ハームドロイドはもういない

広咲瞑

1.水底の都

 仮想現実世界への没入フルダイブという言葉が潜水を語源としているなら、この《国家クラスタ》への入国ログインは正しく言葉通りのフルダイブと言えた。

 透き通るエメラルドグリーンの海を潜っていく。白く沸き立つ細やかな泡が絶え間なく視界を流れていく。膨大な海水を掻き分けるときのてのひらの重みや、睫毛をくすぐる泡のこそばゆさが、心地よいリアリティを伴って五感に再現されていく。

 やがて泡の向こうに見え始めたのは、海の底に広がる都。

 竜宮――

 大昔の童謡にうたわれる、絵にも描けない美しさ、を描き出した仮想の街。

 この世界のネットワーク空間に数多ある《国家クラスタ》のひとつだ。

 巨大な朱塗りの門を潜ると、無数の色彩と活気に溢れた街が広がっている。岩礁には蔦のような海藻が根を張り、街路樹のような珊瑚が薄紅色の枝を伸ばしている。その隙間を縫うように横切っていくのは、艶やかな瑠璃色のソラスズメダイや流麗な棘を背負ったミノカサゴといった魚たちである。藁葺きの長屋の軒先では、艶やかな官女、小袖を着た町娘、太刀を佩いた検非違使たちが、思い思いに会話チャットをしている。

 美しい都の景色のうちにあって、少し首を巡らせば、その中でひときわ目立つ存在が目に留まる。

 『黒い人魚』。広小路の真ん中、七色の光を吹き出す熱水噴出孔ホットスポットの前で佇んでいる女性。時間さえその内に閉じ込めたように艶やかに黒い、髪と肌を持ち、伏せた面に淡い憂いを浮かべた、美しい存在。

【やあ、いたいた、黒いさん】

 彼女の周りには今日もたくさんの人間が集っている。

 

【顔色が優れないようですね】

【まるで死体のようですね。今年の流行のメイクですか?】

 集まった人々が彼女に声をかけていく。ぎゅっと縮こまるようにした彼女の顔を、長い前髪が隠している。

【なぜそういうことをいうのですか さべつです[hm]】

 彼女の震える唇がたどたどしい日本語を紡ぎ出すと、あたりに微笑みが広がった。

【これは驚きですね。知能の低いさんにも、権利を主張する言葉が存在するとは】

【あなたはお利巧な方だとお見受けしますから、特別に教えて差し上げます。合理的な事由に基づく扱いの相違は『差別』ではなく『区別』と呼ぶのですよ】

 まるで舞踏会のように入れ替わり立ち替わり、訪れる人々がたくさんの言葉を残していく。無数の指先が『黒い人魚』に接触し、肉体から鱗を剥いでいく。ひとつひとつとなくなっていく黒く艶やかな鱗の、その下の真皮が、暴かれた本性を恥じるように赤く脈打つのが見える。

【いたい いたい やめて[hm]】

【わかります。痛いですよね。苦しいですよね】

【ですが、それを乗り越えて初めて人は成長するのですよ】

 投げ捨てられたいくつもの鱗が、竜宮を取り巻く海流に乗って『黒い人魚』の周囲を回遊する。

 それは――無作為の集団に公然と傷つけられる無抵抗のアバターという組み合わせは、竜宮に限らず、あらゆる《国家クラスタ》において当たり前に見かける光景だった。

 傷つけられるためのAIハームドロイドの存在は、差別のない世界の象徴である。



 21世紀の世界の平和と安寧にもっとも貢献した発明として、グッドライフ社の《ハームドロイド》を挙げる者は少なくない。

 2010年代のはじめごろに差別に端を発する憎悪犯罪ヘイトクライムが全世界で顕在化した。国籍の差異、宗教の差異、性別、文化、思想の差異――世界のグローバル化に伴い必然的にすり合わされる差異の摩擦は、あらゆる国を巻き込むうねりとなって様々な社会問題を引き起こした。

 その解決に名乗りを上げたのがグッドライフ社であった。当時から世界的企業として名を挙げていた同社の行いは、事業と呼ぶよりは力あるものの責務、真摯なノブレス・オブリージュの体現であった。

『すべてのは平等である。あらゆる差別は不当であり、いかなる理由においても不平等に扱われることがあってはならない』

 グッドライフ社のCEO、ヒロト・ヤマグチはこう語った。それは万人を等しく頷かせる、全人類の共通認識であると同時に、彼がかつて籍を置いた国において、またそれ以外のあらゆる国においても、意識無意識を問わず破られ続ける横紙の如きものでもあった。

