第2話


「おかえり、蒼くん」


 俺が下を向いたままいつもと同じ道を歩いていると、ふいにそう声をかけられた。


「たっ、ただいま」


 顔を上げると……そこには穏やかな笑顔を浮かべたさわやかな男性が立っている。その両手には、笑顔には全く合わない大きな買い物袋があった。


 姉さん夫婦と一緒に生活をするようになって結構経っているけど、未だにこの「おかえり」という言葉には慣れない。


 でも、それは決してこの人が悪いワケじゃない。


 俺の姉である『金木かねき香憐かれん』の職業は医者だ。俺とは年が離れているから、俺が小学生の頃には結婚していた。


 ちなみに、この二人に子供はまだいない。


 そして、目の前にいるこの穏やかさとさわやかさを兼ね備えているのが、夫の『金木かねき元弥もとやだん』である。


 この元弥さんが何かと忙しい姉さんに代わり家事全般をしている。


 俺は見慣れている光景だけど、世間的にはまだまだ珍しい光景なのかも知れない。


 まぁ、本人が言うには「ずっと家で仕事をしているのも退屈だから」という理由で、家事をしているだけなのだそうだ。


 ただ、この穏やかな雰囲気の男性と負けん気の強い姉さんがどこで知り合って、結婚まで出来たのか……それが未だに謎ではある。


 まぁ、謎ではあっても「何が何でも聞きたい!」なんていう気持ちにはなっていないから、今のところ聞いてはいない。


「今日は香憐も帰ってこられそうだから、一緒に夕食を食べられたらって思っているのだけれど……どうかな?」

「わっ、分かりました」


 穏やかな笑顔が、夕焼け空によってさらに輝いて見える。それがなんともまぶしい。


「そっか、じゃあ準備が出来たらすぐに呼ぶよ。なにせ久しぶりにみんな一緒に食べられるからね」

「はっ、はい。あの、一つ持ちますよ」


 元弥さんはどうやら夕食の買い出しをした帰りだったようだ。元弥さんは「いいよ」と言っていたけど、俺は重たそうに持っている袋を一つ持たせてもらうことにした。


「……」

「あの、俺の顔に何か付いていますか?」


「え? ううん」

「じゃあ、なんでそんなに見てくるんですか?」


「ああ、そうだね。なんか……いつもと違って上の空って感じだったから。何かあったのかな? って、思っただけだよ。気分を悪くさせたのならごめん」

「いっ、いえ……。そんな事はないんですけど」


 いきなり元弥さんがジーッと俺の方を見ていたから驚いただけなのだが、元弥さんはたまに人の顔をジーッと見てくる事があった。


 でも、それは誰に対しても……というワケではない。当然の話だが。


 ただ、そうしてジーッと見てきた後は大抵その人の心の奥を見たかのように、その時に思っていた事や考えていた事を当てるのだ。


 子供の頃は純粋に「すごいっ!」と言っていたのだけれど、色々と親に隠したい事も増えてきたこの年になると、今度は「怖い」と思うようになっていた。


 まぁ、本人もそこら辺のその人に対する配慮はかなり気にしているらしい。


 俺としても、一緒に住ませてもらっている立場から、あまり強くは言えないが……とりあえずいきなりはやめて欲しい。


「……そっか」


 元弥さんはそれ以上深くは聞いてこなかった。


「じゃあ、実際のところはどうなんだい? 今日に限らず学校は? 楽しい?」

「楽しい……というか、いつも通りですね。一学期も終わってなんとなくクラスがまとまってきた……というか」


 この学校は学年が変わるごとにクラス替えがある。


 そして、一学期も終わり、夏休みもあったからなのか、なんとなくクラスの中でも仲の良い人たち同士が集まっているように思える。


「そっか。まぁ、何事もないのならそれが一番良いよ」

「はい」


 なんて話をしている内に家に着いていた……。


◆  ◆  ◆  ◆  ◆


「ねぇ、あなた『鈴宮すずみや名織なおり』って名前の子。知らない?」

「……? 何、突然」


 夕食中、姉さんから突然そう聞かれた。


 いつもはいない姉さんがいるからなのか、今日の夕食はいつも以上に……豪華……というより、量が多かった。


 どんだけはりきって作ったのだろう。いや、どれだけうれしかったんですか、元弥さん。


「いやだから、あなたのクラスに『鈴宮すずみや名織なおり』って子。いない?」

「いっ、いや……いなかったと思うけど」


 もう一度聞くと、『俺』という個人から『クラス』という形に質問が代わっている不思議。


「ふーん、じゃあ別のクラスなのかな」

「だから、突然何?」


「いやね。実は、私が担当している患者さんの一人にあなたと同じ学校に通っているらしい子がいるのよ」

「へぇ……って、何。その『らしい』って」


 あまりにもあいまい過ぎる。


「その子、体が弱くてね。前に聞いた時、確かあなたと同じ学校の名前を言ってきたような気がしてね。それで今度はクラス替えがあったって言うのよ……」

「それが俺のクラスだった……と?」


「ええ、あなたと同じ学校に通っていれば……なんだけど」

「ふーん……。で、それが何? その子、退院して学校に来るの?」


「いいえ? 退院にはまだかかるわね」

「じゃあなんで聞いたんだよ」


「いや、聞いてみただけ」

「何、それ」


 姉さんには悪いが、俺のクラスで『す』から始まる名前の人は『鈴木すずき』以外いなかったはずだ。


 俺は、新しいクラスが始まってすぐに男子も女子の名前も最初の自己紹介の時にすぐに覚えた。


 正直、かなり面倒ではあったが、名前を覚えていないという事実がバレた時の面倒くささに比べればまだマシだった。


 だから、俺の記憶が正しければ……そんな名前の子はいなかった……はずだ。

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