【翌年】(保延6年=1140年)

 平太と義清が持遠の屋敷に招かれたのは、年も明けてからだった。持遠の屋敷も洛外、鴨川の東にある。平太の六波羅殿のように方一町というわけにはいかないが、一応その屋敷のあるじであった。かつては狐狸の棲み家にしか思われていなかった鴨川の東だが、清水参詣の便宜のために五条に石の橋がかかってからは、下級官吏や庶民もどんどん川の東へとその居住範囲を広げていた。特に白河のあたりは数々の大寺が軒を連ね、とりわけ法勝寺の巨大な八角九重塔が威容を誇っていた。

 持遠の邸ではこの正月で二歳になった長男が、乳母めのとに抱かれて客人に披露された。もっとも満年齢では、まだ一歳にもなっていない。時に春風が邸内をのぞきこみ、近くに見える清水寺の堂宇も、花に埋もれている頃だった。

「かわいいなあ」

 平太はさっそく、子供好きの本性を発揮している。義清もさすがに微笑んでいた。

「この子が一人前になった頃は、俺たちはどうなっているだろうな」

 赤子の顔をのぞきこみながら、平太がつぶやいた。持遠が顔をあげた。

「年を、とっていることだろう」

「あたりまえだ」

 三人は同時に笑った。持遠は言った。

「不思議なえにしの我われだけど、この三人、いや、この子を含めた四人が年をとったあとも、こうしていっしょにいられたらいいな。なあ、左兵衛尉」

 相槌を求められた義清の顔が、少しだけ曇った。平太もため息をついた。

「我われのことはさておき、世の中はどうなっているだろうか。院と帝の御父子の間は、どうもうまくはいってはいない御様子だが」

 それから平太は、義清を見た。

「左兵衛尉も大儀だろうな。身は徳大寺家の家人であって、北面の武士として院の庁にも御奉公だからな」

 今度は持遠が、清盛に目配せをした。案の定、義清は黙ってうつむいてしまった。

 彼が家人となっている徳大寺家は、今上の帝の御母后の御里、そして帝とその御父の鳥羽院との間には、不穏な空気が流れているともいう。しかも実は帝は院の御子ではなく、その御祖父の子、すなわち白河院の御胤であるという噂もあるのだ。となると、帝は院の御子であって、実は叔父であるということになる。

「まずい情況だなあ」

 平太はまた、ため息をついた。

「私は・・・・・・」

 義清は暗い顔のまま、つぶやいた。

「そんな世俗のことには、悩まされたくはない」

「また始まった」

 持遠は思わず語気を荒くして、赤子を抱いていた乳母を、赤子とともに下がらせた。

「そんなのは、虫がよすぎるじゃないか!」

「虫がいいのはそっちだ! この世の中、自分が興じないことに煩わされて生きる方が簡単なんだから、簡単な道を選ぶ方が虫がいい!」

「何だと!」

「まあまあ」

 平太が割って入った。

「どんな状況になっても男子は胸に秘めたこころざしをしっかりとかみしめて、それに向かって進むしかないだろう」

「志のために!」

 義清は立ち上がった。

「妻も子も、しがらみなんだ!」

「どうして愚痴ばっかり言っているんだ。女々めめしいぞ!」

 持遠も立ち上がった。勢い平太も立たざるを得なかった。

「分かった!」

 不意に、義清は叫んだ。

「そうだ! 志だ! しかしそれを噛み締めるのが、問題なのではない。噛み締め得る力だ。しがらみなど、軽んじていればいい。一切を捨てよう。愚痴なんか言うべきではなかった。行うんだ! その中にすべてがある!」

 屋根裏の梁を見上げながら叫ぶ義清の顔に、急に笑みがあふれてきた。

「大丈夫か? 物怪もののけにでも取り憑かれたんじゃないのか?」

 今度は心配そうに、持遠はその顔をのぞきこんだ。

「愚痴は、言うべきじゃなかった」

「ああ、そうだとも。もう、言うなよ。これ以上、その覚悟はあるのか?」

「覚悟……そう、覚悟……。右馬允! おぬしに感謝する。そうだ、覚悟だ。」

 そのまま義清は、慌てたようにその場を出て行った。


 翌日、あまりにも奇妙だった義清の態度が気になって、平太と持遠は義清の邸を訪ねた。案の定、門を入るとすぐに母屋の方から女と子供のすすり泣きの声が聞こえてきた。

「どうした!」

 持遠が、中に声をかけた。親しくしていた義清の妻が、泣きながら出てきて簀子すのこに座った。

「夫は突然、もとどりを切って僧になって……、出て行ってしまいました……」

「なんだって!? 僧に!? 出家か……」

 清盛と持遠は庭にたったまま互いの顔を見あわせた。

「あいつにそんな、道心があったのか」

「いや、歌のことならともかく……」

 持遠も狼狽していた。

「四つになる娘が、泣いてとめたのに……、あの人ったら、娘を簀子から蹴落として……」

 それだけ言って妻は、ひとしきり激しく泣くだけだった。

しがらみを軽んじよう……、あいつ、昨日、そう言ってたんだよな」

 ぼつんと持遠がつぶやくと、平太は持遠を見た。

「覚悟がある……とも」

「覚悟……」

 二人はしばらく黙って、その言葉をかみしめていた。

「あいつ、本当につくづくばかだよな。北面でこのまま勤めていれば、出世間違いなしの道が保障されていたのに」

 そんな持遠のつぶやきに、平太は持遠の顔も見ないで、

「いや、あいつにとって出世など、ひと握りの稗の値打ちもないんだ」

 と、吐き捨てるように言った。

「あのう、これをお二人にと……」

 義清の妻が差し出した布には、歌が一首書かれてあった。

 ――世の中を そむきはてぬと云ひおかむ 思ひしるべき人はなくとも……

 声に出して平太がそれを読むと、妻はまた一層激しく泣いた。義清の心の叫び、いや、魂の叫びがその歌の中にあると、持遠は感じた。世俗に背を向けて生きよう。たとえ俗人には理解されなくても、歌人としての道を歩む、そんな魂の叫びが……。

 時に東山の麓は、今や紅葉が漸く色づきはじめる頃であった。

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