泣く者

 半月もすると、山は再び脅威と恵みを取り戻し始める。

 山のあちこちで、新しく折れたり爪痕がついたりした木々が目撃され、足跡が見つかるようになった。ちょろちょろと姿を見せ始めていた小さな獣たちも、竜が闊歩する頃になればまた身を隠してしまうだろう。

「あったかくなると、さすがに竜が出てくる間が短くなるなあ。真冬だと、半月どころか三月みつきとか捕れない時期もあるもんな。冬眠するのとしないのがいるらしいけど、やっぱり冬は捕れねえ。ま、その間は大人しく家族にくっついて過ごすけどよ」

 竜が長く狩れないような時期は、さすがに禄一の家には厄介にはなれない。適当な宿場にでも逗留してやり過ごす。短い間でも余所の家族に割り込むのは、居心地の良いものではなかった。

(でも今回は、イサナといる時も多かったな)

 することもなく、ふらりと山に入れば、たびたびイサナが顔を出した。親父さんが良い顔をしないだろうと言えば、それには素直にうなずくが、それでも話したり、遊んだりしたがった。

 父親の言いつけより、人恋しさの方が募るのだとしたら。

 八神もイサナを放っておくことはできなかった。


「今回のはまた、大きそうだな。上物なのはいいけど、骨が折れそうだ」

 太い木の幹についた竜の爪痕を撫でる。先日狩った竜が大人の熊ほどなら、今うろついている竜は、山の獣だと比べられる大物はいないかもしれない。

「だよなあ。多分、かなりでかいよなあ。昨日この辺りを探った奴の話だと、小さいのを見つけたって言ってたんだが」

 禄一も爪痕を検分しながら言った。

「そうなのか?珍しいな」

「確か、犬くらいの大きさだったって言ってたけど。一人で首根っこ掴んで、押さえ込めたって言うからな。ま、逃げられたらしいけど」

「小さくても竜だからな。犬だって、暴れられたら大変だし。でかいのと一緒に出てきたら、二匹相手にするのは大変かもな」

「ああ、でもその竜の足、折っちまったって言ってたから。出てくるかもわからんな。ま、小さいのを捕まえても、とれるもんも少ないし」

 大きい竜を捕えるのは容易ではないが、その分得るものも大きい。だから竜追いは大人数で危険を冒し、大きな竜に戦いを挑むのだが、そもそも、小さい竜と遭遇することがほとんどなかった。

「小さいうちに捕まえて、大きくなるまで育てられたら楽かもな。まあ、小さいうちから育てたら情でも湧きそうだけど」

 八神のつぶやきに、禄一が目を丸くして返した。

「湧くかね、竜に情なんか」

「どうだろうな」

 自分で言っておいて、と禄一に苦笑交じりに言われる。

 人はその時その時の空気に染まるものだと思うし。

 思いがけないものに心を寄せることも、あると思うのだ。

 

