9-4節

「そんなことで説明がついてたまるか」

 さらに追求したが、唯良乃はあまり興味がないようだった。

「他に説明しようがないもの。ロクったら、無い物ねだりをこじらせて、他人の頑張りまで否定したらいけないわ。これは才能のあるわたしが、才能を磨いた結果なの」

「だからっておまえ」

「おまえおまえって、ロクはほんとに亭主関白ね」

 珍しく辟易へきえきしたように言われ、ややたじろぐ。

「なんだよ急に」

「わたしのことを最後に名前で呼んでくれたのはいつだったかしら。ああ、もはや遠い記憶の彼方。女の子はいつだって、好きな人に名前を呼ばれたいものなのに」

 わざとらしい言い方だったが、麓丸はふとそこに真意が隠されている気がした。

 こいつ、まさかそれが目的でこんなことをしでかしたんじゃないだろうな。しょうもないことだが、こいつならあり得る。気づけば十年以上の付き合いにもなるわけだから、かえって伝えにくいこともあるだろう。だからと言って、やり方に問題がないわけではないが、その程度で気が済むのなら、おれもやぶさかではない。

 しかしいざ口にしようとすると、どうにも言いにくい。別に照れているわけではない。常日頃から愛だ妻だと言われていることに比べれば、どうということはないはずだ。そうとも、おれは言うときは言う男だ。名前なんて、所詮は個人を識別するための記号に過ぎん。特定の音の並びを発してやればいいだけのことだ。ようし、言うぞ。言うからな。

「ゆ、唯良乃」

「ちょっと思ってたのと違う」

「ぶちのめすぞ!」

 いきり立って叫んだ。

「はにかんでるロクの気持ち悪さったらなかったわ」

「そこまで言うか……」

 確かに自分でもどうかと思ったが、言わせておいてひどい話だ。まともに付き合っていたらキリがない。こいつが何を考えているのかなど、考えるだけ徒労なのだろうか。そう思うと、つま先に届くほどのため息が出たが、かえって本題に戻るきっかけにはなった。

「とりあえず、それは返せ。三億なんて、おまえにとっちゃ、はした金だろう」

「それはそうだけど」

「それはそうなのかよ」

「親のお金でもね、生まれ育った環境は、わたしの才能の一部なの。ロクにもあるでしょう。梅之助くん、お母さま、お父さま。嵐蔵おじさまに、今は花岡さんもそうかしら」

「…………」

「それにわたし」

「少しは自重しろ」

「だから、わたしはロクとは戦わないわ」

「だったらどうする」

「わたしはね」

「なに?」

「仕事よ!」

 唯良乃が千両箱に向かって呼びかけると、「仕事!」と言いながら小さなものが飛び出てきた。暗がりでも腰巻きの虎柄はよくわかる。現れたのは陀羅だった。

 多少の驚きはあったが、それどころではない。

「宝は?」

「馬鹿ね。ロクが来るとわかってるのに、ここに置いておくわけないじゃない」

 落胆した。今までの会話はなんだったのかと、ますます思った。そもそもが不毛なやり取りの様相をていしていたのに、結果がこれでは本当に不毛、いや虚無だ。

 げっそりしている麓丸をよそに、唯良乃は膝に手を置いて陀羅に向きあう。

「これ、あそこのお兄ちゃんに渡してきてくれる?」

「おおー、とっても近いんだな。いいよ!」

 とことこと五歩の距離をはるばるやってきた陀羅は、麓丸の手のひらの上に届け物をした。水色の小さな物体で、やや固い。りんご型の穴が開き、所々にでっぱりのある四角形の紙片。一見するとジグソーパズルのピースのようだ。これは一体なんだろう。一目見て正体はわかっていたのだが、これをこの局面で渡す意味がどうしても不可解だ。よって、もしかすれば自分の認識と異なる物かもしれない。むしろそうでないと、単なる悪ふざけになってしまう。

 訊ねてみた。

「……これはなんだ?」

「パンの袋を留めるやつ」

「バッグクロージャーって言うんだよおお!」

 全身全霊の力を込め、床に叩きつけた。きりもみ回転しながら部屋の隅っこへ滑り込んでいくそれを見、唯良乃はしらじらしく咎める。

「物を粗末にしてはいけないわ。せっかく飛騨家には要り用かと思ったのに」

「おまえがうちのパンの袋留め事情の何を知ってるんじゃい、おおん?」

 眼球を突き出した麓丸のひん曲がった視界に、ふと上目遣いの童子が映った。

「お駄賃、おくれ」

 その奥では、唯良乃がにやりと笑ってこちらを見ている。麓丸は「ふん」とつまらなさそうに鼻を鳴らした。

「そんなのでけしかけたつもりか? さてはおまえ、陀羅のことよく知らないだろう。こいつはこれさえあれば……たちまち……えっ」

 懐に手応えがない。そんなはずはと、あちこち手を入れても、何も見つからない。途端、冷や汗がどっと噴き出た。

「ロクったら、よく寝ていたわねえ」

 手のひらの小瓶を弄んでにやにや笑う姿に、膝から崩れおちた。

「おまえ……人が冥土にまで行ってる時に……」

「さよならロク、あなたと過ごした日々は忘れない」

「おい、やめろ、待て」

 唯良乃が掛け軸をめくり、壁に触れると、壁面が半回転した。町の明かりがちらと見え、春の夜風が流れ込んでくる。そして目の前の、今にも泣き出しそうな子鬼からは、尋常じゃなく濃い妖気が溢れてきている。圧倒的な力の一端が肌を突き刺すたび、加速度的に怖気おぞけが走った。

「お駄賃……」

「掛け軸の裏から逃げる殿様って定番でしょう、一度やってみたかったのよね」

「待て、早まるな」

「う、う……」

「あら、心配してくれてるの? うれしいわ。でもわたしは落ちても平気だから」

「いや、あの、唯良乃さん? 落ちていただく分にはそちらの自由意思という形になりますが、その前にですね、お手元のお瓶、そちらをどうかお返し願えないでしょうか」

「うぐぐぐぐぐ」

「いえ、もちろん全部じゃなくていいんです、ただその中からちょこーっとあめ玉を一つですね、お恵みいただければ、我々としては僥倖なんですな。ね、どうですか、大変喜びますよ我々、そりゃもうあげた方まで幸せになるほど、あめ玉に捧ぐ舞なんかしちゃってね。やはりほら、幸せは皆で分かち合うものだから。ね、どうですか奥さん、本当にもう、あの」

「じゃあね」

「ぐおおおおおおっ!」

「うわあああああぁぁぁぁぁっ」

 走馬灯のどの場面を切り取っても、屈託のない唯良乃の笑顔があった。

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