【19年後】(承安5年=1175年)

 更衣ころもがえも過ぎて冬を迎えたというのに、汗ばむような陽ざしが一面田圃の盆地に照り付けていた。田の稲はすでにほとんど刈り取られており、藁が円錐状に束ねられて並んでいる。二十歳そこそこの若い武士の乗る馬のくつわを取っている従者の額にも、汗がにじんでいた。

 行く手には、山脈が横に長く居座っている。垂直に立つ屏風のようでもあるその山脈の麓に、少しばかりの集落があった。細い道はそれを抜けて、山の中へと続いていく。集落を過ぎ、ほんの少しだけ山の方へと登って、いよいよ密林の中へ道は入っていくのかと思った矢先に、武士は目指す庵をやっと見つけた。それは驚くほど巨大な岩の脇の小さな石段を、道からそれて少し登った所にあった。

「お頼み申す!」

 武士は自ら、庵の中に声をかけた。

「誰だ!」

 周りの木々も揺るがすかとも思われる大音声おんじょうが、粗末な庵の中から聞こえてきた。

「千葉の六郎でござる」

「おお! おお!」

 相好を崩して出てきたのは、年の頃は三十半ば、僧形そうぎょうはしているがその法衣も汚れにまかせて破れたもの、髪もざんばらにのび放題の男だった。

 六郎と名乗った若者は一瞬その顔をのぞきこむようにしたが、すぐに相好を崩して、

「僧形ははじめてお見受け致しますが、まぎれもなく義兄上あにうえだ」

「どうしたのだ。都にいたのではなかったのか?」

「国元の父上のご機嫌伺いのため、少しだけ暇を頂いて下総へ下向する途中でして」

「それにしても、よう忘れずに。ま、上がれ……と、言えるような所でもないがな」

 僧は豪快に笑った。

「それより、水を下さいませんか。喉がからからで。従者たちにも」

「水ならあそこに、いくらでもある」

 今まで気づかなかったが、庵の前の道の反対側、杉林の中の低い所を、清水が小川になって流れていた。石の多い流れだ。

「しからば、しばし御免」

 千葉六郎と名乗った胤頼は、従者とともにその小川の急流の所まで下りて、喉を潤した。その間、僧は巨岩の脇の石段の下に、仁王立ちに立っていた。ただ、顔だけは優しかった。

「いや、生き返り申した。それにしてもこの季節に、この日照りとはいかにやいかに」

「冬と言っても、紅葉さえまだの時分だからな」

 僧は上を見上げた。それにつられて庵の上の方を見た胤頼は、思わず嘆息した。庵のちょうど背後から一本の楓の木が、屋根に覆いかぶさるように枝を伸ばしていた。他はどこを見ても杉の木立で、庵の背後の高くなっている斜面には若干竹林もあったが、楓の木は他には一本も見当たらなかった。一本だけの楓の木は、今はまだ葉は全部緑色だ。しかしこれが一斉に紅葉したらと思うと、思わずため息が出てしまう。

「来るのが、少し早かったかな」

 と、僧はまた笑った。

「ここへ来てまる二年。来た年も去年も、この紅葉には心が慰められた。それにこの清流だ。高尾や栂尾とがのおの風情と、何ら変わりがない。何のためにわざわざわしをここへ流したのかなと、疑問を感じたりもするよ」

「高尾といえば、神護寺の再興のこともお弟子さんが中心となって、着々と進んでおります」

「そうであろう。安心して任せられる連中だ。わしがいなくてもうまくいくさ。わしはもう少し、ここの風情を楽しもうぞ」

「それにしても」

 胤頼はもう一度、あたりを見回した。山の中腹とはまだ言えないくらいのほんの登り口に、この庵はある。それでも少しは登ってきたから、盆地がよく見渡せた。盆地の向こうには、山々が霞んで見えた。

「伊豆の山は、妙な形をしているものが多いですね。都の山のような優しさがない。どちらかといえば男性的な、そう、近江の山と少し似通っているといえましょうか」

「ここには湖はないよ。この盆地の向こうの山は、あっちもこっちもその向こうは海だ」

 また僧は、笑い声を上げた。そして、胤頼を見た。

「それにしても、よくここが分かったな」

「探しましたよ。いろいろ聞きまくって、やっと見つけたといった感じですから。それに、聞こうと思っても、そもそも人がほとんどいないじゃないですか」

「静かな里だよ」

 それだけ言って僧は、胤頼を促して庵への石段を登った。

「わが妹は息災か」

 と、僧は聞いた。

「はい。妻も義兄上あにうえの身を案じております。それにしても、何ともお傷ましい。まるで世捨て人の草庵ではありませんか」

流人るにんだ、わしは。ここは流人の配所なのだよ。当たり前ではないか」

「お暮らしにお困りは?」

乳母子めのとごが都から、食うものは届けてくれる。近所の人びとも布施してくれるしな。そんな時は、坊主でよかったと思う。そなたまでもが忘れずに、こうして来てくれた」

「忘れるものですか」

 庵の板の間の上で対座した二人の間に、風が吹き込んできた。身の回りの世話をしている小僧が二人ばかりいて、胤頼に白湯さゆを出した。恐らく都の栂尾あたりから追ってきた小僧であろう。