 彼はこう続けた。

『だが、完全な平等の実現のためには、必ずが必要である』

 彼の母国にてかつて名付けられた『穢れ多きもの』、『人に非ざるもの』。伝統的な制度の中の不可触選民。ヴェニスの商人の血筋。肌の色の差異。逸脱した性愛を渇望するもの。容姿の醜いもの、著しく知恵の劣るもの、肉体と精神の在り方が特異であるもの、感染症を患ったもの――あらゆる『普通ではないものたち』の存在。

 彼の提示した『被差別階級のカタログ』はそれ自体が明白な差別的言説であり、事実、正当な義憤を以って彼を糾弾したものも多数に上った。だが彼はそれらの声を、シンプルかつエレガントに、行動と結果によって封じてみせたのだった。

 彼と凡百のレイシストの思想を分け隔てたものは大きくふたつ。

 ひとつは、社会の階層構造を完璧にフラット化したこと。

 もうひとつは、あらゆる被差別階級をなものとして配置したことだった。

 世界を切り分け、民族主義という迷妄を解体し、個人の自由意志によってつながる仮想世界の共同体――《国家クラスタ》として再構築した。

 それを可能にするのは教育、そして膨大な資金であった。子供のみならず、大人も、あらゆる人種の区別なく徹底した教育を施された。丹念に繰り返し、熱意と愛情をもって。ヒロト自身の理念も、その思想を伝える教師たちも完璧な仕事をした。人間を鋳型に嵌め込むような、生まれながらの違いに目を逸らし、アファーマティブアクションを考慮の外とするような見せかけの平等を彼は良しとしなかった。出自や能力の違いを最小化するための便益。恵まれぬものに慈悲を与え、恵まれたものからは必要以上に奪うことなく、それらを徹底した上に初めて実現される、真に完璧な平等。

 理不尽な不平等は潰え去り、9割の社会運動が過去の歴史的建造物としてのみの意味を持つようになった。貧困に喘ぐ人々に衣食を与え、教育によって礼節を引き出したとき、磨き出された精神的豊かさの輝きはどんな宝石よりも美しかった。

 完璧な平等から導かれる当然の帰結として、『被差別階級のカタログ』には、およそ人間の持ちうるすべての要素が追加されることになる。

 健常者、社会人、政治家、アスリート、教師、人の親、ボランティア、性的マジョリティ――フラット化された社会において、あらゆる要素は平等であり、従ってあらゆる要素が被差別階級として配置されねばならなかった。

 平等を絶対的な条件とすることで初めて許容される『コントロール可能な差別』。

 バーチャル空間に閉じ込められた、『統制された差別』。

 安易な対立を招くだけだと非難するものがいた。だが事実、完璧な平等を成し遂げた上でも世界から暴力やハラスメントは消えなかった。社会的動物としての進化の仇花として人間の抱え込んだ宿痾、暴力と差別への切実な希求を否定することはできない。ヒロト・ヤマグチはよくそれを知っていた。

 すべての人間は平等であり、完璧な平等のためには被差別階級が必要である。

 その矛盾を解決するために用意された、『被差別者としてのAI』。

 迫害と暴力の身代わりのために作られた存在、恒久的平和の礎、

 傷つけられるための存在harmed roid

 

 仮想世界の陽が傾き、遥か彼方の水面から差し込む光があけにゆらめく中、『赤い人魚』が佇んでいる。

 竜宮における被差別階級ハームドロイドは『黒い人魚』のアバターとして示される。また別の《国家クラスタ》においては『薔薇色の豚』や『黄色い猿』がその位置に据えられるのであったが――

 すべての黒を浄化され、正しい色を与えられた『赤い人魚』が、熱水噴出孔ホットスポットの前にその身を横たえる。その口元には幸福そうな笑みが浮かんでいる。人に傷つけられることを喜びだと感じるように重みづけされたAIの思考が、彼女にこの上ない満足を与えるのだ。

 噴き出した七色の光の粒子が彼女を包む。

 やがてそれも暗がりに沈み、竜宮の夜が更けていく。

 彼女を覆い隠した闇が新たな鱗となり、次の朝にはまた『黒い人魚』となる。

 そうして人の営みは続いていくのだった。すべての悪意を仮想世界バーチャルに閉じ込め、差別のない現実せかいを、永遠に続けるために。

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