6-4節

 全速力で逃げた。たったの一突きすら受けることは許されない。致命の一撃を持った兵隊が、陣をなして迫りくるのだ。衣服の下で冷たい汗が風を切った。力まかせに胸を打つ早鐘の重さが、恐れの多寡たかを告げていた。

 木陰から木陰に身を移そうと、急な斜面を下ろうと、的確に追尾してくる。方向を変えるたびに波打つ影は、一つの生物のようだった。いずれ体力の尽きるこちらとは違い、地の果てまでも追って命令を遂行しかねない執念を感じた。

 人のいない山道に出た。しばらくはまっすぐな道だ。そして未だ、愚直なまでの猛追は続く。麓丸はこの機を待っていた。同時に癪でもあるが、肘で花岡を押し、手裏剣を見せると後ろへ投げた。その瞬間に察した花岡は、これも癪に思いながら印を結んだ。連投された手裏剣を避けるため、蜂の陣形が割れる。だが、攻撃は拡大した。油に浸した木の葉を添付させた手裏剣は、炎の輪となり、さらには渦となって大群を焼き払ったのだった。

 一転攻勢。すかさず二人は引き返した。第二陣、三陣と現れるも同じ手で焼いていく。手裏剣の残弾がなくなってからは、クナイを横回転させて代用した。かつ山林に燃え広がらないよう、射出角度も計算づく。地味ながら麓丸の投擲技術は卓越しているのだ。

 先ほどの場所では、虚無僧が腕組みをして立っていた。打つ手がなくなったかそれとも。近距離で蜂を召喚されると厄介であり、考える暇はない。ぐっと地を蹴った花岡は、高速で抜刀した。

 しかし、その刃は男の肉体に届かなかった。代わりに深編笠が落ち、相貌そうぼうが露わになる。

 その眼には、無機質な光沢があった。眼は合うが視線は合わない。どこを見ているかわからぬ茶褐色の瞳の奥には、六角の網が張られていた。強靭な力で噛み砕くのだろう、横に裂けた顎は、いかにも鋭く尖っている。そして不愉快そうに、左右の触角が震えていた。

 形状そのものは図鑑で見た通りでも、人の大きさともなれば、まるで異質に感じる。眼前で毛羽立つ蜂の顔は、二人を怯ませるのに充分な衝撃を与えた。

 さらには、先ほど尺八を押さえていた指がなくなっていた。手の甲も、手のひらも、手首も指紋もない。あるのは刺す器官だけ。すなわち腕全体が鋭利な針と化していた。花岡の刀を止めたのはこれだ。作務衣の下がどうなっているか、あまり考えたくない。

 両腕の突きが花岡を襲った。すさまじい速さであり、しかも蜂の特性そのままなら、かすり傷でも致命傷になりうる劇毒がある以上、回避に専念するしかない。わずかでも集中を切らせば終わりだ。居合いは抜刀の刹那にこそ真価を発揮するが、刀を鞘に収める余裕すらない。基本的な剣術の心得はあるものの、劣勢を覆すほどではなかった。

 クナイを持って麓丸が加勢する。だが、これもさほど効果はなかった。相手が徒手空拳ならまだしも、射程で大幅に負けているため、攻撃を分散させるくらいが関の山だ。複眼による視野の広さで、人間相手なら有効な死角からの攻撃も防がれる。近接戦闘においては、かなり分が悪いといえた。

 しかし、一つだけ勝ち筋があった。火遁の術である。ふよふよと燃やしがいのある触角が、先ほどから揺れているのだ。ただ、印を結ぶには、どうしたって二秒はかかる。時間を稼ぐ必要があった。かといって花岡は麓丸に頼みたくない。麓丸も花岡を頼りたくない。わざわざ説明しなくても、意地を張っている場合じゃないことはわかっている。

 でも、なんかやだなあ。という、如何ともしがたい気持ちを拭いきれぬ二人がとった行動は、いたって単純だった。

 黙ってやることである。

 花岡が一歩下がり、麓丸が割り込む。横から攻撃していた時と違い、真正面に立つと不気味さが倍増した。さらに己のみに向けられる二本の針たるや、溢れんばかりの殺意を持っており、急所ばかり狙ってくる。わずかな時間といえど、花岡の苦労がわかった。

 クナイを弾かれた麓丸は、隠し剣わさび醤油を射出した。さすがに想定外と見え、まぶたのない巨大な眼は避けきれない。そして、動きのにぶった蜂人間めがけ、術が発動する。ほとばしる炎に激しくもがきながらも自分たちを探し、いつまでも針を振り回す姿には、怨念すら感じた。

 やがて場には、傷ついた杉の木が数本と、身をひくつかせて横たわる蜂人間が残った。焦土と化した頭部は、原型は変わっていないものの、火炎の残滓ざんしたる灰が惨状を物語っていた。もう動けないだろう。殺しはご法度。たとえ相手が人間じゃなくとも変わらない。

 大きく息を吐いた二人は、やや呆然と見下ろしていたが、どちらともなく目が合うと、顔をそらした。敵を倒してもそれはそれ。水に流す流さないという話でもない。

 ただ、ずっとそうしているわけにもいかず、花岡は虚無僧の衣服をさぐった。宝の番人なら、何か手がかりがあると思ったのだ。

 その時、ぴくりと蜂の体が動くのを麓丸は見た。

 気付いた時には飛び出していた。

 天地が横転し、それから体勢を立て直した花岡の視界に、自分の草履ぞうりを掠めた蜂の針と、肩口を押さえて呻く麓丸の姿が映った。

「飛騨くん!」

 すぐさま駆け寄ったが、抱き起こしたのも束の間、ふっと麓丸から力が抜けた。呼びかけても返事はなく、その額からは汗がにじんでいる。

 歯を噛み締め、柄に手をかける。一刻も早く敵を倒し、治療をせねば。そう思い、猛然と立ち上がった花岡に、眼前の光景は絶望を告げた。

 虚無僧の大群が、こちらを見ていた。

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