義兄上あにうえのお父上、つまり私のしゅうと殿どののご推挙で、私は上西門院様にお仕えすることができたのですから」

「上西門院様か。もう十七、八年も前だな。わしもその方に仕えていた武士だった。そしてあの事件だ」

 僧は目を伏せ、しゃべり続けた。

「わしは煩悩を断ち切ろうとして、断ち切り方を間違えた。それがまた、煩悩を呼ぶことになった。今でもまだあの女の怨念が、わしの身にまとわりついているような気がする」

「しかし義兄上あにうえ。今、義兄上あにうえのお顔は、とてもお優しい。院の庁の法住寺殿まで、神護寺再興の勧進かんじんを直訴して大暴れされたかつての北面の武士、遠藤盛遠もりとお様とは……」

「今は文覚もんがく。そう呼んでもらおう」

 僧となって文覚と名乗っているかつての遠藤盛遠は、少しだけ苦笑した。

「滅罪のためと、一途だったのだよ。何しろ、那智で一度は死のうとした身だ。いや、あの時わしは、一度死んだのだ」

「それは初耳ですが」

「渡辺左衛門尉のお内儀の事件のあと、わしは自分のしたことを悔いて那智の滝に身を投げた。その時は那智権現ごんげんの寺僧に救われたが、真にわしを救ったのは大聖不動明王だと信じている。死ねなかったのだから生きるしかないと、その時思ったんだ。生きて償うしかない。そこで六根ろっこん清浄しょうじょうはらえ給えきよめ給えと、葛城、大峰山と修行してまわった」

「そのお心が神護寺再興の発願と、この伊豆への入る元となった院への直訴となったのですな」

 しばらく感じ入ったように、胤頼は何度もうなずいていた。そして間をおいてから、思い切ったように切り出した。

「勧進は、六波羅へも?」

「いや、なぜか行く気がしなかった。わが父持遠と六波羅の入道にゅうどう相国しょうこく、かつての伊勢平太とは、父が若い頃には入魂じっこんの仲であったとは聞いていたが、それだけに……。わしは父に顔向けができぬ身だ。父の入魂の相手の所へなど……」

 胤頼の目が、少し光った。

「ようございました」

「おや、なぜ?」

「六波羅の入道殿は、わが千葉家の主のかたきにございますれば」

「入道殿が敵? 入道殿は中納言ちゅうなごんからあれよあれよと太政だいじょう大臣だいじんになり、出家入道された今でも、平家一門の揺るぎなき中枢と聞いてはおるが」

「千葉家は血筋こそ六波羅殿と同族ですが、早くから源家と代々よしみを通じてまいりました。その源家の左馬頭さまのかみ義朝よしとも殿と平治のいくさの折に敵対し、義朝殿を討ったのが入道清盛めにございます」

「平治の戦の時にはわしはもう都におらなんだから、そこのあたりは詳しくは知らないのだが」

「時に」

 胤頼は、膝を一歩進めた。

すけ殿どのとは、お会いになりましたか」

「誰かね、それは」

 ひと呼吸おいてから、胤頼は言った。

「今言いました義朝殿のご嫡男の、さき右兵衛のひょうえのすけ殿です。平治の戦で捕らえられて、この伊豆に流されております。それも、ここからすぐの所なんです」

「それは知らなんだ。もっともこの伊豆の地はいにしえより流人の配所だから、同じ土地に流人が二人いてもおかしくはないが……。わしとその佐殿とやらがここに流されたのも、前例によってであろう」

「しかし、それを利とせずにかずです。お会い下さい。今からご案内申し上げます」

「今から?」

「半時もあれば、行かれますよ。実はすでに私は、佐殿とお会いしてきたのです。ここへ来る前に」

「しかし、わしなんかが会ってどうする。利とせずに如かずって、わしがその佐殿とかに会ったからとて、わしに何の利があるというのだ?」

「清和源氏のご本家のご嫡男ちゃくなんですよ。それがいつまでも、この地に埋もれておられるなんて……。義兄上あにうえからも、そのことをお諭し頂きたいのです」

 文覚ははじめは渋っていたが、仕方なく腰を上げた。そして胤頼とともに表に出た。折りしも肩の上に落ち葉が一枚、さらに前方に一枚漂って落ちた。


 流人とは言っても、行動は比較的自由である。伊豆の国を出さえしなければよいのだ。監視役の伊豆の国府も、ここからはかなりの距離がある。

 集落をぬけると、すぐに平地となった。胤頼は自分の馬に文覚を乗せ、自らくつわを取った。山に囲まれていても、広く感じられる平野である。背後は壁のように感じられる緑に覆われた山脈で、前方には平地の向こうにわずかに、胤頼が言ったような奇妙な形の小高い山々が見えた。

