【16年後】(保元元年=1156年)
持遠の邸をある中年の僧が訪ねてきたのは、都のあちらこちらで焼け跡が見られる頃だった。
「高野山の僧とかや。また何かの勧進にでも参られたか」
案内の取り次ぎにそれだけもらして来客と会った持遠は、その僧の顔を見るなりたちまちに顔色を変えた。
「
庭に立ったまま頭にかぶった笠を右手で少しあげ、左手で杖をついているのは、まさしく往年の佐藤太郎義清であった。
「おお、おお」
思わず持遠は裸足のまま庭までおりで、僧形となっているかつての朋友のそばに寄った。
「暑い暑い、とにかく中に入れてくれ」
「ああ、ああ。早く入れ」
持遠ははやる胸をおさえて、義清を中へといざなった。庭の木立には、うるさいほどの蝉の声があった。
義清は冷たい水などをもらい、汗をぬぐいつつ客間で扇を使っていると、やがて持遠が出直してきた。
「久しぶりだなあ。都にいたのか」
「半月ほど前に、出てきたよ」
「じゃあいちばんごたごたしていた時に、出てきたわけだ」
「いささか、くたびれた」
しばらくは互いに、年月とともにかわってしまったそれぞれの顔を、つくづくと眺めていた。義清はふと苦笑をもらした。
「老いたな。あの若者がこのような老体になるとは。な、右馬允」
「老体は早かろう。いずれにせよ、お互い様だ。ところで今は、もう
「そう、出家した時に、法名は円位とつけた。だが、今では西行と名乗っている」
「噂は聞いているよ。けっこう有名になったな。勅撰詞華集の詠み人知らずの歌の一首が実はおぬしの作であると、もっぱらの評判だ」
「別に、自ら望んでのことではない」
「とにかく、元気そうで何よりだ。あの突然出家した時は、肝をつぶしたがな」
義清――西行は、少しだけ苦笑を浮かべた。
「自分でも、若かったと思う。だが、間違っていたとは思っていない」
「それでいいのだ。そのような生き方があってもいい。俺などは年は取ったけれども、中身はあの頃とちっとも変わってはない。変わったといえば、世の中だ。おぬしも都にいたなら知っているな」
「ああ」
少しだけ笑みを消して、西行はうなずいた。
「出家してすぐに、高野山に入ったのか?」
「いや、しばらくは都にいた。洛外の東山などに庵を結んでいたが、世を捨てておきながら都を離れ得ぬ自分の、中途半端な気持ちに嫌気がさしてね。人間が嫌で世を捨てて、結局は人間を恋しがっている。人間なんてそんなものだ。だから自分を見つめるために、陸奥の方に歌枕を見に行っていたんだよ」
「陸奥?」
「奥州の平泉には、同族がいるからね。もっとも、俵藤太までさかのぼれば系図がつながるという程度の、そんな同族だけれどもな」
「おぬしとは昔はよく喧嘩もしたけれど、今となってはおぬしのことがなんだかうらやましいよ」
「うらやましがられるような、自分なのだかどうだか。とにかく陸奥より戻ってから高野山に入って、そこで
「で、都へは?」
「一院の御葬送のために」
「なるほど、やはり北面時代の恩義を忘れずにか」
「いや」
西行は、首を横に振った。
「北面時代は目もかけてもらえない一武士だったけど、僧形となって歌に専念できたお蔭で、もったいなくも一院にもお目をかけて頂けた。御大葬にも参列を許された。武士のままだったら、考えられないことじゃないか」
「それであの新院の御謀反だ。やはりなという感じだったよ。おぬしも武士であったら大変だったな。なにしろ、板ばさみだ」
「それは結果として免れ得たにすぎぬ。意図してのことではない」
いつしか西行は、真顔になっていた。それにつられて、持遠も笑みを消した。
「新院も、あわれなお方だった。無理やり譲位させられて、弟君の今の帝の御即位だ。一院の崩御とともに兵を挙げられたのも、無理もなかったかもしれない」
西行はしばらくうつ向いたままでそれには答えず、急に顔をあげた。
「それより、六波羅の伊勢平太殿は?」
「あの方も危なかった。なにしろ亡くなった父君の後添いが新院の皇子の御
「娘御?」
「右府殿のあの八十というお年には似つかわしくない妙齢の姫君で、
「あった……とは?」
「あの悪左府の挙兵の直前に忽然と姿を消したそうな。かぐや姫よろしく、月にでも帰ったのかもな」
「その娘御が関係しているとは?」
いつしか西行は、身を乗り出して聞いていた。
「悪左府の謀反を、密告されたのだそうだ。だから、右府殿の寝返りが内裏の勝因の一つでもあろうから、あの八十というお年で異例の右大臣昇任なんだよ。秋の除目では、太政大臣になるのではという噂もある」
その時、激しい足音が、簀子の方で響いた。
「小六、戻りましてございます」
びっくりするような大声だ。
「控えい。客人じゃ」
あわてて声の
