ぶその屋敷は、いわば平安京史上未曾有の巨大邸宅といえた。かの御堂関白道長の屋敷でさえ、たった二町の規模だった。八町といえば神泉苑や、朱雀院と同規模だ。違いといえばそれらが南北の縦長であったのに対し、平相国入道清盛の西八条邸は横長であること、また大半が森林や庭園園地である朱雀院などと違い、西八条邸は敷地いっぱいに所狭しと建物がひしめきあっていることなどであった。

 老僧西行は通された寝殿南面で、あるじのお出ましを待っていた。案内あないされなければ、どれが中心の寝殿かもわからないほどの巨大さだった。

「久しいのう」

 本当にこれだけの屋敷のあるじかと思われるような、小柄な老人が出てきた。昔は背は高かったはずだ。背中が丸まった分だけ、縮んで見えるのであろう。

 西行は両手をついて、平伏の形をとった。

「おいおい、やめてくれよ」

 気さくさは変わっていない。昔と同じように上座には着かず、西行の横に座った。それでも西行は、平伏をやめなかった。

「本日は高野山全体の総代としてまいりましたゆえ、その義が終わりますまではなにとぞ、入道相国殿でおわしてくだされ」

 しかたなく清盛は、上座に着いた。

「されば」

 目をあげた西行は、言葉を止めた。目の前の旧知は、老人以外の何ものでもなかった。おそらくは髪も、総白髪になっていよう。だがその頭髪も今はない。西行と同じ僧形だ。だが眉の白さで、十分そのことは推察された。

「されば?」

「は。この度、高野山領が紀伊日前宮ひのくまのみや御造営の、費用負担を命ぜられました件でございます。実はただ今のところ山の方と致しましては、蓮花乗院の造営、根本大塔の再建など、数重なる出費にほとほと困窮しているところでございまして、しからば……」

「わかった、わかった」

 清盛は脇息に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。

「兔じてくれと言うのだろう。旧友に頼まれて、いやと言えるものかよ。聞き届ける。頭中将とうのちゅうじょうにそう言っておこう」

「かたじけのう……」

 西行が頭を下げているうちに、清盛はまた元の西行の隣の座に戻った。西行も頭を上げた。

「ここへ来るまでに、市を通りましたよ。市は変わってはおりませぬな」

「わしも変わってはおらぬぞ。伊勢平太のままだ」

「なんのなんの、七年ほど前の福原の千僧供用にお招き頂きました時に、人道殿を拝見致しましたが」

「あの時は、話もできなんだな」

「まさしく入道殿は、時の人だと実感致しました」

 清盛は、大声をあげて笑った。

「こうなるといろいろと、風当りも強くてな。それにわが一門の若者も、血気盛んだ。とうとう法皇様まで、鳥羽殿に押し込め奉ってしまった。もう、このじじいの言うことなど、誰も聞かぬよ」

 清盛の笑いに力がなくなった。淋しさを含んでいるようでさえあった。

「今のわしの楽しみは、孫の東宮様の御成長だけだ。見てくれ、あれを。この間ここへおいでになって時に、東宮様がおあけになったものだ」

 清盛が指さした明り障子には、無数の小さな穴があけられていた。清盛はそれを西行に見せて、今度は無邪気に笑った。

「安心しました」

 西行も微笑んでいる。

「私は幸せでござる。世の人は人道相国殿しか存じ上げないが、私はそれと伊勢平太殿の、両方を存じ上げておりまする」

「わしは勢いに乗って、ここまで来てしまった。まさか自分の人生が、このようになるとは思ってもいなかったよ。それよりも、そなたこそ変わったな。歌の道よりほか何も興すべきものなしと言って突然出家入道したのに、今では勧進に歩きまわり、この度も賦役免除の嘆願に上洛するとは」

 西行は苦笑いした。

「内なるものは、変わってはおりませぬ。ただ例のあの事件で、仏弟子でありながら罪業を積んでしまった身ですから」

「遠藤の持遠の子のことか。あんな昔のことを……」

「あのころと私は変わりませぬ。ただ、変わりゆくものもあります」

 西行は少し、威を正した。

 

――消えぬべき 法の光のともし火を かかぐる和田の岬なりけり――


「福原の千僧供養の折の、わが詠歌です」

 清盛はしばらく黙っていた。少しだけ、顔を曇らせた。だがすぐに、元の笑顔に戻った。

「消えぬべきともし火・・・か。そうかもしれぬ。平家一門の栄華も、わし一代限りかものう。それでもいい。平家は大きくなりすぎた」

 清盛はため息をつく。西行は目を伏せた。

「私もこの度、高野山にはおられのうなりました。山は今、金香峰寺と伝法院が対立し、あるまじき殺生沙汰まで起こってしまいましてな、聖地が俗世と変わらぬありさまでは、もはやわが居場所ではないと……」

「興ずることなしか」

「いかにも。こうなった上は高野山を下り、伊勢あたりに草庵を結んで、若い頃のように遁世生活をしたいと思っております」

「伊勢は、わが祖のゆかりの地だ」

 清盛の微笑みに、西行も応じた。


 日前宮賦役免除の沙汰が正式に下りるまで、西行はそのまま都に滞在した。そのうち桜も満開になった頃、またひとつ世の中が変わった。清盛の外孫である三歳の東宮が、帝として即位されたのである。

 その後すぐに、高野山領の賦役免除の沙汰が下った。西行はそのことを書状で高野山に知らせ、清盛のために一山あげて百万遍尊勝陀羅尼を誦するように指示しただけで、清盛への言葉通り自らは高野山には戻らなかった。

 

 その年の、法皇の御子の以仁王や源頼政の挙兵とその鎮圧、そしてそのすぐあとに都が都でなくなったことも、西行は伊勢二見浦の草庵で聞いた。都は福原へと遷されたのであった。夏の盛りだった。


――雲の上や 古き都になりにけり すむらむ月の影は変はらで


 源頼朝、義仲が挙兵し、都は福原から元の都にと戻った。そして西行は、賦役免除の嘆願が、清盛との今生の別れとなってしまったことも知った。

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