【翌日】
石橋である五条の橋は、まだ真新しい。本来ならこの橋の上は、行く手に見える清水寺へ参詣に行く人たちでにぎわっているはずだが、この日は武装した雑兵の行き来がやたら多かった。
西行はそんな橋の上から、東の岸を見た。いくつもの屋敷が、軒をつらねている。そのすべてが、今や六波羅殿なのだ。かつて破格だといわれた方一町どころの騒ぎではない。そしてその父も亡き今、
門の前に立った西行をはじめは兵たちがとどめたが、高野山の上人であることを名乗ると、兵たちの態度も変わった。
「早く取り次いで参れ! 歌人としても名高き、西行法師様ぞ!」
ひとりの兵が、もうひとりの若い兵を叱りつけた。
やがて西行は、対の屋の一室に通された。清盛はなかなか来ない。西行はまた懐から扇を出して、自ら風を起こして涼をとっていた。
「すまん。待たせた。いや、久しいのう」
そんな声とともに、平太清盛は入ってきた。そのまま上座には着かず、西行と横に向かい合うところへ自分で円座を移動させて座った。
「おお、まさしく義清だ。かつての左兵衛尉だ。なつかしいな。面影はある。噂も聞いておるぞ」
「六波羅殿も、変わっておりませんな。ご身分はたいそう出世されたようだが、そのわりには」
清盛は声をあげて笑った。
「出世といったって、安芸守から播磨守になっただけだ。それにくっついて、
「やはり出世された、しかし昨日は、年をとったことを実感させられましたよ。かの持遠のお子が赤子の時に、この子が成長した暁には我らも年を取っているだろうなどと言っておりましたけど、あの赤子が十八ですからな」
「持遠の子……」
清盛の顔が曇り、眉が動いた。
「実はおぬしを、いや、やはり御坊とよばせてもらおうかな」
「いえいえ、そんな。昔のままで結構です」
「そうはいかぬ。御坊と呼ばせてもらうぞ。それで御坊を待たせてしまったのも、ひと騒動があったからなのだ」
「悪い時に参りましたかな」
「いや、御坊だからこそ、言っておいた方がいいかもしれない。俺が使の別当になって、はじめての事件がよりによって……」
検非違使の別当が対処しなければならない事件となると、それは刑事事件である。声を落として、ゆっくりと清盛は言った。
「実は昨夜、持遠の子が殺生沙汰を起こした」
「え?」
そのあとは西行は何も言えずに、かなりの間ただ目を見開いて清盛を見ていた。
「持遠の子が、だ」
と、もう一度、清盛は言った。
「どの、どのお子? 太郎君? 次郎君?」
「太郎君の小六
しばらく西行は、唇を震わせているだけだった。
「小六盛遠がだな、滝口の武士の渡辺左衛門尉
「人妻……」
しばらく西行はそのまま呆然としていたが、突然その丸頭をかかえこんだ。
「驚くのも無理はない。残酷のようだが、俺たちが三人で囲んでいた、あの時のあの赤子が下手人だ」
またしばらく無言が続いた後、西行はいつしか涙をこぼしはじめ、それがすぐに号泣へと変わっていった。清盛は困ったような顔をした。
「俺だってつらい。昔からの朋友の息子を、下手人として追わねばならないのだからな」
「違う! 違うんだ!」
ゆっくりと西行は、顔をあげた。そのあと突然、狂ったように泣き叫び、のたうちまわった。
「ばかだ、ばかだ! あいつはばかだ! 私はそんな意味で言ったのではない! あいつは誤解した。覚悟の意味を取り違えた。誤解させたのは私だ!」
西行の絶叫は、しばらくは手の付けられないほどであった。清盛はただ唖然としていたが、少しだけ西行に落ち着きが戻ったのを見て、その肩に手を置いた。
「いったい、何がどうしたのだ」
西行は泣きはらした目で、うつろに清盛を見た。
「盛遠は捕らえたのか」
「いや、今、八方手を尽くして探しているところだ」
「許してやっては、もらえぬか」
「そうはいかん。たとえ朋友の息子だとはいえ、勤務遂行に私情を入れるわけにはいかぬからな。残念だ」
「そうじゃないんだ!」
西行は座り直した。そして涙をぬぐうと、昨日の自分と盛遠とのいきさつを、すべて清盛に話した。
清盛と西行は、二人で同時にため息をついていた。
「煩悩を断ち切れとは言ったが、まさかこのようなかたちで断ち切るとは……。ばがだ、ばかだ、ばかだ、ばかだ! あいつは、ばかだ! あいつがこんな覚悟をしていたなんて……。私の責任だ。私が誤解をさせたのだから、私の責任だ。だから、頼む。私を捕らえてくれ。その代わり、あの若者を……」
「残念だ」
清盛は、ゆっくり首を横に振った。
「殺されたお内儀の夫のことや、遺族のことも考えねばなるまい。ここで放免したら、遺族たちの納得がゆかぬだろう」
西行はもはや、何も言うことは出来なかった。そしてまた泣きだした。四十男が子供のように、ただひたすら泣き続けた。
その時、六波羅邸の
「火急の用でございますれば、御来客中、御無礼つかまつります。ただ今ある男が、御門の番役にこの書状を」
「ある男?」
「なりは滝口の武士のようでございましたが、もとどりを切った
清盛は急に機敏になって簀子まで出ると、庭に畏まっている家司から書状を受け取った。
――
清盛は字を追ううちに、目を見開いた。すぐにそれを、西行に渡した。
――殺されたことも宿世。下手人を恨んでも、どうにもなるものでもない。これを機に、仏門に入りたいと思う。よって、下手人の詮索は御無用。下手人を捕らえたとて、自分にとっても亡き妻にとっても、何ら益するところが無い――
「何と悟りきったお方か」
清盛はつぶやいた。西行はもう一度、書状に目を落とした。
――左衛門尉渡
そんな署名と花押が黒々と、そして力強く紙の上で躍っていた。
その足で西行は、再び持遠の邸を訪ねた。しかし門は固く閉ざされており、いくら
しかたなく西行は、
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