「ここでは、時が止まっているようですね」

 歩きながら胤頼が言う。

「静かだ。静かすぎますよ」

 確かにもうだいぶ歩いているのに、人間というものに全く出会っていない。

「流刑の地だからな」

 と、馬上の文覚。

「でも、時の流れはやがて、この土地にも押し寄せてまいりましょう」

 文覚はそれには答えず、右前方の国府のある三島の方角の空を仰いだ。

「本当なら」

 と、文覚はその方角を指さす。

「あのあたりに、富士の山が見えるのだ。煙もはっきりと見える。今日は晴れてはいても、あのあたりにもやがかかっているから見えぬが」

 そんな話をしているうちに、本当に半時もしないうちに河原に出た。狩野川だ。ここに来るまでは、山脈から張り出した尾根の続きの小高い丘を迂回してきている。直線距離ならもっと近いはずだ。

 盆地のほぼ中央を流れる川の流れの中を、胤頼は文覚に示した。

「あそこです」

 川は一本の流れではなく、河川敷の中を気紛れに分流したり合流したりして、いくつもの中州を作って北上している。それぞれの中州には水田もあり、わずかな民家もある。胤頼が指さしたのは、そんな中州の一つだった。そこまでは小さな橋も架かっていた。

「あの田島がひるが島といいまして、あそこに佐殿はおられるんですよ」

 胤頼は心なし気持ちがはずんでいるようにも見えた。


 配所とはいっても、仕える人は結構多かった。文覚が胤頼に引き会わされた佐殿――頼朝は、まだ三十みそじには至っていないようだった。武家の棟梁の嫡流とはいっても、どこか貴族的な――すなわち女性的な物腰ものごしの男であった。その顔はあまり上機嫌には見えない。嬉しそうなのは胤頼だけだ。

「こちらはわが妻の兄上で、私が師壇と仰ぎ奉っております文覚上人様でございます」

 胤頼は文覚を、そう頼朝に紹介した。文覚ははにかんだような苦笑を見せた。

「おいおい、いつからわしはそなたの師壇となったのだ?」

「先程からです」

 笑みを含んだ顔で、けろりと胤頼は言う。その間、頼朝は黙ったままだった。

「佐殿は、ここへ来られてからどれくらいに?」

 と、場がもたないので文覚の方から、頼朝に話しかけてみた。

「十六年になります」

 文覚はそのあと、じろじろと頼朝を見た。今はもういい大人であるが、十六年前に来たというなら、来た頃は少年であったはずだ。この静かな盆地で、少年は黙って「いい大人」になってしまったらしい。

「ここでの暮らしは、いかがかな」

「まあまあです」

 何とも気の抜けた返事だった。

「毎日、何をしてお暮らしで?」

「恋をしております」

 突拍子のない答えに、文覚はその先の問いが続かなくなった。

「佐殿!」

 代わりに、胤頼の大声が狭い配所に響いた。

「都の現状をご存知ですか。佐殿をここに流した入道清盛はその娘を帝の御もとに入内じゅだいさせ、皇后に冊立したのですぞ。これでは摂関家と同じだ。佐殿はそれを、ここで黙って見ているおつもりかッ!」

「私は忙しい」

「何に忙しいと言われるのです!」

「恋に忙しい」

 胤頼は下を向いた。

「まだお懲りにならないのですか。はるか山を越えて、東海岸の伊東の地まで女のもとに通われた挙げ句、その父親に殺されかけたことは聞いておりますぞ」

「今度は近くです」

 頼朝は無表情で立ち上がった。そして縁越しに、外の遠くを見た。

「あの守山の麓に」

 頼朝が指さしたのは、東の山脈とは反対側の小高い丘の方だった。ここは盆地の中央で、四方の見晴らしはよい。

「北条のやかたがあります。そこの姫です。もっとも向こうの方が、だいぶ私に熱を上げているようですが。何しろもう、二十歳の年増としまですから」

 初めて頼朝は、微かな笑みを見せた。

 胤頼は肩を落とし、ため息を吐いた。そして黙ったまま文覚に向かい、小さく首を左右に振った。

 文覚は一度目を伏せてから、すぐに顔を上げた。

「恋! 結構! 大いに恋をしなされ!」

 文覚はまた、地響きがするくらいの声で言った。隣では胤頼が、困惑したような表情を見せていた。それには、文覚は全く構わずにいた。

「恋を断ち切ろうとして、道を踏み外すよりずっといい!」

 そして文覚は、ひとしきり笑い声を上げた。そして、

「時に佐殿は十六年前、こちらに来られる前は都で何をされていた?」

「上西門院様に、蔵人としてお仕えしておりました」

「おおっ!」

 またもや文覚の大音声が響いた。文覚とて出家前は、鳥羽院の皇女で後白河院の姉であり准母の上西門院統子むねこに仕える北面の武士だったのである。もっともこの顔に見覚えはないし、統子を上西門院と院号で呼ぶということは、文覚出家後の補任ぶにんであろう。文覚出家の時点で、統子はまだ院号はなかったからである。それでも文覚は感慨深そうに、かつて同じ主人に仕えていたことのあるこの若者を見つめていた。

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