「せがれでござる」
西行に言ったあと、持遠は西行を息子に示した。
「父がちょうどおまえくらいの年の頃に、ともに武士として仕えていた方だが、今は高野山でお上人となっておられる」
「遠藤六郎が嫡子、小六
必要以上の大音声を放ち、少しだけあげたその持遠の息子の顔は、父親譲りの不精髭で覆われていた。
「これが、あの時の
持遠はニッコリと笑って、うなずいて見せた。そのあと西行は、言葉が続かなかった。若者の顔を見ると、それこそ生得の武士としか言いようがない。
「おいくつに?」
西行は、若者に尋ねてみた。
「十八でございます」
「今は?」
「は。皇后宮様の御元に、武士として仕えております」
ひとつひとつの問いに、
「いや、これはまいった。あの時の赤子が、もはやこのように。いや、まいった。これでは、こちらが年を取るわけだ」
西行は、いつしか大笑いをしていた。
持遠の邸を辞したあと西行は、河原の方へと両脇に草が生い茂る道を歩んでいた。
「お待ちくだされ!」
さきほどの
「お待ちくだされ、お
やっと追いついた若い武士、小六盛遠は肩で息をしていた。
「お呼び止め致して、申し分けござらぬ。お上人様は高野山にまします
「何かね。私は大徳というほどの者でもないが」
盛遠は西行の苦笑をよそに、地に畏まって頭を伏せた。それを西行は立たせた。そばに少しだけ草のないところがあり、そこに石があった。西行が促してともに座ったが、石は焼けるように熱かった。
「はじめてお会いする方に、このようなことは無しつけだとは存じますが」
「はじめてではありませんよ。あなたが赤子の折に、拝見しております」
「さようでございましたか」
「で、話とは?」
「実は……」
なかなか言いにくそうにしていた盛遠は、思い切ったように顔を上げた。
「申し上げまする。ただ、父にはご内密に」
「わかっております」
「この度の
「ほう」
「戦ではたくさんの人を射殺しましたし、太刀で斬りもしました。人を殺したのは、はじめてです。この深い
盛遠の顔は、西行に向いていなかった。目の前の地面を見つめて話している。それは彼の声、面だち、そして
「私は
「では、精進なさい」
西行は、それだけを言った。若者はやっと中年僧を見た。西行も若者の目をじっと見据えた。
「精進はいいことです。精進すれば、すべての努力が無駄になることはありません。精進せずして他のことに努力しても、それは何にもなりません。人生無駄とは、そのことですな」
「それが、できないんですッ!」
盛遠はまた大声を放ち、今度は頭をかかえこんだ。
「できない! できない!」
「なぜ?」
少し間をおいてから、盛遠は頭をあげた。そして遠くを見つめたまま言った。
「恋をしているんです」
「恋?」
「
「よいではありませんか」
ハッとして盛遠は、西行を見た。
「恋のすべてが、煩悩ではありませんよ。もののあわれは、恋に尽きます。恋をしてその女を妻にめとっても精進はできる。何も出家しなければ救われないということはない。在家にあっても、十分精進はできますからな」
「お上人様も、恋を?」
「道ならぬ恋だった。高貴なお方で、ずっとずっと大人だったが、向こうから断ち切られましたよ。たった一種の歌でね」
「お上人様!」
盛遠の突然の叫びは、泣き声に近かった。
「私も、道ならぬ恋なのです! 相手の女には、夫がいるのです!」
西行の顔つきが、少しだけ変わった。そして二人ともしばらく無言でいたが、やがて西行の方からゆっくりと口を開いた。
「あなた自身は、これからどうしたいのですかな」
「私は精進して、道を極めたい。でも、あの人は
また盛遠は、頭を抱えた。西行はいたわるように若者を見つめた。
「あなたは精進がしたい。道を求めている」
「はい」
「ならば、
いつしか西行の言葉に、熱が入ってきた。
「道を求めて、精進しない者はばかだ。精進しようと思って、それを行動に移さない者もばかです。精進とはつらきものです。自ら求めて鍛え受けんとする心を、精進というのです。私は出家するにあたって、
「覚悟?」
「そう、これはその昔あなたのお父上が、私に言ってくれた言葉だ。覚悟――あなたには、覚悟がありますか?」
しばらく間が空いた。その間の後で、敢然と盛遠は言った。
「あります!」
二人を見下ろしている法勝寺の、八角形の九重塔にまで響くかと思われた大声だった。それともに、盛遠は立ち上がった。
「かたじけのう存じます!」
直接の陽射しの中で汗だくになっていた盛遠は、西行に一礼すると自邸の方に向かって、大股で歩いて行った。
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