6-3節

 同神社には、二荒霊ふたられいせんなる泉がある。ここの霊験あらたかな名水には「知恵がつく」、「目の病を治す」、「若返る」などの効能があり、この水によって作られた酒は、銘酒になるとも言われている。とりわけ「知恵がつく」効果は、現状の麓丸たちにとって、ぜひあやかりたいものだった。

 親切にも無料で汲めるが、隣接するカフェにてこの霊水を使った品が提供されていると知った二人は、休息も兼ね、店内で今後の方針を相談することにした。

「もう本社は望み薄だな」

 抹茶をぐいと飲んで麓丸が言った。

「怪しいところはあらかた回っただろう」

「しかし見たまえ飛騨くん、中宮祠には宝物館があるみたいだぞ」

 手もとの冊子を示して花岡が言うも、読み上げながら麓丸は気落ちしていった。

備前長船びぜんおさふね錫杖頭しゃくじょうとう八稜鏡はちりょうきょう……価値あるものなんだろうが、求める宝とは違う気がする。だいたい、展示されている中に、長年見つからなかった宝があるとも考えにくい」

 花岡の気勢も削がれた。

「……もっともだな。やはりこれじゃ埒が明かない。暗号を解かないことには」

「闇雲に探すのは無理がある。かといって、あまりぐずぐずもしていられない。師匠に確認したが、あっちも手がかりなしだそうだ」

 自然、ため息がでる。暗号とのにらめっこが始まった。とは言え、閃きでどうにかなる問題ならいいが、特殊な知識を要するならお手上げだ。などと、脳が枯渇している時ほど余計なことを考えてしまう。考えても仕方ないのなら捨て置き、その分を他に回すべきである。もっともそれは、都合よく制御できればの話であって……。

 妙案は湧いてこず、そうして堂々巡りに時間を空費していると、ふいに妙な音がした。

 途切れとぎれで弱々しく、人声とは異なるが、確かに聞こえる。不揃いの拍で鳴るそれは「漏れ聞こえる」といった方が近く、森のざわめきに混じるふくろうの鳴き声、あるいは矢に射抜かれた四足動物の呼気を想起させた。

 周囲にいる他の客や店員は、まるで反応すらしない。どうやら自分たちにしか聞こえていないらしい。妖の類であろうか。しかし最も危惧されるのは敵襲だ。鹿沼のやり口なら、市井しせいの者を巻き込むおそれがある。二人は店を出て、慎重に音を追っていった。

 深い杉の古木を分け入っていくと、ある木の根元に、一人の人物がもたれていた。性別がわからない。というのも、おじさん顔のおばさんなのか、それとも逆のケースなのかといった哀しい話ではなく、顔がすっぽり覆われていたからだ。作務衣さむえを纏い、深編笠ふかあみがさをかぶった僧侶。すなわち虚無僧こむそうがいたのである。

 ぐったりと傾いた首の下から挿入された尺八が、呼吸と共に微弱な音色を奏でる。押さえる指は動いているものの、よたよたとおぼつかず、とても演奏と呼べる代物ではない。息も絶え絶えとはこのことだ。

 救助の体勢に入ろうとする花岡の横で、麓丸は軽く頭を下げた。

「お邪魔しました。おれたちはこれで」

「待ちたまえ!」

 すかさず花岡が引き留めた。

「それはあんまりだよ。見るからに重篤じゅうとくじゃないか」

 急にしかつめらしい顔になって、麓丸は講釈を垂れはじめた。

「この多様化していく社会の中では、誰もが明日の我が身も知れん。常識は次々と塗り替わり、情報はめまぐるしく錯綜さくそうし、常態を見失うばかりだ。何物へも疑いをかけることのできる世界では、何が起きても不思議じゃない。逆も然りだ。よって、林に瀕死の虚無僧の一人や二人がいたところで、瑣末さまつな出来事な上、わざわざ関わる理由もない」

「そうだろうか」と、真剣に思い悩む花岡を尻目に麓丸は去っていく。はたと気づき、花岡は前に回り込んだ。

「やはりいけないよ飛騨くん。放ってはいけない」

「安心しろ。救急車くらいは呼んでやる」

「だからといって……冷たすぎやしないか」

「何が言いたい」

 麓丸はいらいらしてきたが、花岡はなおも言い募る。

「宮の忍は人の道を外れるべからず。それは任務中であったとしても変わらない。今ここで困っている人を置き去りにすることが、宮の忍としての振るまいと言えるのか? 正しい行いと言えるのか?」

 むかっ腹が立ち、麓丸も息を巻いた。

「伝わっていないようだが、おれはこの状況を不自然だと思っている。だから関わるべきじゃない。即刻立ち去るべきだ。人気のない山中に横たわる虚無僧、脆弱なはずの音が離れた茶屋にまで届き、しかもおれたちにしか聞こえない。怪しいことだらけだ。本当に弱っていて、自ら助けを呼んだのならいい。だから救急車を呼ぶ。待っている間おれたちは何もできない。医療の心得があるならまだしも、第一さっき言ったが、ちんたらしている時間はない。だから去る。何か問題あるか? だいたい、宮の忍がどうだと持ち出してるが、結局はおまえが気に入らないだけだろ。自分の正しさを人に押しつけるな。狭い正しさを鵜呑みにして、本分を忘れるのが宮の忍だというのなら、そんな間抜けはおまえだけで結構だ!」

「なにを!」

 今にも取っ組み合いが始まらんばかりに二人がにらみ合っていると、高らかな音が響いた。気がつけば虚無僧がまっすぐに立って、尺八を構えている。

 深編笠の向こうから、くぐもった声がした。

「神ノ宝ヲ脅カス不逞ふていノ輩……排除スル!」

 男は尺八を地面に突き刺すと、壊れかけの通信機器のような、ひどい雑音混じりの声で念仏を唱えはじめた。後方で知り合いの浮遊霊らしき断末魔の叫びが聞こえた気がしたが、おそらく気のせいであろう。目の前の事態の方がはるかに切迫していた。

 尺八の穴という穴から、無数の黒い物体が出てきた。木漏れ日に照らされた各個体からは、だいだいしま模様が見てとれる。さらには耳をつんざく不快な音が幾重にも広がり、思わずたじろいだ。根源的な恐怖が呼び覚まされるその羽音が、自分たちに向けられていると知った時、二人は林の中へ駆け出していた。

 蜂の大群が飛来する。

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