追想

7-1節

 遠くで、波紋が広がるのを感じる。耳をすませても音がしない。けれど確かに、たゆたう水の流れがある。

 どこかで見た風景だった。いつだったろう。ゆっくりと過ぎゆく静謐せいひつな時は、きっとかけがえのないものだった。忘れていたわけではない。でも、失われてしまった。どうしてそうなったのかわからない。ただ、脆さを想像したことがなかったのだと気づいた時、ひび割れた欠片を集める手が、ひどく汚れているように思えた。それでも、何を望むのだろう。

 うつらうつら記憶の底へ泳いでいくと、小さな池があった。アメンボを見てはしゃぐ子どもと、そばにもうすこし大きい少年がいる。

 子どもが、あれはどうして水の上を渡れるのかと問うと、少年は水をはじくからと教えた。どうしてはじくの。そういうふうにできている。どうしてどうして。なんでなんで。子どもは次々と疑問を口にしたが、少年はひとつひとつ優しく答えていく。

 最後に「ぼくにもできるかな」と言うと、少年は「**には無理だよ」と言って、頭をぽんぽんとたたいた。しかし、子どもがむくれていると「今はまだ」と呟き、おもむろに池へと足を入れた。

 あっ、と子どもが叫んだが、少年は歩を進めていく。なんと少年が行く先々から水が湧き立ち、足場になっていくではないか。それはとても美しく、おとぎ話の一場面のようだった。

 そっと戻ってきた少年は、端に追いやられたアメンボに詫び、きらきらと輝く視線を受けて優しく笑った。子どもはすっかり魅せられ、すごいすごいと連呼した。それから「ぼくもできるようになる」と、少年の手の動きを真似しはじめた。

 少年はしばらく見ていたが、やがて子どもに向き合うようにしてしゃがんだ。

「力はあるだけじゃだめなんだ。正しい使い方を知らなくちゃいけない」

 首をかしげる子どもに、少年は穏やかな声で続ける。

「まだわからなくていい。けれどいつか、わかる日が来る。正しいというのは難しいことだけれど、自分だけじゃなく、他の人を思いやれる心を含むんだ。それをどうか、これからの中で見つけてほしい」

 わからないなりに聞いて、子どもが頷くと、少年は何も言わず頭をぽんと撫でた。

 そうだ。だからこそ僕は、正しさを追い求めてきた。体現するための力をつけようとしてきた。努力を怠らなかった。

 でも、あんな怨みがましい顔を、姿を、させるつもりじゃなかった。何かを知らしめようなどとは、まして壊そうだなんて、露ほども思っちゃいなかったんだ。

 景色が遠ざかっていく。粉々に割れ、集めるより早く、どんなに走って、手を伸ばしても追いつけない。

 やがて足を止めた時、愕然とした。光が遠ざかっていくのではない。自分が置き去りにしているのだと。

 がん、という物音に目が覚めた。

「起きたか」

 続けざまに鳴る音に、ぼんやりしていた意識が徐々に戻ってくる。次いで背中に鈍い痛みが走り、体をよじると、後ろ手に縛られているのに気づいた。

 壁のあちこちを蹴る麓丸に、声をかける。

「……何をしてるんだ」

「見りゃわかるだろ。どこかぶち破れるところがないか調べてる」

 そこは、どこかの納屋なやらしかった。こじんまりとしている上、ずいぶんと傾いているが、使い古しの籠やら長持ながもちが置いてある。もっともかなり麓丸が暴れたようで、物が散乱していた。特に扉にかかった錠前は泥だらけになっている。

「だめだな。思いのほか頑丈だ」

 届く範囲すべてを蹴り倒した麓丸は、ごろんと横になった。

「針金さえあれば、たいていの扉は開けられるんだがな。装備も奪われちまったし、命があるだけマシってところか」

 その言葉に、ばっと体を起こす。

「具合は大丈夫なのか?」

「大したことない。毒ならやばかっただろうが、昏睡させられただけみたいだな」

 大挙する虚無僧に襲われた時の、未知なる恐怖を思い出し、ぞくりとした。彼らは何者で、宝はどこで、どうやって脱出するか。疑問や課題は山積みだったが、花岡には話すことがあった。

