2.羽山とアンゼリカと美しい世界

 簡素な木目の長テーブルと、その前に置かれた二人掛けのソファ。羽山はやまとアンゼリカは一週間の大半をそこで過ごす。

 羽山は自分の左隣に座るアンゼリカの横顔を眺めやる。かつて輝くばかりの金色であった髪は加齢とともに白く褪せ、緑色グリーンの瞳を囲む瞼と目尻には深く柔らかい皺があった。色素の薄い肌はところどころくすみ、筋張った細い首筋を評すなら繊細よりも脆弱とするのがより適切だった。それでいて彼女に抱く気持ちは、昔も今も羽山にとっては同じだった。初めて出会った64年前から老女の姿に変わっても、羽山は彼女を見るたびに、何一つ変わることのない甘やかな想いに抱かれるのだ。

「なに?」視線に気づいたアンゼリカが問うた。羽山は微笑んで「なにも」と答える。

「ふうん」アンゼリカはウェアラブルデバイスに指示を出し、竜宮へのログインを試みようとした。

「待って、アンゼリカ」羽山が穏やかな口調でそれを留める。アンゼリカは少し困った顔をする。

「なあに? どうかしたの?」

「今日は日曜日だよ」

 羽山も少し困ったような顔をしたのは、長い時間を共に暮らすうちに彼女の表情を真似るくせがついていたからだ。

「あ……」

 アンゼリカははにかんで言う。

「ごめんなさい、最近曜日の感覚もで……もう、すっかりおばあちゃんね、わたし」

 二人にとって日曜日は特別なものだった。

 もう60年近く前、ふたりが恋人になったときの、約束の言葉があった。

 日曜日は毎週デートに行こう。

 約束は今でも機能している。子供たちはもう巣立った。羽山とアンゼリカは、二人だけの気楽な、それこそ恋人であった頃のように睦まじい関係を続けている。

 

 さまざまな年齢層、さまざまな人種、さまざまな言語が入り混じる街を二人は歩いていく。二人に等しく訪れた肉体の衰えは、全身型のウェアラブルデバイスの助けを得て、今のところ日常生活に不便のないくらいにはなっている。

 2000年代の前半に社会問題とされた高齢化に伴う福祉リソースの不足は、技術的側面から解決されていた。老化に伴い発生する諸問題、例えば認知症やアルツハイマーといったものは投薬・外科治療・高度な認知療法によって改善され、肉体の劣化はウェアラブルデバイスが補った。ウェアラブルデバイスは旧世紀に発明されたあらゆる福祉器具、車椅子や松葉杖や眼鏡といったすべての身体的不備を補うものの上位互換であり、かつての福祉器具は物好きのファッションもしくはウェアラブルデバイス破損時の万一の備えとして細々と生き残っている。

 羽山もアンゼリカも、ウェアラブルデバイスの恩恵を強く受けている。腰痛持ちの羽山はウェアラブルデバイスの助けなしでは日常生活も困難だし、足を悪くしたアンゼリカは独力で歩くことが難しかった。

「駅前広場まで行ってみようか」

 羽山の提案に、アンゼリカは頷いた。

 駅の入口で署名運動をしている若い一行がいた。日系が数人に、黒人とインド系がそれぞれ一人。

「……ヒロト・プロトコルの敷衍により、この世界からはあらゆる肉体的・精神的な暴力行為が一掃されたかのように見えます。ですがそれは、根本的な解決ではなく、悪意を見えないところに押し付けただけのことに過ぎません……」

「ハームドロイド規制法か」

 と羽山がつぶやいた。

 演説をしている日系女性の身に着けた眼鏡型のウェアラブルデバイスがAR情報を展開している。カメラで確認すれば、アバターをまとった姿で演説するのが見られるだろう。竜宮の中でも時々、着流しや対丈ついたけに身を包んだ社会運動家がデモ行進や辻説法をしているのを見かける。

 熱心に見ていたのに気づいたのか、ビラ配りをしていた黒人に署名を呼びかけられたが、断った。続けてアンゼリカにも声をかけてきたが、彼女もまた「すみませんが、署名はちょっと」と断る。

「でも、あなたがたの活動はとても有意義だと思います。今年度国会での規制法成立を願っていますわ」

 アンゼリカが素敵な笑顔を浮かべると、運動家たちも笑顔を返してくれる。


 駅前の喫茶店で向かい合って座る。この喫茶店ができたのも20年ほど前だ。

 チェーンでもない個人経営の喫茶店であり、二人は足繁く通っている。二人の長年の経験で、お気に入りの店にお金を落とさないとすぐになくなってしまうことを知っている。80年も生きていると、好きだった店もなくなってしまい、気落ちした記憶も数知れないのだった。

「ちょっとだけ意外だったね」

「なにが?」

「署名」

 湯気を立てるブラックコーヒーに口をつけた羽山が言う。

「てっきり、進んでやるものかと思っていたから。君は今の世界の在り方が、あまり好きではないだろうから」

「そんなことはないわ」

 アンゼリカは言う。こちらは、紅茶にミルクと砂糖がみっつ。念入りにかき混ぜている。

「それに署名って、なんだか怖いじゃない」

「昔じゃあるまいし、個人情報なんて気にするものじゃないだろう」

「うーん……そうなんだけど……」スプーンの手を止めてアンゼリカが言う。まるで昔の漫画やアニメーションのキャラクタのように首を傾げている。白色人種であることを差し引いても過剰に見えるリアクションを取るのは、彼女の昔からの癖だった。

「うまく言えないけど、違和感があって」

「違和感?」

「『あの子たち』の存在によって世の中から差別や暴力が一層されたけれど、そのこと自体は素晴らしいことだと思うの。そこから一歩進んだ先に、押し込めた『あの子たち』を解放するというアクションが取られることで、より望ましい人の世の在り方に近づくことができると思うのね。……だけど、ちょっと、何かズレてる気がして」

 アンゼリカはハームドロイドを『あの子たち』と呼ぶ。彼女の倫理における自主的なポリティカル・コレクトネスの体現だった。

「まあ、規制法自体には賛成なんだけどね」

「それは同感」

 羽山が応えると、アンゼリカはにっこり笑った。

 羽山は懐かしそうな目をしてアンゼリカを見つめた。

 昔の彼女の姿が一瞬、今の彼女に重なった気がする。

「君は今でも《vtuber》なんだな」

 アンゼリカは目を丸くして、そのあと、穏やかに微笑んだ。

「昔の話よ」

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