 竜追いたちの間で、翌日から本格的に狩りの支度をしようと決まったところで、八神はふとイサナのことが気がかりになった。

 竜狩りが始まったら、今まで以上に森は危険になる。一応、言って聞かせておくべきだろう。いるかはわからなかったが、一度降りた山に再び入った。

 中腹で隆起した木の根を越えていると、大木の幹の陰から荒い息遣いが聞こえた。獣かと思って身構えるが、ちらりと見えた小さな肩の線に、慌ててそちらに駆けつける。

「イサナ!」

「おじさん」

 返ってきた声は弱々しかった。見上げてくる顔は蒸気して、目はとろりとしている。

「熱がある」

 額に触れると、明らかに高い熱があった。

「親父さんはどうした?」

 問うても、浅い呼吸を繰り返すだけで答えはなかった。

 こんな幼子が苦しんでいて、親は何をしているのかと憤りながら懐を探る。

「薬だ。飲め」

 薄く開いた口の隙から、竜薬と水を流し込む。幾度かむせたが、何とかイサナは薬を飲み下した。

 この熱で、どこからか歩いてここまで来たのか、父親が付き添っているのかはわからない。それでも一刻も早く寝かせてやるべきだと判断して、八神はイサナに背中を向ける。

「とにかく、山を下りるぞ。おぶされ。立てるか?」

 イサナは小さく首を振った。熱が高いのだ、無理もない。

「足が、痛い」

 掠れた声の訴えに、だらりと投げ出されたイサナの足に目をやれば。

「どうしたんだイサナ。その足」

 イサナの足は大きく腫れていた。真っ赤に腫れ上がって、一目で重い怪我だとわかった。高熱も、怪我からくるものだろう。

「もしかしたら、折れて……」

 瞬間、後ろから強い力で引っ張られた。そのまま引き倒される。

「娘から離れろ!」

 凄まじい剣幕で怒鳴られた。薬草を手にしたイサナの父親は、懸命に手の中のそれでイサナの足を包んだ。起き上がりながら、八神は声を荒げる。

「あんた、子どもがそんな状態で、こんな山の中まで連れてきたのか。一体何やってんだ、それでも父親か!」

 ぐったりとしたイサナが哀れだった。父親に付き従うしかない幼い子どもがやるせなかった。

「よくもぬけぬけと、そんなことが言えたな……!」

 八神の糾弾に、返ってきたのは憎しみのこもった声。

「お父さん」

 振り絞るような声で、イサナが言った。

「あのね、おじさんが、薬をくれたの。だから、熱いのも痛いのも、きっと治るよ」

 だから喧嘩しないで。

 そっと目を閉じたイサナは、細く長い息を吐いた。その呼気に、男は目を見開く。

「お前、イサナに何を飲ませた!」

 胸倉を掴まれ怒鳴られる。頭に血が上って、八神も怒鳴り返した。

「竜薬だ!だからどうした。子どもがこれだけ苦しんでて、竜を信じるも食わすもあるか!」

 言い切ったところで、頬に衝撃が走った。殴られて、再び地に転がる。

「なんてことをしてくれた。なんてことを……」

 ずっと血が上って真っ赤だった男の顔が、青ざめていた。

「イサナはもう、竜たちのもとに帰れない!」

 は、とだけ、八神の口から声が漏れた。

「同胞の身体を食べた。同胞たちは必ず気づく、必ず拒絶される。もう仲間たちの中では生きていけない」

 男は手で顔を覆うようにして頭を抱えた。

 指の隙から、八神を呪い殺すような鋭い視線がのぞいて。


 空気が震えた。


 八神は耳を塞いだ。

 人の物とは思えぬ、地を割るような獣の声が、イサナの父親の口から発せられていた。男の身体の線が盛り上がる。膨れて、人の形をなくして。

「竜」 

 呆然と、現れた巨大な竜を見つめた。

「イサナ、お前も」

 竜だったのか。

 仲間を食うなと、殺してくれるなと、訴えていたのか。

 熊よりもなお大きい竜が突進してくる。八神は思わずイサナを抱きかかえた。

 何をしているのだろう。

 小さな子を守ろうと思わず抱えあげて。

 けれど、イサナを守ろうとしているのは竜で。その竜を殺しているのは自分たちで。

 ――私はもうこの村では生きていけない。

 母の声が耳に蘇った。

 恨みのこもった声。父が母に竜薬を飲ませたから。母は、故郷をなくして。

「イサナ」

 イサナも竜の体の一部を口にした。

 自分が飲ませた。

 誰だって、死ぬよりはマシだ。

 帰る場所をなくしても。

「……ごめん」

 本当にそうなのかは、誰にもわからなかった。


「八神!」

 真実に身をすくませた八神の耳に、大声で自分を呼ぶ声が聞こえた。

「禄一」

「おまえ、さすがにこんなに竜の動き出した痕がつくようになってから、一人で山に入るもんじゃないぞ。センに聞いて慌てて追っかけてきたんだけど、正解だったな」

 巨躯の竜を目の前にして、禄一が喉を鳴らす。この大きさの竜と対峙するのは初めてだから、本能的な恐怖はどうともしがたい。

「それ、あの邪魔くさい男の娘じゃねえか。なんだ、怪我してんのか。竜にやられたか?そうなるとさすがに可哀そうだなあ」

 八神の腕の中のイサナに、禄一も憐みの目を向ける。イサナを痛めつけたのは、自分たち竜追いであることも知らずに。

「もう少し下れば、仲間が網を構えて待ってる。皆慌てて支度を整えて来てくれたんだから、感謝しろよ」

 それだけ八神に伝えると、禄一は走って山を下りだした。八神もしっかりとイサナを抱えて走り出す。

 イサナの父親を、狩ることになる。

 眠ってしまったイサナを胸に、混乱のまま駆けた。

「こっちだ!」

 仲間の声がする方に、転がるように駆け込む。背後から迫る、木をなぎ倒す音と振動。大木に登った仲間の姿を頭上に確認すると、八神は一気に速力を上げた。

 八神と禄一が走り抜けた後に、巨大な網が落とされる。網は巨竜を捕え、暴れる程に絡めとっていく。頭から太い尾まで、竜の全身をしっかりと拘束した網は、それでもいつ引きちぎられるともしれない。いっせいに竜を取り囲んだ竜追いたちが、次々と武器を打ちこんでいった。

 イサナを狩りの累が及ばない場所まで離して寝かせ、八神もすぐに参戦する。 

 どうか終わるまで、目を覚まさないようにと願いながら。

(火薬はない)

 火薬砲は持っていなかった。火器の類は殺した感触が手に残らない。

 それで仕留められたら、慰めになっただろうか。

 頭を振って、愚かな考えを振り払う。

 殺すことに、慰めも救いも求めない。

 八神は剣を振り上げる。

 網目の向こうの竜の目が、生と死の境で輝いていた。

「離れろおお!」

 仲間が叫んだ。竜を閉じ込めていた網が、ぶちぶちと音を立てて破れる。

 竜の鼻先にいた禄一が、悲鳴を上げた。

「禄一!」

 竜が網を破った牙で、禄一の腕に食らいついていた。竜が首を一振りすると、禄一の身体は軽々と吹っ飛んだ。竜の口に、ちぎれた片腕だけが残る。

「ぁああ!」

 叫び、持ち上がった竜の首に飛び乗った。振り落とされるより先に、剣を首に打ち下ろす。

 

 父親が死んだら、イサナは泣くだろう。

 けれど。

 禄一が死んだら、睦子も寿一も、センも泣く。


 降り下ろした剣は、容赦なく竜の肉を絶った。壮絶な竜の叫びと血飛沫を浴びながら、なおも剣を押し込んだ。骨の固い感触にぶつかって、剣が止まる。

 そのまま暴れる竜の首から滑り落ちた。着地した八神は、そのまま剣を竜の喉元へ突き上げる。

 最後まで首を打ち落とすことは叶わず、それでも頭から崩れ落ちた竜はそのまま息絶えた。

「・・・・・すまない」

 浴びた血を拭いもせずに、八神は竜の死を悼んだ。

  

 

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