「すまなかった」

 麓丸は背を向けたまま答える。

「油断したのはおれも同じことだ。さして謝られる筋合いはない」

「いや、そのこともそうだが」

 意を決し、言いにくさをどうにか飲み込んだ。

「君の弟がさらわれたのは、僕のせいだ」

「……どういうことだ。あれは鹿沼の仕業だろう」

 梅之助の身に関わる問題なら、到底捨て置ける話ではない。ただ、どうにもそれ以上の責任を感じているような声色だった。

「昨日言ったが、あの斑鳩という忍は僕の兄なんだ。最初から鹿沼にいたわけじゃなく、元はれっきとした宮の忍で」

 ほんの短く言葉を切る。

「花岡流を継ぐはずだった」

 沈んだ声だった。麓丸は振り向かず、言うに任せた。

「君は、僕の名前を知っているか?」

「波斯とかいう、キザったらしい」

「ふ、そうかもな。でも意味までは知らないんじゃないか」

 花岡はゆっくりと語りはじめた。

「まだ幼かった頃だ。僕はどこかの市場を歩いていた。屋台や出店が軒を連ね、がやがやと人がごった返している。大人ばかりだから、ぶつかられて転んだりした。どうしてそこにいたのかはわからない。でも、とにかく僕はお腹が空いていたから、匂いにつられたんだろう。家に何もなかった。ある日誰もいなくなって、何もなくなった。記憶はおぼろげだが、もともと貧しかったんだろうな。留守番をほめられた覚えがあって、しばらく待ちぼうけていたけれど、とうとう両親は帰ってこなかった。当然だ。家財道具もない家に誰が戻ってくるものか」

 自嘲ぎみに笑ったが、笑ってみただけのことだった。

「気づけば市場にいた。そうだ、やはり空腹に耐えかねてのことだったらしい。ところが、お願いすれば何か恵んでくれるんじゃないかという淡い期待は、ことごとく打ち砕かれた。僕みたいな境遇の子供はめずらしくないらしく、どこも門前払いだったのさ。最初は美味しそうなものを売っている店、それが無理だとわかると、あまり繁盛していない店、荷車のそばで休憩する露天商、客待ちの馬引き、いろいろと聞いて回ったが、にべもなく断られた。

 お願いをするにしても、人が多いせいで、声を張らないと聞こえない。でも、急にその元気が出てこなくなった。途方に暮れ、軒下で行き交う人を見ているうち、親がいなくなった喪失感や実感がじわじわと湧いてきた。目の前を幸せそうな家族が通っていくんだ。本当は自分もああだったのにと思うと、泣きたくなったが、涙は出ない。喉も渇いていた」

 幼き日の記憶を思い起こしながら、花岡は淡々と語っていく。記憶が薄いからこそできることもある。

「どれくらいそうしていただろうか。やがて、立ち止まる人がいた。最初は話しかけられているのに気づかず、ぼんやりとしていたが、相手が身をかがめ、同じ目線になってわかった。それが父との出会いさ」

 ようやく声に明るさが混じる。父と呼ぶ人との、再会ではなく出会いだが、そこに後ろ暗さはないようだった。

「当時の僕には知るよしもなかったが、外国の市場で日本人の子供が一人で座っていては、気にもなるというものだ。おまけにぼろぼろの身なりをしていたんじゃね。だからといって、普通できることじゃない。みず知らずの僕を、父は日本へ連れ帰った。きちんと手続きをしたから、僕は正式に息子ということになる。いくら感謝してもし足りない。実の両親へのうらみも今はないんだ。父のおかげで僕は生きてこられた。だから出会った地、ペルシャを意味するこの名前は、大事にしている」

 キザ呼ばわりして多少ばつが悪かったが、本題はこれからなのだろう。花岡は続ける。

「恩に報いたくて、家の手伝いをたくさんやった。本宅の洗濯や掃除はもちろん、道場の雑巾掛けを毎朝した。出入りの職人に頼んで、道具の手入れも教えてもらった。清潔な衣料と暖かな食事がある幸せというのは、決して当たり前じゃない。しかも学校にまで通わせてくれるんだ。父は働けと言ったことは一度もないけれど、僕が何かしていても、止めはしなかった」

 麓丸の頭に我が家がよぎった。父に強制されたことはない。好きなようにやってみろとも言わない。なのに自身は、家族のために望まぬ仕事をやっている。それがどれほどのことか。

「僕にはひとつ愉しみがあった。庭の掃き掃除をしている時、門下生たちの練習をこっそり覗くことだ。基礎訓練もそうだが、とりわけ好きなのは、竹刀を持った模擬試合。そして僕の視線は、いつも兄に注がれていた。

 花岡家の嫡男ちゃくなんとして将来を嘱望しょくぼうされていた兄は、僕の目にも、一番熱心に鍛錬しているように映った。慢心もなく、跡取りの責務に釣り合うよう努力していた。父が突然連れ帰ってきた僕に対しても、決して邪険に扱ったりしない。父は早くに妻を亡くしているから、今までずっと二人だったところへ急に他人が増えて戸惑いもあったろうに、よく受け入れてくれたものだ。かといって特別扱いもせず、ふとした時にやさしさが垣間見える。そういうところは父に似ていたかもしれない。僕は兄を尊敬していた」

 剣術流派の名門である花岡流は、表向きただの剣術指南所だが、忍という裏の顔がある。その跡継ぎとなれば、二つの道を生きるのが必定ひつじょうであり、どちらの修行もこなさなければならない。並大抵のことではなく、名門たる所以ゆえんでもあった。

「ある日、幼心にほうきを持って、剣術の真似事をしているところを、父に見つかった。掃除用具を遊びに使うなと、怒られる予感がしてびくびくしていたが、近づいてきた父は、黙って僕の構えや姿勢を正すと、一歩下がってしばらく眺めた。それから僕に『やってみるか』と言ったんだ。驚きのあまり箒を取り落としたよ。でも、すぐに頷いた」

 昨年の忍者協会杯で応援していたのは、花岡の父だった。関係が良好なのは本当なのだろう。だからこそ、傍目にはわからないものが介在している。

「翌日から僕は稽古に参加した。大層な話かもしれないが、憧れの場所だったから、厳しくとも頑張れた。でも大きな理由としてあったのは、やはり兄の存在だ。他の門下生からの信頼も厚く、下級生が相談に行っているのを何度見たことか。僕も話しに行きたいが、なかなか割り込む隙ができない。それでさみしく思っていると、すっと現れ、色々と教えてくれた。兄はよく、正しくあらねばと言っていて、思えば僕が正しさを求めるようになったのも、兄の影響だろう。未だにわからないがね……」

 人は往々にして、時と場合による、人それぞれ、などと言って納得させようとするが、それは話を終わらせるための方便でしかない。言われなくてもわかっていることだ。踏まえた上で、本当の答えを探している。胸のつかえにさいなまれても、逃げたくないのだとしたら。

「何年かして、兄は百人抜きの儀に臨むことになった。跡を継ぐにふさわしい者として力を示す、花岡家に伝わる儀礼さ。文字通り、百人の門下生を打ち倒すという過酷な試練を前にしても、兄は落ち着いていたが、その内なる熱は、獅子奮迅たる戦いぶりから見てとれた。父に再婚の意志はなく、正統な後継者は自分ただ一人。きっと幼い頃から、計り知れぬ重圧があったに違いない。でもその時の僕は気づかず、ひたすら出番に備えていた。兄の背を追っていくうち、いつしか道場で二番手になっていた僕は、百人目の相手だったんだ」

 花岡を縛っていた縄が、ぎりりとしなった。腕に食い込もうと、こぶしは握りしめられたままだった。

「最終戦は真剣で行われる。竹刀とは比較にならない緊張感であり、覚悟を試すにはうってつけなのだろう。だから僕も、全力で応えると決めていた。

 九十九人と戦った兄は、余力も少なく、さすがに息が乱れていた。それでも、構えは崩れない。刀と刀が幾度もぶつかり合った。相手は満身創痍のはずなのに、気迫に押され、いつの間にか互いに最後の居合いを放つ構えに入っていた。

 そこで、僕にはわかってしまった。

 ずっと兄を見てきたんだ。こういう時、兄がどの足から踏み込み、どの角度で、どの機に刀を抜くか、読めてしまった。しかし、だからと言ってわざと負けるわけにはいかない。そのような勝利では、誰も跡継ぎとは認めないだろう。たとえここで負けてしまっても、兄なら立ち上がれる。そう僕は、無責任にも信じてしまった。相手の初撃をかわし、返す刀で切っ先を突きつける。それで決着がつく。そのはずだった。

 放たれた斬撃は読み通りの軌道を描いた。力のかかる方向がわかっていれば、打ち払うことも不可能ではない。刀を失った兄は、回避するか動きを止める。そう思っていた。払い、刀を振り下ろし、顔の前で止める。そのはずだった。

 ところが、かつて見たことがないほど兄は狼狽し、よたよたと刀を追いかけ飛び込んできた。すでに僕は振り下ろしている。必死に腕を止めようとしたが、思いのほか兄が速く、横をすり抜けるかと思われた。

 そうしてほんの一瞬、僕が安堵した時、兄の足がもつれた。

 感触は覚えていない。ただ、足から鮮血を滴らせながら、兄が僕を見ていた。呆然と、ただ見ていた」

 納屋の中がしんとした。緩慢に埃が舞いおりる。結末は見えてきたが、花岡はやめなかった。

「以来、兄は足を悪くした。知っての通り居合いは踏み込みが肝だ。それがなくては、花岡流とは呼べない。跡を継げなくなった。父が励ました。でも駄目だった。兄がそこまで張りつめていたことに、誰も気づいていなかった。きっと直接的な圧力じゃない。期待や当然という名の空気に、長らく侵されていたんだ。その日全てが破綻し、崩れ去った。

 家を出て行こうとする兄に追いすがった時、かつての兄はどこにもいなかった。深い憎しみだけを拠り所にしていた。まして、よりにもよって僕に情けなどかけられたくなかっただろう。突き飛ばされたきり、いつまでも立ち尽くした。そうして長い間、僕は動けなかった」

 口をつぐみかけたが、ここでやめれば二度と開けない気がして、なおも言葉を紡いだ。

「これでわかったかな。兄が、斑鳩が鹿沼に堕ちたのは僕のせいだ。つまり君の弟がさらわれたのも、元をたどれば僕のせいなんだよ。こんなことで罪滅ぼしにはならないだろうが、せめて洗いざらい話さねばと思ったんだ。まったく君のいう通りさ。宮の忍らしさなど、本当は関係ない。ただ宮の忍という枠があれば、正しさの基準ができるから、それに甘えていただけなんだろう。昨日、肝心なところで刀を下ろせなかったのがいい証拠だ。結局僕は徹底しきれない。行動のない正しさなんて、言葉に過ぎないのにな……」

 話が終わると、それまで黙って聞いていた麓丸は、さっと振り返り、花岡の前までやってくると、憮然ぶぜんとしてにらみつけ、いきなり振りかぶった。花岡の額に、渾身の頭突きが炸裂した。

 意味不明な上、とてつもなく痛い。顔を押さえたくとも、縛られているので身悶えするしかなかった。

「な、なにを……」

「うるさい! 長い!」

 絞り出すように言ったが、間髪いれずに怒鳴られた。

「えええ……いや、僕けっこう大事なこと話したと思うんだけど」

「知るか! 長い!」

「えええ……」

 麓丸はつま先を差し向けながら、大いに怒りをぶちまけた。

「長い! もうとにかく長い! 聞いてねえよ。よしんば聞いたとしてそこまでは聞いてねえよ。だいぶ序盤で展開わかったよ。ああ、こいつ傷つけちゃうんだろうなって。予定調和だよ蛇足だよ。要は、いいとこの坊ちゃんが挫折して不良になったってことだろ。よくあるよくある。仮にそこを乗り越えても、そんな奴は遅かれ早かれへこたれてたよ。それよりおれが聞き捨てならないのは、梅之助のことだ。まったくどんな理由があるのかと思えば、構えて損した。いいか、梅之助がさらわれたのはおれの不備だ。おれの警戒が足りなかったというだけなんだよ。それをおまえは、僕のせいだなんだと思わせぶりな態度でよくもまあ。おれはよく落ちこぼれだと言われるがな、いちいち人のせいにするほど落ちぶれちゃいない。見くびるな!」

 花岡はよくわからなくなった。確かに怒られても仕方ない話をしたつもりだったが、怒られる方向性がおかしい気がする。何か中心にあるものがあべこべになっているんじゃなかろうか。そう思ったが、やはりよくわからない。

 ただひとつわかったのは、麓丸にとって自分の話は長かったということ。言いかえれば、あまり興味がなかったということだ。

 いくら当人が悩んでいても、他人からすれば瑣末な問題でしかない。そんな考えがあることは知っていたが、ここまで堂々と言われると、もはや笑うしかなかった。一度噴き出すと、もう止まらなかった。

 高らかに声をあげ、身をよじって花岡が笑う姿を、麓丸は気味が悪そうに見ていた。「気味が悪いぞ」とも言った。

「いやいや、すまない。どうしようもなくってね」

 そこからまたしばらく笑い、腹がよじれ、涙目になって、ようやく治まった。

「さて飛騨くん、ここをどうやって出ようか」

「急に真面目になられると余計に気持ち悪いな」

 忌憚なく感想を述べてから、麓丸は扉を示した。

「そろそろのはずだ」

 やがて、隙間から細い金属が差し込まれた。近づきながら、扉の向こうで見るに耐えない形相をしているであろう使用人に、麓丸は呼びかける。

「よくやった。遅かったから減給な」

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